冬茜の向こう側
颯大を空き教室に呼び出して以来、杉村さんたちの嫌がらせは鳴りをひそめるようになった。嫌がらせに飽きてきたのか、杉村さんたち自身も受験が近づいてそちらに熱心になったのか、ほかに理由があるのか……わからなかったけれど、落ち着いて過ごせるのは嬉しい。
十二月に入り、担任と保護者と生徒の三者面談が始まった。願書を出すのは年が明けてからだけれど、ここで受験する高校がほぼ決まる。
葉月と私は予定通り藤白の音楽科と特進科。藤白は願書に第二志望まで書けるので、それは葉月も私も普通科にした。
面談期間の最終日に、颯大と蓮の面談があった。そこで正式に藤白からの特待の話があるはずだった。葉月と私は公園でふたりの面談が終わるのを待つ。すっかり寒くなったから、葉月も私もセーラー服の上にカーディガンを着て首にマフラーを巻いている。手袋をした手にときどき白い息を吐きかけて、どきどきとふたりを待つ。
太陽が西に傾くころ、颯大と蓮は公園にやってきた。いつもと変わらず楽しそうにしゃべりながら歩いてくる。暗い空気は感じない。これは? と、期待に満ちた私たちの視線に最初に応えたのは蓮。
「特待、とれた」
「おめでとう!」
ぱちぱち、と拍手して、私たちは颯大を見た。颯大は浅く笑った。
「俺はダメだった」
一瞬の沈黙。
「え、なんで」
思わずそんな言葉が出た。
「去年、先輩とケンカしたのが、足を引っ張ったんだよ」
蓮が吐き捨てるようにそう言った。颯大が強い視線で蓮を見た。負けずに蓮が颯大を見返す。
「サッカーで特待落ちしたんじゃねえ、って話」
「そういう話なら、最後の体験練習で監督と話したとき、スポーツ科を断ったからじゃねえの?」
「話のあと、『正当防衛でも上級生とケンカするようなやつはやっぱり問題がある』みたいなことを監督とコーチが話してるのが聞こえたんだよ」
「だから、普通科を希望したのが気に入らなかったんだろ?」
「ケンカしなかったら違ったかもしれない」
「違わねえよ」
こんなふうに颯大と蓮が言い合うのを見たのは初めてで、なんだか気持ちが飲まれてしまった。葉月がとりなすように、
「……でも、一般入試で藤白を受けてサッカー部に入れば……」
言いかけると、颯大はもう一度笑った。
「第一志望、県北にした」
葉月も私も息を飲む。突然、なくなってしまった、四人で藤白、の未来。
蓮が小さく息を吐いた。
「高校でも颯大とサッカーできると思ったのに」
そのあとはいつもみたいなおしゃべりもなく、葉月と蓮が公園を去り、残った颯大と私はどちらからともなくジャングルジムに背中をもたれさせた。
何を言ったらいいんだろう。励ます? 慰める? ……ううん、そうじゃない気持ちが胸の中でもやもやしている。
先に口を開いたのは颯大だった。
「ごめんな、一緒に藤白にいけなくて」
地面を見ていた目を上げて、颯大を見た。颯大の目はいつも通りに曇りなく冴えて、私の中のもやもやがひとつ、クリアになった。
「ごめん、は私の方。颯大に、藤白のスカウト受けてほしい、ってワガママ言った」
颯大は驚いたようだった。
「そんなこと言ったっけ?」
「態度で言った。藤白はサッカーが強いよ、って推したり、颯大が体験練習に参加するのを喜んだりした」
困惑するような表情が颯大の顔に浮かぶ。
「綾原が俺と同じ高校にいきたいって思ってくれたなら、えっと、嬉しいんだけど」
「でも、颯大は第一志望を藤白じゃなくて北工にするんでしょ?」
