風と桜
校庭の桜が強い風に吹かれて一斉に花びらを散らした。
私がいるのは南校舎の三階だ。授業が終わって教室掃除の時間だった。校庭に薄ピンクの花びらが雨のように降る光景に目を奪われて、私は窓を閉めようとしていた手をとめる。
桜吹雪って、ただきれいなだけじゃなくて、知らないことが始まりそうな不思議な気持ちになるのが好きだった。子どものころは桜の花びらと一緒に風に乗って遠い世界に旅に出るなんて空想をした。中三の今でもそんな気分になることはある。見たことのない景色や知らない物語がすぐそこに近づいているみたいな。それで、うっかりと桜吹雪に見とれてしまっていたのだけれど。
「きゃあ」
突然、背後で女子の悲鳴が上がった。
振り向く。悲鳴の原因はすぐにわかった。ロッカー近くで男子ふたりが揉みあっているのだ。近くにいた女子はみんな素早く逃げていたが、男子はケンカを遠巻きにしている。そうして、『やめろ』と言ったり『やれやれ』と囃したり。
なんでケンカが始まったのか、びっくりしていると、逃げてきた女子のひとりが私の肩を強く押した。
「ぼやっとしてないで、ケンカとめなよ、委員長」
あ、そうか、昨日のホームルームで、私、委員長に選ばれたのだった。うわ、ひとりがロッカーからスクールバッグを引っ張り出した。振り回す。危ない。止めなきゃ。
急いで男子ふたりに近づいた。
「須藤くん、川崎くん……」
「うるせえ」
乱暴な声とともに、ぶん、とバッグが私目がけて投げられた。え? 足が竦んだ。とっさに目を閉じて顔を背けるのが精いっぱいで……。
どん。重くて鈍い音がした。が、体のどこにも衝撃はない。
薄く目を開けると、私の前にひとりの男子が立っていた。バッグは、どさり、と男子の足もとに落ちて。
男子が顔の前で盾にしていた左腕を下ろした。横顔が見えて、私の心臓がどきんと跳ねる。
新野颯大だ。
同じクラスになったのは初めてだ。けれど、彼のことは知っていた。ううん、この学校の生徒なら、ほとんどが新野颯大のことを知っているだろう。──去年の秋、部の先輩たちとケンカをして相手の腕を折ったって。
教室がしんとなっていた。ケンカをしていた男子ふたりの手は止まっている。ふたりを囃していた声もやんでいる。
「ケンカの原因は?」
静かになった教室に新野颯大の淡々とした声が通った。尋ねられ、ケンカをしていた男子ふたりは新野颯大におどおどした目を向ける。
「……だって、こいつが俺にくしゃみをかけて……」
「だから、わざとじゃねえ、って……」
ふん、と新野颯大は笑った。
「くっだらね」
……その通りだ。
ふたりの顔が赤くなった。互いに顔を見合わせた。
「あの、ごめん」
「いや、俺も、なんか……悪い」
それから、そろって新野颯大に目を向けた。
「颯大、ごめん。大丈夫?」
「別に」
答えはとても素っ気なかった。張りつめていた空気がほっと緩んで、成り行きを見ていたクラスメイトたちが掃除の続きにもどっていく。……新野颯大も。
私はすぐには動けなかった。ぼう然と突っ立っていると、
「礼夏」
大畑葉月が駆けよってきた。同じ吹奏楽部で一年のときから仲が良い子だ。ほかにも女子が何人か、大丈夫? と私を囲む。同時に、
「颯大が助けてくれるなら私が止めに行けばよかったー」
「でしゃばり委員長、役得じゃん」
くすくす。笑っている女子の声が耳に入り、ようやく頭が働いた。──私、助けてもらったんだ。新野颯大に。川崎くんが投げたバッグから。
葉月が笑っている女子グループをちらっとにらんだ。
「自分が『とめろ』って言ったくせに」
声は小さい。聞こえたら、面倒なことになるからだろう。周りの女子たちも見つからないようにこっそりとうなずく。
笑っているグループの中心メンバーは、私の肩を押した杉村さんだ。私を委員長に推薦した子でもある。委員長なんて雑用係はがり勉メガネにやらせておけばいいのよ、って仲間と笑っていたのは知っている。で、引き受けた役をがんばればがんばったで『でしゃばり』って言う……。それは、まあ、慣れているけれど。
さっきは怖かった。胸がまだどきどきどきしている。
「でも、ケガがなくてよかったよね。新野が助けてくれて」
やっぱり小さい声で女子のひとりが言って、集まった全員がうなずいた。慣れてはいても、言葉のトゲが痛くないわけじゃないから、寄り添ってもらうと痛みは薄らぐ。みんな、ありがとう。
ところで、さっき葉月の言葉にうなずいたときはしかめっ面だった女の子たち、今度は頬がゆるんでいる。……新野颯大の話だから、かな?
