隙間から
母は土産に持って来た銘菓の紙袋を丁寧に畳みながら言った。
「バカだねぇ、一階は危ないって言ったじゃないの。洗濯物は室内干しだからね。念の為男物の下着買っときなさいよ」
「やだよ。お父さんのお古送ってよ」
「いくら少し安いからって、都会は怖いんだからね。何かあってからじゃ遅いんだから」
「カーテン開けなきゃ平気でしょ」
「朝はカーテン開けるでしょうよ。一日中薄暗い部屋の中にいる気?」
食べ終えた菓子の包装紙を丸めてゴミ箱の中へ放り込んだ時だった。
「覗かれないように気を付けなさいよ」
母がやけに神妙な顔付きで言ったので気にもしていなかったことが、その時から頭の隅に居座るようになった。
外が薄暗くなりはじめ、私は部屋から外を眺めた。なんてことはない住宅街。人が帰宅をする時間には早いのか、通りに人はいない。
前に住んでいた賃貸の家が更新を迎え、更新料を払うよりも引っ越した方が安いと、慌てて物件を探した。生活環境も変わらず、月々の家賃も安くなった。それに西向きのベランダが気に入って引っ越しをしたのに。
ベランダは通りに面してはいるものの、外側には背の高い横格子の柵が取り付けてある。人が手を伸ばして物が取れるような隙間は無い。
しかし木材の柵には採光の為に何ヶ所か隙間ができている。
『覗かれないように気を付けなさいよ』
母の言う通り、柵の隙間からこちら側を覗くことは出来る。ほんの数センチしかない狭い間から人の目が見えでもしたら確かに気持ちが悪い。そう思うと今にも人の顔が見えそうな気がして慌ててカーテンを閉めた。
それからというもの母に言われたように、晴れた日も洗濯物は部屋に干すようになった。人に覗かれるような事も、不審な出来事も起きず、いつもの毎日を過ごしている。
前からこの地域には住んでるが、治安が悪いと感じたことは無い。ベランダ前の通りも通行人が通る。人が立ち止まっていたら明らかに目立つ。そんなリスクを犯してまで部屋を覗く人がいるだろうか。万が一覗いたとしても、私の部屋は飾りっけも無くシンプルで、一見すると男性の一人暮らしの部屋に見えなくもないだろう。
気を張り詰めて過ごす日々にもだんだんと嫌気がさしてきて「どうせ何にも起きないし」私はいつしかそんな風に楽観的に思っていた。
ある日の夕方、観葉植物に水をあげようとベランダに出た。水をプランターに注いでいると、すぐ側で人の気配がした。ふと柵の隙間から外を見ると、黒い人影がさっと動いた気がした。その時は通行人かと特段気にもならなかった。
その翌日、仕事から帰り、部屋の電気をつけるとカーテンが少し開いていた。ああ、きっちり閉めなかったのかと、鞄をテーブルに放り出してカーテンに近付く。カーテンの間から外を見た時、部屋から漏れる光に照らされて柵が見えた。柵の隙間にふと目をやると、何やら黒い点が見えた。黒く見えた物はさっと動いてはすぐに消えた。
黒く見えた点は二つあった。もしかしてあれは……。いや、外は暗かったし見間違いだろうと深く考えないようにした。仕事から帰って来て疲れているのだし。考え事は仕事中だけで良い。私は頭にもたげた不安を無理やり奥底に閉じ込めた。
またある日の休日、私は部屋にいた。特に予定も無くだらだらとテレビ番組を見ていると部屋の中が暗くなってきたのに気が付いた。もう日が暮れたのか。カーテンを閉めようと部屋の中からベランダを見ると、黒いものがあった。柵の隙間に点が二つ。じっとこちらを覗いている。人の目だ。
いつの日か無理やり押し込んだ恐怖が途端に吹き出した。私は動けなくなって、どうしようどうしようとそれだけをずっと頭の中で唱えていた。今、動いたら柵の外にいる人物に気付かれる。心臓の鼓動が外に漏れているのではないかと思うくらいに、どくどくと脈打っている。
動けないでいると、ふっと目が消えた。どうやら立ち去ったようだった。私は慌ててカーテンを閉め、そして玄関の鍵が掛かっているのを確認し、チェーンも掛けた。
黒い瞳がこちらを見ていた。何の為に? そして誰? 私は言いようのない気持ち悪さを感じ、とっさに母に連絡をする。
「もしもし、何か用?」
「さっき誰かが部屋の中見てた。怖いんだけど」
「あ、それお母さん」
「……え?」
「やっぱり一階だし気になっちゃって。変な人がいたら怖いじゃない。前から見張ってたけど、大丈夫そうだったわよ。案外、治安良いのね。あと、着替えの時はカーテンちゃんと閉めなさいよ。丸見えだからね。みっともない」
「え? 待って、いつから?」
「けっこう前から。東京を行ったり来たりして疲れちゃったわぁ。じゃ、帰るから。父さん帰って来ちゃうし。何かあったら連絡しなさいよ」
そう言って一方的に通話は切られてしまった。
こちらを伺うようにしていた目は母のものだったのか。
「なんだ……」
一人で怖がって馬鹿みたいだ。私は一気に脱力してその場に座った。ひと声掛けてくれたら良かったのに。逃げるようにして去って行った人影は母だったのか。
本当にひと声掛けてくれたら良かったのに。お茶くらい出したし、何日も前から実家を行ったり来たりとして大変だったのではないだろうか。何で私に伝えてくれなかったのだろう。
「けっこう前から……」
見守ると言えば聞こえは良いが、母が柵の外から部屋を覗いていたのか。とっくに成人し、独立して家を出て行った娘の家を、声を掛けることもせずに。それも何度か。
私は母の行動が理解出来ずに困惑した。
実家にいた頃には感じなかった違和感が急に湧いて来た。
母が柵の隙間から部屋の中を覗いていたんだ。狭い隙間から一体何を思ってこちらを見ていたのだろう。
2021年8月作成。