桜、舞い散る
春休みが半分終わり、勉強机にある卓上カレンダーが三月から四月になった。何かでもらった、花の風景写真のカレンダーだ。三月は菜の花だった。四月は、桜。
カレンダーの中じゃだけじゃなく、街のあちこちでも桜の花が綻びはじめていた。花びらの薄紅色は出会った春の記憶を呼び覚ます。けれど、去年の胸を割くような痛さとは違って、滲みるように切ない。
──颯大
何しているだろう。サッカーかな。友だちと遊んでいるかな。それとも、宇宙工学を目指す勉強? 私は夏休みにイギリスに語学研修に行くことになったよ。いろいろ準備がある。英語ももっとうまく話せるように練習するんだ。
桜色の景色の中に、颯大の思い出がとりとめもなく浮かんで消える。ケンカをとめようとした私を助けてくれた颯大、一緒に歩く帰り道のなんてことなくて楽しい会話、それから……ふと、疑問が浮かんだ。
サッカー部の先輩とのケンカのことだ。──私、いろいろ動揺していたし、自分を責めるのに忙しくて不思議に思う余裕が今までなかったのだけれど──ケンカのそもそもの原因は私が先輩を注意したことだったのに、なぜ、うわさでは『先輩に生意気だとしめられそうになって返り討ちにした』になっていたのだろう?
語学研修のためのパスポートをつくりに市役所に行った。市役所の駐車場にも桜が咲いていた。今年の桜は早くて、春休みのうちに散ってしまいそうだ。
私が先輩をむかつかせたことが颯大のケンカの原因だったのに別のうわさが広がった理由は、考えてもわからなかった。
……もしかして、蓮は理由を知っているだろうか。聞いたら教えてくれるかな……。
春休みが終わる直前に、蓮からメッセージが届いた。
『休み明けの課題テスト、数学やばい。明日オフだけど、綾原はヒマ?』
ヒマだ。漫研部は春休み全部オフだ。
最初は学園の図書館で勉強しようかと考えたけれど、春休み中は部活動以外校舎内立ち入り禁止だった。なので、地元の公民館で勉強した。なんとか終わったときはお昼を過ぎていて。
「腹減った。バーガー食べてかない? 勉強のお礼におごるよ」
「復習になったから、お礼はいいよ。でも、確かにお腹は空いたね」
というわけで、駅前のバーガーショップに入った。学園祭の代休の日、蓮と勉強した場所だ。そういえば、メッセージのやりとりは何度かあってクリスマスに偶然会って少し話したこともあったけれど、こうやってちゃんと向かい合うのはそのとき以来だ。
あれは六月だったから……あと少しで十か月になる。改めて蓮を見ると、長めだった前髪が短くなっている。身長も少し伸びかも? ──なんて思っていたら、
「綾原、ちょっと変わった?」
バーガーの包み紙を開きながら、蓮が言った。
「髪が伸びたから?」
とっさにそう返した。自分も蓮の髪を見ていたから。だけど、
「いや、雰囲気」
思いがけなくて、心が揺れた。……そう? そうだとしたら、
「おかげさまで」
軽く、頭を下げる。蓮には励ましてもらった、と思う。同時に、あ、と気がついた。葉月にはもう報告したけれど、蓮にはまだ話してない。
「私、夏休み、イギリスに語学研修に行く。奨学金も、もらえた」
「語学研修?」
蓮が怪訝そうな顔をした。もしかしたら、スポーツ科では語学研修は興味を持たれていないのかもしれない。葉月の音楽科でもそうだったみたいだ。目指している方向が違うものね。ていうか、普通科でもそうかも。私もそうだったけれど、なんとなく、特進科が対象のプログラムだととらえられているようだ。漫研部の先輩も参加者は特進科の生徒ばかりだと言っていたし。
普通科のくせに、って言葉が浮かんだ。私の耳には直接届かなくても、どこかで、誰かが、ささやくかもしれない。けれど、どの科でも参加できるプログラムなのだから、問題ない。
スマホを開いて、蓮に学園からのメールを見せた。蓮は、へえ、と声を上げる。
「イギリスかあ。奨学金も、もらえるんだ」
「うん」
「すげえじゃん」
蓮が彼らしく片頬で笑って、柔らかな空気が流れた気がした。
ふと、今なら聞いてもいいんじゃないか、と感じた。颯大のケンカの本当の理由が、うわさになって広がらなかったわけ。
だけど、すぐに後悔した。聞いたら、蓮が目をそらして黙り込んでしまったから。
「ごめんなさい、答えなくていい……」
急いで質問を取り消そうとした。けれど、
「長くなっても、いい?」
