思い出の音符(ノート)
夏休みが終わった。電車に乗って学校に行き、授業を受け、週に一回漫研部に顔を出す私の日常は変わらない。暑い日がいつまでも続いていたけれど、いつのまにか、日が落ちたあとの風が涼しくなり、夜にはコオロギの声が聞こえるようになって。
蓮からメッセージが届いた。
夏休み中にも、一度だけ、メッセージが届いた。開いてみたら、サッカーのリーグ戦の日程と結果の表だった。蓮がプレーしている藤白のセカンドは県のAリーグで颯大の北工はBリーグ──なんて聞いたことを思い出したけれど、表の内容は見なかった。だって、見て、どうするの? 何て反応したらいいのかもわからなくて、返信も返さなかった。
またそういうのだと困るなあ、とまず浮かんだ。二度もスルーするのは申し訳ない気がする。だが──そういえばもうすぐ定期テストがある。ピンチなのかもしれない。
思い切ってメッセージを開いた。
『テレビに出るから見て』
……。
番組名と放送時間が書いてある。日曜日の夕方に放送される、ローカル局の地元サッカー情報番組だ。弟がたまに観ている。というか、弟のチームが、小さな大会だけど決勝に進出して取り上げられたときは、家族みんなで観た。
メッセージの最後は『見たら感想教えて』だった。
観なくても『かっこよかったよ』と送ることはできる。でも、蓮にうそをつくのはいやだった。
放送が始まる時間、私はリビングのソファに座ってテレビのスイッチを入れた。本日の特集は『高校サッカー/選手権県大会決勝トーナメント開幕直前! 期待のルーキーたち!』。
軽く鳥肌が立った。これに出るということは、蓮、トップチームに上がったんだ? 期待のルーキーなんだ?
ひとり数分の選手紹介。蓮は三番目だった。豪快なロングシュートとディフェンダーを背負っての振り向きざまのシュート、ふたつの映像に、強豪藤白で一年生ながらベンチ入りを果たした岡村蓮選手、ゴール前で当たり負けしないフィジカルの強さが魅力……みたいな紹介コメントが流れた。
返信は『かっこよかったよ』ではなく、『おめでとう。すごいね。大会がんばって』にしよう──そう考えながら、テレビを消そうとした。
『次は県立北山工業高校の新野颯大選手です』
テレビから流れた声に、リモコンに伸ばした手がとまった。
青いユニフォームの選手が画面に映った。ドリブルで相手チームの選手をひとり、またひとり、抜いていく。
『北山工業がシード校を倒して決勝トーナメントに進出する原動力となった、一年生エースです』
ぼう然とテレビを見つめてしまった。──颯大。ドリブルからのスルーパスとゴール前に走り込みながらのボレーシュートを映したあと、画面がスタジオに切り替わった。
『新野選手は進学コースの理工科で学業もがんばっていて、宇宙工学系の大学を目指しているそうですよ』
『宇宙! 夢がありますねー』
男性と女性のキャスターが笑顔でうなずきあい、CMになった。私はようやくリモコンの『切』スイッチを押す。
胸がざわついていた。──颯大の映像は、目だけではなく、何の準備もしていなかった無防備な心に飛び込んだのだ。水面に石が落ちて波紋が広がるように、心が揺れて、颯大の声が記憶の底から浮かび上がる。
──サッカーも、北工だってまあまあ強いから北工がもっと強くなるようにがんばるのもアリっていうか
藤白の特待がとれなかったとわかった冬の日、公園のジャングルジムによりかかって話した颯大の声だ。あのときの言葉通りに、颯大はサッカーをがんばっていたんだ。……ううん、サッカーだけじゃない。テレビのキャスターが言っていた。
『新野選手は進学コースの理工科で学業もがんばっていて、将来は宇宙工学系の大学を目指しているそうですよ』
宇宙に行ってみたくなった、という颯大の言葉を聞いたのは、クリスマスのイルミネーションの中に銀河鉄道の夜に出てくる星座たちを見つけたときだった。
──颯大、宮沢賢治、読むんだ
──え? 知らねーけど。小学生のとき、プラネタリウムで観た
──感動した?
