第一夜
今日は、用事が長引いて、帰りの時間がすっかり遅くなってしまった。
それと言うのも、今日は初めての個展が盛況のうちに終わった祝いをするのに、画廊の主人と二人で居酒屋で飲んだ帰りだったのだ。
飲んだと言っても、私は車で帰らねばならないので、ノンアルコール飲料しか飲めなかったのだから、酔ったのは画廊の主人だけだ。
祝われる側の私が素面なのに、何たる事だと怒ってもいいのかも知れない。
ただ、主人は私に目をかけて可愛がってくれていた事もあり、我が事のように喜んでくれていたから、まあ、私も責める気にはなれなかった。
しかし、帰り道は、さっきまでの有頂天な気分とは裏腹に、酷く憂鬱なものだった。
それと言うのも、それでなくても夜更けで暗いというのに、更に急な激しい雨に見舞われて、最悪というより他にない状況になってしまったからだ。
アパートに向かう道には街灯も殆どなく、私は仕方なくハイビームにしてゆっくりと坂を登っていた。
しばらく走っていると、目の前に人影が見えた。
こんな夜更けに、この道を歩いている人がいるとは思えなかったので、私は一瞬、見間違えかと思ったが、そうではないらしい。
近くまで行くと、傘もささずに歩いている人影が、車のライトにはっきりと浮かび上がった。
普段なら、あやしい人物に関わりを持とうなどとは思わないのだが、この日は何故か気になって車のスピードを更に緩めた。
眩しかったのだろう。
人影は額に手を当てて、こちらを振り向いた。
私がロービームに落として車を横に止めると、映し出されたのは小柄な少年だった。
雨に濡れたTシャツが肌に貼り付き、華奢な体の線がくっきりと見える。
少年は自分から車に近付くと、助手席側のウインドガラスをノックした。
促されるままに、私はウィンドウを半分だけ下げる。
私は厳つい見た目をしているので、怖がるかと思ったが、少年は全く気にならないらしい。
「何か用?」
ボーイソプラノの少し幼さの残る声で、少年が問いかける。
覗き込んだ顔は、綺麗なつくりをしており、その体つきを見ていなければ、少女と勘違いしていたに違いない。
私は一瞬、見惚れていたが、すぐ意識を戻した。
「こんな夜更けに、どうして傘もささずに歩いているんだ? 迷子なら、家まで送って行こうか?」
私が言うと、少年は不思議そうに首を傾げた。
それもそうだろう。
少年も不審人物ではあるが、どう考えたって私も不審人物だ。
「変わってるね」
少年はぽつりと言って、びしょ濡れのTシャツを握りしめる。
「風邪ひくぞ」
今は初夏で、暖かい季節ではあったが、夜は冷え込むし、雨に濡れていれば流石に寒いだろう。
私が心配になって声をかけると、少年はゾッとするほど妖艶な笑みを浮かべた。
「ねえ。これが何に見える?」
少年はそう言って、Tシャツを握っていた手をこちらに向ける。
暗くいので朧げにしか分からないが、その手は赤く染まっているように見えた。
「怪我をしているのか?」
「違うよ。これは、僕が殺した人の血だよ」
少年が窓ガラスに掌を付けると、赤い液体がウィンドウに付く。
「僕は、さっき人を殺して来たばかりなんだ」
だから、関わらない方がいいと続けると、少年は、また歩き始めた。
少年の言う事が嘘だとしても、関わらない方がいいと誰でも思うだろう。
しかし、私は何故かこの少年が気になって、放っておく事が出来なかった。
「人殺しでもかまわないさ。乗ったらいい」
私がそう言うと、少年は不思議そうに首を傾げる。
まあ、見ず知らずの子供に、車に乗るよう声をかけるなんて正気の沙汰とは思えないし、誰だってあやしむに違いない。
私は、少年が誘いを断るなら、今度こそ関わるのをやめて家に帰ろうと思った。
しかし、少年は私の誘いに乗ったらしく、助手席側のドアを開けた。
「いいの? 車濡れるよ?」
雨の中を歩いていたのだから、体はずぶ濡れだし、確かに車は濡れるだろう。
しかし、人を殺したと言う割には随分と小さな事に気を遣うと不思議にも思った。
「ビニールがあるから、それを敷いたらいい」
私は自分が濡れるのもかまわずに車を出ると、バックドアを開けてビニールを取り出し、助手席にかける。
「何で、ちょうどよくビニールなんて積んでるの?」
少年の質問は、いちいちズレていると思った。
「車を買った時についていたビニールだよ」
「物持ちがいいね」
少年は呆れた顔をしたが、大人しく助手席に乗り込んだ。
「家はどこだい?」
私が尋ねると、少年は苦笑する。
「誘拐するつもりかと思った」
「まさか。家の場所は?」
重ねて問うと、少年はため息を吐いて顔を背け、さっきとは打って変わって寂しそうな声を出す。
「帰る場所、ないんだ。おじさんの家に連れて行ってよ」
しかし、そんな事を言われても、このまま連れて帰る訳にはいかない。
「じゃあ、連絡先を教えてくれないか。親御さんに連絡だけでも……」
私が電話を取ろうとすると、少年は私の手に自分の手を重ねた。
「親はいないよ。さっき……殺して来たから」
私はどう答えたらいいか分からず、そのまま動けなくなった。
「家に連れてってよ」
その言葉は、何かの呪文だったのか、動けなくなっていた私を魔法のように動かした。
私はシートベルトを締めると、ゆっくりと車を発進させる。
「今晩は泊めるけど、明日は帰るんだぞ」
少年は私の質問には答えず、頭の後ろで腕を組んだ。
「おじさんの名前、教えてよ」
「俺の名前は、笹川弘。それより、君の名前は?」
「僕は、天音ヨウ。よろしく笹川さん」
幽霊なのか、不審者なのか。
私は「ヨウ」と名乗った少年を横目に確認する。
「ヨウ君。こちらこそ、よろしく」
今日飲んだのはノンアルコール飲料だった筈だが、何故か酔いが回っていたらしい。
私は、ぼんやりとした意識の隅で、挙動不審の少年に、笑いながら挨拶をしていた。