たずねられて、うなずいていた。蓮は残ったバーガーを口に入れ、炭酸で、ごくん、と飲み込んでから、
「ええと、まず……昼休み、綾原が図書委員をやっていたとき、サッカー部の三年生のグループが図書室でふざけていて、綾原が『静かにしてください』って注意したんだ」
う、うん。自分では覚えていないけれど、杉村さんたちもそう言っていた。
「ちょうど俺と颯大も図書室にいて──あのころ、颯大、図書室でときどき本を借りていたんだよな。二年のときはクラスが同じだったから俺はそれにつきあってて、それでたまたま綾原が先輩たちを注意したのを見かけて……」
蓮の視線が何もないところにふっと浮いた。過去のその場面を思い出しているように。
「その先輩グループ、サッカー部の中でも評判が悪くてさ、注意されて図書館を出ていくときの雰囲気がやばそうであとを追ったら、裏庭で『ナイフあるから、あの女子ちょっと脅かしてやろう』って相談してて……」
どきっ、とした。あの女子、って私だよね? ナイフで脅かす?
「颯大が出ていってとめようとしたから、俺は『ちょっと待て』って言って、同級生のサッカー部員を呼びに行ったんだ。天気が良ければ、だいだい何人かは外でバスケしてたからさ。向こうは三人だったから、こっちも人数集めなきゃ、と思って。だけど、仲間を連れてもどったら、なんつーか、もう終わってて」
裏庭に駆けつけた蓮とサッカー部の仲間たちが見たのは、地面に倒れて泣いている三年生ひとりと、それをぼう然と見ている三年生もうふたり。颯大の姿はない。
何がどうしたのか、立っている先輩ふたりにたずねると、『やめてください』って出てきた颯大に、三年生がナイフを見せて脅かそうとして、颯大は素早くその三年生の腕に腕をからめて地面に倒れたのだそうだ。そしたら三年生が悲鳴を上げて、泣き出して。颯大がいないのは保健室の先生を呼びに行ったからで……。
「颯大、めっちゃ運動神経いいからなー。先輩の手からナイフを落とそうとしたらしいんだけど、倒れたときに先輩の腕にふたり分の体重がかかっちゃったみたいで」
ぽき、っと骨が折れてしまった。
「颯大が保健室の先生を連れてきて、救急車を呼ぶことになった。救急車を待っている間に、先生が落ちたナイフを見つけて『これは誰のナイフ?』『あなたたち後輩に何をしようとしたの?』って先輩たちに次々と質問して。先輩たちも、実は図書委員の女子を脅そうとしていました、とはさすがに言えなかったみたいだな。俺らも、颯大が不利になったらいろいろ証言するつもりだったんだけど、そうはならなかったもんで何も言わないでいたら、颯大は悪い先輩から身を守ろうとしただけ、骨折は事故、ってことで保健室の先生が納得しちゃって、それが先輩にシメられそうになって返り討ちにしたってうわさになって広まって……」
蓮は、ふう、と息を吐く。
「それで、ケンカのホントの理由は、その場にいたサッカー部員だけが知ってる感じになった」
少し沈黙して、蓮はふと思い出したようにつけくわえる。
「……サッカー部のやつが颯大に『真相を知ったら、綾原、颯大にほれるんじゃね?』って冗談を言ったとき、颯大が『誰にも、絶対に、言うな』ってガチな顔で釘をさして、みんな『言わない』って約束したのもあるかな……ホントにみんな誰にも言わなかったんだよな」
胸が締めつけられるようにぎゅっとする。
「私の気持ちの負担にならないように?」
蓮が笑った。
「恥ずかしかったんだろ? まあ、しばらくしたら、本人の中では、そんなこともあったなー、くらいになっていたと思うけど」
それ、少しわかる。颯大は終わったことより次のプレー、だから。
でも、胸はぎゅっとしたままだ。
「……話してほしかったかな」
「うーん、綾原はそうかもな」
「ウソみたいに親切。ナイフを持った先輩から知らない女子を助けてくれるなんて」
想像しただけで、怖い。私だったらできない。こっそり先生を呼びに行くのが精一杯。
蓮の顔から笑みが消えた。
「知らない女子って、綾原のこと?」
「うん」
中二の綾原礼夏は、颯大にとって知らない女の子だと思ったのだ。中三になって同じクラスになるまで、颯大が私にとって知らない男の子だったように。
蓮が片手を髪につっこんだ。
「あー、うん、颯大のことだから、知らない女子でも助けた可能性はあるけど……知ってたよ、颯大は。同じクラスになるずっと前から、綾原のことを知っていた」
え?