ものづくりがしたい、という颯大の気持ちより一緒の高校に通いたい自分の願望を優先して颯大に押しつけたように思って謝ったのに、うまく言葉にできなくて、颯大を責めるような言い方になってしまった。あわてて、
「ごめん、そうじゃなくて……」
言い直そうとするけれど、ちょうどいい言葉が見つからない。焦っていると、
「……俺は、綾原と同じ高校にいけたらいいな、と思った。藤白で自分のサッカーを試したかったのもホント。特待からもれてがっかりしたし、俺が落ちて蓮だけ受かったのは悔しい。でも──」
颯大の冴えたまなざしが空を向く。
「ものづくりしたい、ってのもホントでさ。サッカーのことも、北工だってまあまあ強いから北工がもっと強くなるようにがんばるのもアリっていうか、意外と落ち込んでないのもホント」
そこまで話して、颯大は苦笑した。
「自分の気持ちを説明するのって大変だな」
それから、あのさ、と私に向き直った。
「サッカーって、パス一本で流れが変わったりするんだ。でも、ゲームは止まらないし、出しちゃったパスは戻せないから、後悔するより次を考えて走るしかないわけ。まあどんなスポーツもそうだろうし……吹奏楽もそんなことある?」
突然の質問に私は目を瞬かせた。吹奏楽の演奏……集中して吹いても音がきれいに出なかったり、もたついてしまったりするときはある。でも、演奏は止められない。切り替えて次のフレーズをがんばるしかない。
うなずくと、颯大はほっとしたように小さく笑んだ。
「特待はとれなかったけど、俺的にはまだゲームの途中っていうか……」
「……夢の途中?」
浮かんだフレーズが口に出ていた。颯大がえっと瞬く。鼻の頭をきゅっとこすった。
「いや、まあ……中二っぽく言うと、そうかも?」
はっ、葉月に続き颯太にも中二病認定されてしまった?
「だから、がっかりはしているけど、落ち込んではないっていうか……うん」
私の中二病発言に動揺したのか、颯大の言葉はそこで尻切れトンボに終わってしまったけれど。
不思議な気持ちになった。がんばったからって、必ず結果が望み通りになるわけじゃない。吹部のコンクールもそうだった。それでも、次を目指してがんばっていけばいいのかな。私の今の目標は藤白の特進科に合格することだけれど、夢は知らない世界を旅することで、それっていつまでも夢の途中かも……って、ぼんやり考えていたら。
「あと、高校が違っても綾原とつきあっていたい」
不意打ちに心臓がきゅっとした。颯大の顔を見ていられなくなって思わず目を伏せた。
「……私も」
ふわ。髪に軽く手が触れて、すぐに離れた。
ハッと顔を上げたときには、颯大はジャングルジムに手足をかけていた。あっという間に上りきって、いちばん上の鉄パイプに腰かける。
髪を風に吹かれて遠くに目をやっている颯大を、私はしばらく見上げていた。
心の中のもうひとつの『もやもや』がかたちになっていた。蓮が言った、ケンカのせいで特待がとれなかった、ということだ。二年の秋の三年生とのケンカ──颯大をシメようとした先輩がいてそれを返り討ちにした──うわさを聞いたときに深く考えずに、そうなんだ、ちょっと怖いな、と思って、そのままでいたけれど。
本当にそうなのかな。もっとなにか理由があったんじゃないのかな。春の教室で私を助けてケンカをとめてくれたときのように。
聞いてみたい。だけど、聞いていいことなのかわからない。いつか颯大が自分から話題にするのを待っていた方がいいかもしれない。今は……そばに行って、いいかな?