新野颯大が有名なのはケンカのせいだけじゃなかった。サッカー部のエースで、県代表に選ばれるほどの選手で、見た目もよくて女子に人気があるから、だ。朝礼で壮行会があったとき、私は壇上の新野颯大を生徒の列の後ろの方から、すごいなあ、と見上げていたっけ。男子には一目置かれて女子には人気、別世界の人だなあって。
私には接点すらない人だった。小学校は違う。中学でも一年、二年は別クラス。委員会や学校行事で同じグループになったこともない。
新野颯大のことを嬉しそうに話題にする女子はよくいたけれど、誰かとつきあっている、ってうわさは聞いたことがなかった。バレンタインデーに集団でチョコをあげた女子たちは、塩対応だったけれどそこがいい、ときゃっきゃしていた。なので、硬派ってやつなのかな、と思っていた。ケンカの話を聞いてからは、少し怖い感じもしていた。──生意気だって理由で部の先輩たちにしめられそうになったのを返り討ちにしたとか、相手がナイフを持っていたから腕を折っても正当防衛が認められたとか。
だけど、クラスメイトの危ないところを助けてくれる人だったんだ。私の前に立った新野颯大のきっとした横顔を思い出したら、なんだか落ち着かない気持ちになった。怖かったどきどきが変な感じに続いているような……。いやいや、とりあえず掃除の続きをしなければ。
「ありがとう。掃除にもどろう?」
葉月たちを促して動こうとしたとき、床に落ちたままのバッグが目に入った。片づけようと拾いあげて、ぎょっとした。──重っ。新野くん、こんな重いものをふせいでくれたの?
新野颯大を目で探した。机を運ぼうとして顔をしかめているのを見つけた。机から手を離し、左の肩に触れる。心配になった。この重いバッグ、肩に当たったのかな。私はケガがなかったけれど、代わりに新野颯大がケガをしてしまった? つまり、私のせいでサッカーの県代表選手にケガさせてしまった? どうしよう。
掃除とホームルームが終わり、新野颯大はリュック式のスクールバッグを右の肩に引っかけて教室を出ていった。今日は部活動のある日だから……。
「礼夏、部活、行こ」
葉月がそばに来て声をかけてくれたけれど。
「ごめん。ちょっと保健室に寄ってくかも。先に行ってて」
「保健室? かも?」
「遅れたら、先生にそう言っておいて」
きょとんとする葉月に『お願い』と手を合わせて、教室を出た。新野颯大を追って。
「新野くん」
階段を下りる途中で追いついて声をかけると、新野颯大の背中がびくっとした。肩越しに私を見上げる。なんだか用心深いネコみたい。話すのは初めてだ。緊張する。
「あの、保健室、行かなくて大丈夫?」
「……なんで」
「肩、さっき、バッグが当たって……」
新野颯大は片手で前髪を、くしゃっ、とつかんだ。舌打ちでもしたそうな顔に見えた。
「ごめんなさい」
とっさに謝っていた。やっぱり、私を助けたせいでケガをしたのだ。
「行こう、保健室」
顔を見ないで彼の横をすり抜けた。階段を下り切って保健室の方に廊下を進み……そっと後ろをうかがうと、新野颯大は少し離れて私のあとをついてきていた。
保健室には誰もいなかった。開け放した窓から入る風に、白いカーテンが揺れているだけ。
ほっとしたのは、人目を気にせずにお礼とお詫びができると思ったからだ。
「さっきはありがとう」
「え?」
不思議そうに聞き返された。目が丸い。
「あの……ケンカをとめてくれて、というか……」
かばってくれて、と続けそうになったけれど、その意表を突かれたような表情を見たら──新野颯大はただケンカをとめたかったのであって、その結果、ホントにたまたま、私を助けたようなかたちになってしまっただけのでは? という考えが、ぽん、と頭に浮かんだ。『助けられた』つもりになって保健室に連れてくるまでしちゃった私、自意識過剰だった?