──宇宙に行ってみたくなった
無邪気な笑顔を思い出したら、揺れていた心の波が静かになって、音のない深い闇に包まれた気がした。闇は漆黒の宇宙。天の川と、銀河鉄道がたどる星々が輝いている。その中を駆けていく小学生の颯大の幻。そして、
──山の向こうは山だけど、めちゃくちゃいくつも山を越えたら見たことのない場所にいけるんじゃないかって気分も、まだある
宇宙が夕焼けに変わった。ジャングルジムに上って颯大とふたりで見た夕焼けだ。私の小さなころの空想──夕日が沈む山の向こうには知らない世界があると思っていたという話をしたら、颯大は笑ってそう言ったんだ。
颯大の言葉に自分の胸が弾んだことを思い出す。一緒に知らない世界を夢見ていける気がしたから。私も藤白でがんばらなきゃ、って思った。
私は小さく息をついて目を伏せた。
がんばってないなあ、私。何もがんばってない。吹部はあっさりあきらめて、好きだった勉強も授業を聞いて課題を提出するだけ。何かを目指すことも楽しむこともなく、息をひそめて日々を過ごしていた。
けれど、その間、颯大はサッカーも勉強もがんばっていたんだ。私のせいで藤白には進めなかったのに。
──サッカーって、パス一本で流れが変わったりするんだ。でも、ゲームは止まらないし、出しちゃったパスはもどせないから、ミスを後悔するより次を考えて走るしかないわけ
思い出す。特待は落ちてもまだゲームの途中だ、と颯大は言ったんだ。今も、中学生のときと変わらない冴えたまなざしで、次のプレーのために走っているんだろうか。
次々と心に浮かぶ颯大の言葉たち。忘れていたメロディの音符が降ってくるようだ。あのころの気持ちと一緒に。吹奏楽でもそんなことある? と颯大に聞かれ、私は、ある、とうなずいた。がんばった結果がいつも望み通りになるわけじゃないけれど、それでも次を目指してがんばればいいのかな、って。
あのとき、ゲームの途中、という颯大の言葉を、夢の途中、と言い換えた自分が今の私を見たような気がした。思い出の中の私はまっすぐな目をしていた。私はその瞳を見つめ返す。
ふと、思った。顔を上げてみようかな。前を向いてみようかな、颯大みたいに。
蓮に返信した。
『トップチーム入り、おめでとう。大会がんばって』
それから、すごく迷ったけれど、付け加えた。
『ありがとう』
番組に颯大も出ることを、蓮はきっと知っていたと思うから。私に今の颯大を見せてくれたんだと思うから。
返事は、前回バーガーショップで別れたときと同じだった。
『がんばる。綾原もな』
ぽん、と背中を押された気がした。うん、私もがんばる、と素直に思えた。
──というものの、具体的に何をすればいいんだろう。考えたけれど、新しく挑戦したいことがパッと思い浮かんだりはしない。もどかしく何日かが過ぎて。
部活が終わって帰ろうと席を立ったとき、ふと目をやった窓から、山に沈む夕日が見えた。部活終了時刻と夕暮れどきが重なる季節になっていた。
窓に近づいて、オレンジ色に染まる山の端をしばらく眺めた。夕日が沈む山の向こうは幼い自分にとって異世界だった。そこに夕日が落ちていく、不思議の国。
私がいちばん最初に夢見たのは、山の向こうに行くことだった。そこに見たことのない景色があると思った。成長するにしたがって、山の向こうには同じような山が続いているということも、自分が異世界に行く可能性はほぼないということもわかってきて、ならば外国を目指そうと思った。異世界ならぬ、異国。だから、英語の勉強は特にがんばっていた。
新しいゲームを無理に探す必要はないかもしれない。知らない世界にいきたいという私のゲームはまだ途中だ。長い間プレーしないでいたけれど、続きを始めたらどうだろう。もし、放置し過ぎてゲームが終了してしまっていても、もう一度最初から始めればいいだけで。
夢は知らない世界にいくこと。そのための勉強。
もうすぐ定期テストなので、まずはその勉強をすることにした。できることから、手の届くことから始めよう。
ひさしぶりのテスト勉強。始めたら、思いがけずに楽しかった。新しいことを知るのって、やっぱり好きみたい。
同時に、ちゃんと理解していなかったところがぽろぽろ出てきて、焦った。特に数学。よく蓮に教えることができたなあ、と今さら冷や汗。追試の問題が本テストと同じで授業で解説を聞いていなかったら、教えてあげるなんてムリだった。特進科に進んでいたら授業で使っていたはずの問題集は、書店でふつうに手に入ったので取り組んでみたのだけれど……手強くて、もう一度基礎からやり直した。
英語の副読本の『怪談』にとりかかったときは、日本の怪異が英語でこんなふうに表現されるのか、とおもしろくて、テスト範囲じゃないページまで読んでしまった。こんなふうに日本の文化を英語で紹介できたら、わくわくするだろうな。私としては、西洋のホラーよりも日本のホラーの方が怖いと思うし、そこ、伝えられたらなあ、なんて考えてしまった。柳の下の生暖かい風の英語での表現とか。
テストが終わった。そして、上位10パーセントの生徒の名前が職員室前に掲示される。いつもは特進科の生徒の名前がずらっと並ぶだけなのだけれど、今回はその片隅に普通科の私の名前が混じって、掲示前の廊下が、ざわっ、となった──らしい。昼休みに、特進科のあこがれの先輩の名前を探すために掲示を見に行ったクラスの女子が教えてくれた。
