もう一度、もう一歩
体育祭の二週間後、冬休みに行われる全国高校サッカー選手権大会、その県代表を決める大会が終わった。藤白は決勝で惜しくもPK負け。北工は決勝トーナメントの初戦で敗退していた。
地元サッカーの情報番組で決勝トーナメントのハイライトが放送された。弟が観ていたので何気なさそうに一緒に観たけれど、主に決勝戦が取り上げられていて、颯大も蓮も画面に映らなかった。
蓮は決勝トーナメント初戦と、決勝戦の最後の五分間だけピッチに立ったそうだ。結果を知って、
『残念だったね』
メッセージを送ったら、
『俺は試合に出ているよりベンチで応援してる方が長かったし、1ゴール決めただけだったけど』
『全国行きたかった』
と、返事が来た。それから、新チームではスタメンとる、夏のインターハイで県優勝する、って。
葉月に渡された手紙は開封しないまま勉強机の引き出しの中にある。修学旅行のあと交換したキーホルダーも、十五歳の誕生日に颯大にもらった桜貝も、同じ場所にある。
落ち込んで学校にいけなかったとき、キーホルダーと桜貝、私が持っていていいんだろうか? と考えたことはある。でも、ゴミに捨てるのはかわいそう。失礼だとも思う。キーホルダーはどこかの神社に納めてお焚き上げ? でも、お焚き上げにもルールがあってなんでもかんでも受け付けてはもらえないらしい。桜貝は海に帰せばいいのかな。どこの海に? きれいな砂浜でなきゃだめだよね……ぐずぐずと悩むだけで決心がつかず、そっと引き出しの奥にしまった。私はその横に手紙を置いたんだ。
手紙、読まなきゃ、と思う。読むべき。読む義務がある。自分に言い聞かせるように考えるけれど、封筒を開けない。何が書いてあっても、どんなに辛くても、受け入れるべきなのに。
木枯らしが路面に落ちた紅葉をどこかへ吹き去ってしまったころ、一年生全員に、来年度の夏休み語学研修の募集要項が配られた。
夏休み語学研修──すっかり忘れていたことだった。受験生だった私は、それをとても楽しみにしていたのに。藤白に合格したら、絶対に参加するんだ、って。
帰宅してすぐに自分の部屋でプリント数枚の募集要項を読んだ。行き先はイギリス。期間は二週間。一生徒一家庭にホームステイ。午前中は語学学校でレッスンを受け、午後は史跡や文化施設を訪問。希望者のみ。どの科の生徒も参加できる。ただし、英語力に条件がある。TOEIC600点以上、または、英検二級。さらに、特進科で英会話を担当しているネイティブ英語教師との面接試験がある。応募者が定員を越えた場合は、成績で参加できるかできないかが決まる。成績優秀者二名には奨学金が給付される。
募集要項を読みながら、どきどきした。イギリス、ホームステイ。行きたい。でも……参加条件は、TOEIC600点以上、または、英検二級。
TOEICは受けたことがない。英検は中学のときに三級をとっただけ。
研修の申し込み締め切りまでにどちらか受験できるだろうか。──試験日程を調べると、両方できた。だけど、申し込み期間はどちらも迫っていた。じっくり考えている猶予がない。すぐに受験申し込みをして、一発で研修参加条件をクリアしなければならない。
漫研部の特進科の先輩に今年の研修の様子を聞いてみた。先輩自身は参加しなかったそうだけれど、友だちに聞いて知っていることを教えてくれた。
参加者は全員特進科だった。今まで特進科以外の参加者がいたという話は──少なくとも先輩は──聞いたことがない。定員オーバーで切られたり、英語力が足りなかったりで参加できない生徒が毎年いる。ネイティブの先生との面接は形式的なものだと思われがちだけれど、そこで意外と落ちる。
……ネイティブの先生の授業を受けている特進科でも、切られる生徒がいるんだ。私の英語力で大丈夫だろうか。それに、もし参加できることになっても、特進科の中に普通科がひとりは居心地が悪そうだ。
一応、特進科にも友だちはいる。漫研部の美見。学園祭を一緒に回って、私が受験失敗からテスト上位に入るまでをマンガ化すると言っていた子。だけど、美見は語学研修に参加するつもりはないそうだ。興味はあるけれど、時期が夏のコミックマーケットとかぶるからムリなんだそうだ。お母さんがサークル参加するので、売り子さんで手伝うらしい。美見にとってコミケの方が重要なら、それはしょうがない。
だけど、私、コミュニケーション能力があんまり高くない。ひとりも知り合いがいなくて私以外はみんな知り合いのグループに仲間入りするなんて、難易度が高すぎないだろうか。
さらに先輩が言うには、
「私の友だちは、大変だったけど楽しかった、って言ってたけど、中にはさみしくて泣いちゃった子もいたみたい。ほら、語学研修中は各自ホームステイでしょ? イギリス人家族の中に日本人ひとりで緊張して疲れ果てたり、生の英会話についていけなかったり」
……つまり、レッスン中も知り合いがいない上に、ステイ先でも孤立するかもしれないわけだ。不安がふくらむ。