「……というか、ケンカをとめるとき、バッグが肩に当たっちゃって、ごめんなさい」
動揺して、変な日本語になってしまった。
新野颯大の丸かった目が瞬き、それから、きゅっと細くなった。笑って。
「それ、綾原が謝ることじゃない」
笑った顔は無防備に子どもっぽかった。
話したのも初めてだけれど、こんなに近くで新野颯大の顔を見るのも初めてかもしれない。女子人気が高いだけあって顔立ちは整っている。甘さは控えめかも。切れの長い二重の目が印象的だ。瞳は乾いた冬の空みたいに明るく冴えて、うわさで想像していたのと違う感じで……。
はっ、何を見つめているんだ私。
「あの、肩、湿布がいいかな?」
「いいよ。ほっとけば治る」
「え? じゃ、なんで保健室に来たの?」
思わずそう言うと、新野颯大の顔に困ったような表情が浮かんだ。
「……綾原が行こうって言ったから」
ぼそぼそっとつぶやいて、スツールに腰かける。私に背を向け、学ランを脱いだ。シャツも、校則違反の黒いТシャツも。
肩に湿布を貼るためにはまったくもって必要な行動だ。なのに、思わず目を逸らしていた。左の肩が赤くなっているのはちらっと見えた。薬棚から湿布をとりだして、一糸まとわぬ背中をなるべく見ないようにして、渡す。新野颯大は湿布のフィルムを無造作にはがして肩にぺちっと貼ろうとして……。
「あれ?」
失敗した。丸まった湿布をもとに戻そうとするけれど、うまくいかない。むしろぐちゃぐちゃになっていく。
弟の姿が浮かんだ。少年団でサッカーをやっていてときどき湿布のお世話になるのだけれど、自分で貼ろうとするとだいたいこんな感じになる。早めに助けないと湿布が一枚ムダになる。
「湿布、貸して」
困った顔で返された湿布を、両手でぐっとひっぱって平らにする。手を離すとまたぐちゃぐちゃになりそうなので、
「貼っちゃっていい?」
「あ、うん」
ぺた。赤くなっているところに一気に貼りつけた。
「……りがと」
小さく言った新野颯大の顔が湿布を貼った肩より赤い。
「俺、湿布とかバンソーコー貼るの苦手で……」
「あ、弟も」
「弟いるの?」
「うん。新野くんは?」
「姉ちゃん」
あれ? 呼び方かわいい。『姉貴』とかじゃないんだ。うわさだけで『硬派で少し怖い男子』と想像していたのが申し訳なくなった。勉強ができるからがり勉、なんて決めつけ、自分もいやなのに。
私の前にいるのは、クラスメイトのケンカをクールに収めることができるのに、湿布がうまく貼れなくて、それが恥ずかしくて赤くなる男の子だった。彼となんてことのない会話をもっと続けたいような気持が心の片隅にうずうずっと生まれる。
でも、もう部活に行かなくちゃ。私も、新野くんも。新野くんが服を着るのをじっと待っているのも変だから、
「じゃ、私、部活に行くね」
「綾原」
ドアに向かおうとすると、あわてたように呼び止められた。振り向くと、シャツに袖を通した新野颯大がまっすぐに私を見ていて。
「委員長だからって、男子のケンカをとめなくていいから」
気持ちが、ずん、と落ちた。杉村さんグループの『でしゃばり委員長』って声がよみがえる。新野くんにもそう思われたのか。
気にするとへこむだけだから、こんなときは笑ってやり過ごそう。
「でしゃばっちゃったかな」
てへへ、って感じ。早く部活に行って楽器に集中しよう。だけど、
「そうじゃなくて。杉村に、ケンカをとめろ、って言われてただろ」
早口に言われて、つくり笑顔が消えた。聞こえていたんだ。
「あいつら、面白がってるだけだから」
「……いや、でも、あのままじゃ危ない、って自分でも思ったから……」
「綾原のそういうまじめで一生懸命なところ俺はすげえ好きだけど──」
ひと息にそこまで言って、新野颯大はハッと口をつぐんだ。
──ざあっ。
風が強く吹いた。カーテンが翻り、開け放した窓から桜の花びらが蝶の群れのように飛び込んだ。
花びらが舞う中で、新野颯大は自分の口を押えて固まっている。私は思考停止してそんな彼を見つめている。
イマナンテ。リカイフノウ。
「……部活、行くね」
もう一度小声で言った。新野颯大の反応は確かめず、急いで自分のスクールバッグを背負って保健室を出た。
廊下を走らない、は学校生活の基本ルールだ。だけど、私は全力で走っている。保健室は南校舎の一階で、吹部が活動する音楽室は北校舎の三階。渡り廊下を走り、階段を一階半上ったところで息が切れて立ち止まった。
踊り場の壁にある鏡に自分の全身が映っていた。メガネ、黒髪前下がりボブ。顔立ちはそれなりだと思うけれど、華はないかな。紺のセーラー服は似合っていると思う。
──俺はすげえ好きだけど
はっきり聞こえたけれど、空耳か聞き間違いだよね。そう自分に確認しようとして、もうひとつの可能性を思いついた。まじめな人間性に好感を持っている、という意味だ。こっちの方がムリがない。そうだったら……頬がゆるんだ。
──嬉しいです、うん。
昨日までの新野颯大は知らない人。今日の新野颯大はなんだかどきどきする人だった。