「中二の夏休み、県選抜で泊まりの遠征に行ったんだ。ホテルの前がきれいな砂浜で颯大と早起きしてその砂浜をランニングしたんだけど、颯大、途中で桜貝を拾っててさ。『それどうすんの』って聞いたら『どうしよう』って答えで。そのときは『は? 何こいつ? オトメ?』って感じだったんだけど、そういえば、休み前に学年トップの女子が廊下で『きれいな桜貝ほしい』とか友だちと話してたとき、こいつめずらしく聞き耳立ててたな、って思い出して──」
桜貝……? 拾っていた?
「──そのときはすぐに忘れちゃったんだけど、図書館で先輩たちが注意されて、注意したのがその学年トップの桜貝の女子で、颯大が先輩たちを追いかけて……全部つながったっていうか、あーそうか、って気づいた」
私も思い出していた。十五歳の誕生日に颯大にもらった桜貝。『県選抜で遠征に行ったとき、泊まったところが海の近くで、拾った』と颯大が言っていたこと。なぜ桜貝を選んだのか、私は不思議だったんだ。葉月に聞いたのかな、と思っていたのだけれど……。
「あいつが、いつ、綾原を好きになったのかは、俺も知らねー。けど、同じクラスになるずっと前から、颯大は綾原のことを知っていて、気にしてた」
にっ、として、蓮はつけたす。
「颯大、意外とアホだろ? 綾原のことになると」
私が答えられないでいると、蓮はちょっとさびしそうな顔になった。膝に頬杖をついて窓の方を見る。
「ていうか、俺もまあまあアホだけど。颯大が好きになるなんてどんな女子か気になって見てたら……」
めずらしく、言いかけたことを途中でやめる。見てたら、何……? と、続きを待っていると、蓮は数秒の沈黙のあと不意に私に目をもどした。
「そういえば、正月休みに颯大に会ったわ」
心臓がどきっとする。声が震えないように努力して応じた。
「そうなんだ」
「どっちの部活もさすがに正月はオフだったからゲームとかして遊んで……。ひさしぶりだったけど、変わってなかったな、颯大」
中学生の颯大の面影が浮かんだ。冬の乾いた空のような冴えたまなざし。変わってないんだ。どきっとした心臓がとくとくと鼓動を刻む。
蓮が続けた。
「綾原って、今も颯大が好き?」
予想もしていかった問いに頭が真っ白になった。好き? 颯大のことを? 今も?
「……わからない」
考える前に、そんな言葉が口をついて出ていた。蓮は、ふうん、と私を見つめ、
「わかったら、教えてくれる?」
またしても考えるより先に、首を縦にしていた。すっかり動揺していたのだ。
「出るか」
蓮がトレイを持って立ち上がった。私もあわてて席を立つ。
店の前でさよならするときには、少し自分を取り戻していた。
「がんばってね。課題テストとサッカー」
言うべきことを言えた。
「おう。赤点さえとらなきゃ、9番は俺のものだ」
9番。エースストライカーのナンバーだね。にっと笑ってそう言ったあと、蓮は、
「綾原もな」
と、つけたす。がんばってね。綾原もな。合言葉みたいな私たちの別れのあいさつ。
学園の寮にもどるために駅に向かう蓮に手を振る。笑顔で。
けれど、胸の鼓動は収まっていなかった。
──綾原って、今も颯大が好き?