「綾原さん、すごい」
彼女と、彼女の友だち数人のグループにほめてもらい、内心困った。何て答えるのが無難だろう。『まぐれだよ』とか? 『ヤマが当たって』とか? いや、ここは覚悟を決めて正直にいこう。
「がり勉したの」
きょとん、としたあと、彼女たちは吹き出していた。
「綾原さんって、意外とおもしろい人?」
「私は見抜いていたよ。いつもムズカシソウな本を読んでいるから、きっと頭がいいって」
彼女たちの笑顔につられて、私もほんの少し笑っていた。そのまま残りの昼休み、彼女たちとおしゃべりした。私はほとんど聞き役だったけれど、自分のことも少し話した。漫研部だよね? うん、そう。ムズカシイ本だけじゃなくてマンガも好きなんだ? うん、とうなずいて、思い出す。私、マンガもアニメも好きだった。中学のころに愛読していたマンガのタイトルを口にすると、私もそれ好きだった、という子がいて話が弾み……。最後に、明日一緒にお弁当食べない? と誘われた。
その日はちょうど漫研部の活動日だった。多目的室に入ったとたん、わっと注目された。
「ね、特進科のテリトリーに斬り込んだんだって?」
たずねられて面食らった。斬り込むなんて物騒な。その中には学園祭で一緒に出し物を見た特進科の同級生もいた。名前は美見。ふわふわセミロングの髪をして、丸っこいメガネをかけている。
「認めよう。キミはボクのライバルだ」
びしっ、と指さされた。何かのアニメの真似らしくて、周りには受けていた。そして、美見は無邪気に聞いてくる。
「特進科、受ければ、受かったんじゃない?」
「……ホントは受けたかったけど、体調くずして、再追試で普通科に合格したの」
これを口にしたのは、高校生になってから初めてだ。
美見は目を丸くした。
「そこからの下剋上? ロマンじゃん! ネタにしていい?」
「ネタ……って、マンガの? 地味過ぎない?」
ていうか、ロマンなの?
「そこは作者の腕次第ですから」
ふふん、と胸を張る彼女は投稿サイトにオリジナルのマンガを上げているそうだ。が、読者はほとんどつかないらしい。新作もこの地味ネタではすでに先行きに暗雲がたちこめている気がする。
「プロットできたら、見てね」
「う、うん」
ちょっとひきつったかもしれないけれど、笑顔を返した。その日から、部活ではマンガを読むだけでなく美見やほかの部員たちとおしゃべりすることも増えていって。
「ね、部活対抗リレー、出ない? ていうか、礼夏も出てくれないと、人数が足りん」
頼まれて、十一月最初の土曜日の体育祭、一年生競技の男女混合部活対抗リレーに出ることになった。部活対抗なんて絶対に運動部が勝つでしょう? と思ったのだけれど、先輩いわく、
「漫研部、準優勝候補だよ?」
なぜ。
「それぞれの部らしさを全開にして走るから。柔道部は柔道着を着て畳をしょって走るとか、剣道部は防具フル装備で竹刀がバトンだとか、サッカー部やバスケ部はボールをドリブルして走るし……」
それは、運動部、不利だ。ていうか、ネタ競技なんだ。文化部も、化学部は白衣を着て実験道具を持ったり、吹部は壊れたクラリネットがバトンだったり……。
「うちはバトンがペンライトですし」
先輩は、ふふふ、と笑う。一年生のひとりが聞いた。
「そこはペンじゃないんです? マンガを描くペン」
「マンガといえばオタク、オタクといえばペンライトですから。それに、ペンライトって形や大きさがわりとバトンですから」
それは有利だ。が、ふと疑問が浮かんだ。
「『準』優勝候補、なんですよね。優勝候補、じゃなくて」
「優勝は陸上部がしますね。ふつーにバトン持って、ふつーに走って」
うわあ、陸上部らしさ全開だ。
当日は、部活対抗リレーに出ると知ったクラスメイトが髪をアレンジしてくれた。お昼ご飯を一緒にたべるようになった女子たちだ。
「こういうのは目立ってナンボだから」
と、自分たちの分もハチマキを使って蝶結びいっぱいのリボン編み込みをしてくれた。
中学のときはボブだった髪。ちょっとした編み込みができるくらい、髪が伸びていたのだ。……しばらく髪を切りにいく気力もなかったときがあって、そのまま伸ばしてしまったわけだけれど。
招集場所に並んでいるとき、ふと視線を感じてそちらを見ると、少し離れた列に葉月がいた。目が合った。
葉月を見るのは学園祭以来だった。蓮が言っていたように、科が違うと会う機会はほとんどない。私を見つけてくれたのか、ハデ派手なリボン編み込みに目がとまったのかはわからない。でも、目が合った。
思い切って、小さく手を振った。葉月は少し驚いたように体をひいた。けれど、すぐに手を振り返してくれた。
胸が温かくなった。部活対抗リレー、葉月も出るんだ。中学生だったときは科が違ってもずっと仲良しでいられると思っていた。現実はそうじゃなかった。だけど、数か月ぶりに葉月の顔を見て、同じ競技に参加する。それだけで、私もリレーに出てよかった、と思えた。
それから、ふと気づいて辺りを見回した。もしかしたら、蓮も?