手を伸ばし、冷たい鉄パイプをつかんだ。
颯大はジムのてっぺんに平気で座っていたけれど、私は一段下に腰かけた。横につかまる鉄パイプがないと怖いから。颯大が見ているのと同じ方角を向くと、夕日が沈んだばかりのなだらかな山並みが見えた。空は藍色、山は深い緑、山の端だけに夕日のまぶしい茜色が残っている。
「私、幼稚園くらいのころ、山の向こうに何があるのか、ずっと不思議だった」
空と山と夕日の色がとてもきれいで、唇が思わず動いていた。
「夕日が山の向こうに沈むでしょ? 私たちの住んでいる世界は山のこっち側で終わって、山の向こう側には別の世界があるんじゃないか、って空想してた」
どこまでも広くて、虹がいくつもかかっているような……とまで言いかけてその言葉を飲み込み、私は颯大を仰ぎ見る。
「幼稚園の、ころだよ?」
そこ、大事。私の、知らない世界に行きたい気持ちの、原点だけれど。
颯大は私を見下ろして笑った。
「だけど、山の向こうはまた山なんだよな」
うわ、身もふたもない現実を突きつけられてしまった。でも、颯大の声も表情も冬の夕焼けみたいに透きとおって明るくて。
「俺も、そういうの、考えたことある。山の向こうは山だけど、めちゃくちゃいくつも山を越えたら見たことのない場所にいけるんじゃないかって気分も、まだある」
軽やかに胸が弾んだ。──颯大も山の向こうを想像したことがあるんだ。いつか現実の向こうの景色を見たい、って夢見ているんだ。ものづくりをしたい、ってそういうことなのかもしれない。何か新しいものをつくりだす……。サッカーで藤白へと気持ちが揺れたわけだけれど、そこが譲れないための北工志望なら、応援しなきゃね。私も藤白でがんばらなきゃね。
颯大は鉄パイプの上に立ち上がった。鉄パイプを蹴って、宙に飛ぶ。夕日の金色のハレーションが颯大を包んで、とても単純に──かっこいい。
膝を柔らかく使って着地したあと、ジャングルジムの横に置いてあったスクールバッグを取り、颯大は私を見上げた。
「帰ろう」
その声に応えて、私もふわっと飛び降り……たかったけれど、私の運動神経ではムリなので『よいしょよいしょ』とジャングルジムを下り、下から二段目の鉄パイプから、ぴょん、と地面に飛んだ。オリンピックの体操選手みたいに着地のポーズだけは決めた。
「16点! ……くらいかな?」
にっ、として、颯大に首をかしげてみる。3点くらいじゃね? なんて笑って返してもらう予定だったのに、颯大は黙り込んでしまった。
え、はずした? 慣れないことはするものではない?
私はもじもじと両手を下ろす。面白くなかったかもしれないけれど、ここは愛想笑いで流してください。
黙ったまま、颯大が片手を差し出してきた。私も黙ってその手を取ると、ぐい、と引かれた。よろけて、肩が、軽く颯大の胸に当たった。ぼそぼそっ、と耳に声が落ちてきた。
「かわいいのは、16点くらい、いくんじゃね?」
見開いた私の目に映るのは、颯大のネックウォーマーのグレー。
颯大の手が私の手を離す。くるりと私に背を向けた。
「いや、だから、帰ろう、綾原」
私はスクールバッグを急いで背負い、歩きだした颯大に並んだ。
「……16点って、百点満点の、ってオチ?」
そういう冗談だったら、私、一緒に笑う。
颯大は答えない。私を見ないでどんどん進む。遅れないように急ぎ足したせいか、心臓のリズムが速くなる。──というか、もし、体操の16点だったら、すごい高得点なのですが。
冷たい風が吹いているのに、体が熱い。
颯大がネックウォーマーを目のすぐ下まで上げた。
私もマフラーで頬を隠した。メガネ、くもっちゃったけれど。
ふたりして不審者みたいに顔を半分隠して歩いていく。
颯大は何もしゃべらない。私も。
家が見えたところで颯大は立ち止まった。ネックウォーマーに指先を引っ掛けた。グレーのフリースが下がって、見えるようになった唇が動く。
「……じゃな」
私はマフラーに顔を半分うずめ、メガネをくもらせたまま片手を小さく振った。颯大の後ろ姿が角を曲がるまで。いつもと同じように。いつもよりどきどきして。