それに──あたりまえだけれど──研修はタダじゃない。イギリス二週間はかなりお金がかかる。受験で酷く心配をかけた親に、研修に行きたいからお金出して、って言いにくい。
お年玉とかのおこづかいを貯めた自分の預金に奨学金を足せば研修費用にぎりぎり足りるかも? と、思いついた。だけど、奨学金をもらうには、英語の成績で参加者の二番目までに入らなければならない。それこそ特進科のテリトリーに斬り込んでほぼ全滅させなければならないわけで。
……自信、ない。
迷っているうちにカレンダーが十二月に変わった。TOEICと英検の申し込み締め切り日が近づく。どうしよう。自信がない。親にもまだ相談できていない。どうしよう……。
その日、部決を終えて学校から駅に着くと、大通りがパステルカラーに輝いていた。
クリスマスのイルミネーションが始まったんだ。もうそんな季節なんだ。
イルミネーションは毎年イメージを変える。今年のイルミネーションは優しくて朗らかなパステルカラーだ。去年は静かな青と白だった。まるで海の底か……。
宇宙だろ、と颯大の声が聞こえた。
木々を渡る星座のイルミネーションが幻のように浮かんだ。銀河鉄道のストーリーに感動するんじゃなくて、宇宙に行きたくなった、と笑った颯大の顔も。颯大はホントに宇宙を目指しているんだ。テレビキャスターが言っていたもの──新野選手は進学コースの理工科で学業もがんばっていて、宇宙工学系の大学を目指しているそうですよ
ふっと思った。イギリスなんて、宇宙に比べればおとなりみたいなもんじゃない? 水も空気もあるし、住んでいるのは地球人だし、不安になることないんじゃない?
できるかどうか、迷っているだけじゃどこにも行けない。心配事を数えて踏み出さないのは自分に対する言い訳だよね?
颯大は『まだ見たことのない景色』に向かって進んでいる。私だって、できるよね? イギリス語学研修、宇宙に比べればほんの小さな一歩だもの。
覚悟を決めればいいだけだ。電車に乗り、窓に映る自分の顔に何度も問いかけた。できるよね? がんばれるよね? だけど、心はまだ揺れる。がんばってもできないこともあるよね……。
家に帰り、二階の自分の部屋にバッグを置いて……机に目がとまった。引き出しにしまったままの颯大からの手紙が心に浮かんだ。
引き出しを開けた。読もう。何が書いてあっても受け止める。前に進むために、それぐらい、できなくちゃ。
封を切った。最初に予想した通り、中に入っている便せんは一枚。よっつにたたまれた便せんを開くと、書かれた文字は二行。
綾原は間違ったことをしていない
俺は後悔していない
一瞬、呼吸がとまった。もう一度文字列を目でなぞる。綾原は……。
手紙を胸に抱きしめていた。うれしいのに、悲しいように胸が締めつけられて痛い。
颯大が手を差し伸べてくれていた気がした。下を向いていた私はその手をとれなくて颯大はひとりで先に行ってしまったけれど、背中を追うことならできるかもしれない。もう一度、夢見ることができるかもしれない。ううん、夢見ることをしたい。
丁寧に、もとどおり、手紙をしまった。階段を駆け下りてリビングに飛び込んだ。
「お母さん、お願いがある……!」
TOEICと英検、両方の受験を申し込んだ。研修に参加するためには、TOEICのスコアか英検二級、どちらかをとればいいのだけれど、両方とるつもりだ。奨学金をもらえるのはふたりだけ。そのふたりに選ばれるためにできることは全部やる。
颯大の手紙は一度読んでふたたび机の引き出しにしまった。けれど、桜貝は引き出しから出した。スタンドライトの台座に立てかけてある。夜、勉強をしようとライトを点けると、柔らかな光がラッピングの透明袋にも金色の細いリボンにも桜貝そのものにも反射して、とてもきれいだ。ネットで拾ったうわさ話は恋のお守りだったけれど、今の私には勉強のお守りだ。
まずは書店を回って参考書と問題集を買い集めた。がり勉には自信がある。頻出単語を覚えて、過去問を解いて……。
英検二次試験の面接とネイティブ先生との面接にそなえ、スマホに英語発音会話アプリを入れ、オンライン英会話も始めた。発音アプリはAI相手だから緊張しないのだが、オンライン英会話はネイティブスピーカーと話すわけで、自分の声より心臓の音が大きく聞こえた。最初はうまく話せないどころか、相手が何を言っているのかほとんど聞き取れなくて、めちゃくちゃ落ち込んだ。こんなんでネイティブ先生との英会話授業を続けてきた特進科に立ち向かおうなんて、身の程知らずもいいところでは。
……何もしてこなかったものな、私。杉村さんたちとのことで体調をくずして、受験に失敗して、それから、ずっと。
ほかの人たちはその間こつこつと努力していたんだ。その差を埋めるのはハンパじゃできない。
だけど、大丈夫。だって、私、勉強が好きだもの。がり勉ってバカにされても、好きなものは好き。
──好きなことをがんばるの、いいじゃん
サッカーでも音楽でもマンガでも、勉強でも、好きなことをがんばるのは、きっと、いいこと。