……バトン代わりのサッカーボールを持つチームは見つけたけれど、その中に蓮の姿はなかった。サッカー部は人数が多いから、一年生全員が出る必要はなくて蓮はメンバーにならなかったのだろう。少し、残念な気持ちがした。三人が同じ場所にいたら……私、ちょっと幸せだったかもしれない。
運動は得意でも苦手でもない。走るのは人並みより少しだけ速い。第三走者でバトンをもらって一生懸命走って、次の走者にバトンを渡して……。
結果、漫研部はハンデの少なさで見事準優勝を飾った。
「礼夏ちゃん、友だちが来てるよ」
昼休みにそう呼ばれたのは、体育祭後の週明けだった。
友だち? ドアに目を向けると──葉月だ。急いで廊下に出た。音楽科の教室と普通科の教室は別棟の校舎にある。走ってきたんだろうか、葉月は息を切らしていて、私は、
「大丈夫? どうしたの?」
ひさしぶり、と挨拶する前にたずねていた。葉月は大きく深呼吸すると、白い封筒を差し出してきた。
「これ、礼夏に」
何だろう。
「颯大から。預かっていたの」
受けとろうとしていた手がとまった。
「卒業式のとき、礼夏と話せなかったから渡して、って頼まれたの。でも、あのころの礼夏、受けとってくれない気がして。無理やり押しつけても読まないで捨てちゃうかもしれない、って不安でずっと渡せなくて。だけど、体育祭で礼夏が手を振ってくれたから、少し元気になったのかな、もう渡しても大丈夫かな、って思って」
葉月が真剣な目で私を見る。
「今まで渡せなくて、ごめん」
視線の強さに押されて、手紙を受けとった。指先が少しふるえて、封筒がかさっと小さな音をたてた。
「……ありがとう」
なんとか言葉を押し出した。葉月は、にっこり、笑う。
ほんの数秒、私たちは黙って見つめ合う。こんなに近くに葉月がいるの、何か月ぶりだろう。
葉月がゆっくりと言った。
「……礼夏、髪、伸ばしたんだね。似合っているよ」
「あ、うん」
葉月は中学のときから変わらないナチュラルショートだ。葉月が軽く首をかしげて、きれいにそろえた毛先が揺れた。
「部活が休みのとき、連絡していい? ひさしぶりに、あそぼ?」
それにも、なんとか、うなずく。温かいものが心を満たしていく。じゃあね、と行こうとする葉月を、
「葉月」
呼び止めていた。葉月は、うん? とふり返る。私は今の気持ちを伝えようと急いで口を開く。
「ありがとう」
さっきと同じ言葉になってしまった。だけど、しっかりと気持ちを込めた。ありがとう、私がただ落ち込んでいる間、手紙を渡せるときを待っていてくれて。
葉月が微笑んだ。互いに胸の前で手を振って、葉月は自分の校舎へと帰っていく。
家に帰って勉強机にバッグを置き、私はすぐに葉月に渡された手紙をとりだした。
白い封筒には宛名も何も書いてない。薄くて軽いから、入っているのは、たぶん、便せん一枚?
帰ったら、すぐに読むつもりだった。葉月がせっかく届けてくれたのだ。なのに、いざとなると封を開けられなくなった。
颯太からの手紙。軽かった手紙が重くなる。
書かれているのは、私が学校に行けなかった間の颯大の気持ちだ。颯大はどんな気持ちでいたんだろう。精神的なことが原因で熱を出すなんて、それで学校に行けなくなるなんて、面倒くさい女子だと思われてもしかたがない。卒業を機にそれぞれの道をいこう、なんて気を遣った別れの言葉が書いてあったり、もっとはっきりと私のいやな部分を指摘してあったり……。
ネガティブな想像が浮かぶ。何が書いてあっても受け止められる自信が今の私にはない。葉月が言ったとおり、私は少し元気になったのかもしれない。だけど……。
──山の向こうは山だけど、めちゃくちゃいくつも山を越えたら見たことのない場所にいけるんじゃないかって気分も、まだある
──ミスを後悔するより次を考えて走るしかない
前を向こうと思えたきっかけは思い出した颯大の言葉たちだった。私の心の中で優しく響く言葉たち。もう少し……もう少しだけ、懐かしくて心地よい思い出の音符だけ聞いていたかった。




