そして、見上げる。夏の空を
バーガーとコーヒーの乗ったトレイをテーブルに置いて、蓮と向かい合わせに座った。平日のせいか店内は空いている。少しの時間なら、コーヒーを飲みながら勉強しても、お店の迷惑にはならなそうだ。
蓮がテーブルに広げたのは『追試』の赤いハンコが押された数学のテスト用紙だった。ほかの教科はセーフだったらしい。
「追試も同じ問題が出るから、答え、教えて」
「答えを覚えるのは勉強とはいわないよ?」
反射的にそう言ったら、蓮は笑った。
「それ、綾原っぽい」
どきっ、とした。ずきっ、に近いかもしれなかった。優等生的な発言だっただろうか。余計なことは言わないように気をつけていたのに。
「まあ、いいか。俺、綾原に勉強を教えてもらうの、好きだし」
ちょっと懐かしい軽口がつけたされて、心の痛みは少し和らいだ。でも、
「最初の計算問題だけど、公式は全部覚えている?」
これ以上余計なことを言わないように、さくっと勉強モードに入ろう。蓮の顔も真剣になる。一時間くらいかけて、できなかった問題を一緒に解いた。
「さすが綾原。全問わかるんだ。テスト満点だったりする?」
「まさか。ここと最後の問題は解けなかったよ。テストが返ってきたとき先生の解説を聞いたから……」
「──ちゃんと授業は受けてるんだ」
「え?」
問題から顔を上げて蓮を見た。ちゃんと授業を受けるのはふつうでは? 蓮は唇の端で笑った。
「テストで上位だと、職員室前に張り出されるんだろ? 俺は関係ないから見に行かなかったけど、綾原、張り出されたりした?」
「いや……ううん」
張り出される順位ではなかった。見に行かなかったけれど、うわさだと、特進科の生徒の名前で埋め尽くされるそうだ。
授業は聞いているけれど、中学のときのように勉強熱心ではなくなっていた。ふと気づくと、授業中もぼんやりしていることがあった。テスト勉強もしなかった。クラス順位はよかったけれど、学年全体では張り出されるほど上位ではなくて、テスト結果の感想は、目立たなくてよかった、だった。
蓮は私の反応に一瞬表情を消した。だけど、すぐにまた笑顔になって、
「ありがとな、綾原。また勉強ピンチのときは助けてくれる?」
「え、あ……うん」
「じゃ、アプリのID交換しよう」
「……え」
「しないと『助けて』って連絡できないじゃん。スマホ貸して」
それはそうだ、けれど。私は一度蓮のIDを削除しているのだ。友だちでいる資格がないと思ったから。でも、誰かがピンチのときに助けないのは友だち以前に人としての問題……?
迷いながら、差し出したスマホをさっと手に取り、蓮はてきぱきとIDを交換する。『連絡、ピンチのときだけにしてね』と、心に浮かんだけれど、それを口にしてしまうのは何か違う気がする。失礼、というか。黙って蓮の手もとを見つめるうちにスマホが返ってきた。
店の外に出ると、小さな雨が降り出していた。
サッカー部の蓮は寮で生活している。特待生だから寮費もタダ。今日の待ち合わせを地元駅にしたのは、夕食までのフリータイムにひさしぶりにお母さんに顔を見せるためだった。
「蓮はバスで家に帰るの?」
「綾原は自転車? 雨、大丈夫?」
「このくらいの雨なら」
駐輪場で蓮と別れた。
「サッカー、がんばってね」
「綾原もな」
軽く返されて、『サヨナラ』と振ろうとした手が止まってしまった。私も? がんばる? 何を? ……ううん、これは深い意味のないただのあいさつだ。だけど……。
──好きなことをがんばるの、いいじゃん
思い出してしまった。勉強ができるからがり勉、優等生だから委員長──重いお札になっていた決めつけや押しつけを羽に変えてくれた颯大の言葉。
藤白に入ったら、その羽をのびのび広げてたくさん勉強するんだ、と思っていたときがあった。いつか、見たことのない景色を見るために。
羽はまだある気がした。泥にまみれ、呪いのお札よりも重くなって。
暑い夏休みが始まった。やることは特にない。課題くらい。あとは部活。お盆期間を除いて週に一度あるだけなので、全部行くことにした。夏休み中ずっと家にばかりいたら、家族が心配するかもしれない。
漫研部の活動はいつも午前中だ。校門を入って多目的室のある北校舎まで歩いていく途中は、いろいろな部活の音があふれている。最初に聞こえるのは野球部がバットでボールを打つ金属音だ。体育館の近くを通るときはバスケットボールが床板に跳ねる音。校舎をつなぐ渡り廊下を潜ろうとするとパート練習している楽器の音が……。
楽器の音が降ってくる渡り廊下を見上げると、青空が眩しくて目に痛かった。
しっとりと青い、夏の空だ。去年の夏の空も眩しかった。私はコンクールで県大会を目指していた。結果はダメ金だったけれど、精いっぱい楽器を吹いた。颯大と蓮のサッカー部は県大会にいくことができて、準決勝を応援に行った競技場はとても暑かった。
あれから季節はいくつも変わったのに、自分の気持ちだけ遠く過ぎ去った時間の中に取り残されているみたいだった。二度と戻れない時間の中に。




