006 契約
「そ、それは、私は信頼できない。ともとれる言葉なのだが」
父は笑顔を取り繕い、ヨハンへと厳しい視線を向けます。ヨハンはそれを感情のない笑顔で受け止めると、明るく言葉を返しました。
「滅相もございません。もし、ベルティーナが嫁いですぐにこのような措置を取れば、ロジエ伯爵が娘をアーノルトへ売ったようにも取られかねませんので、配慮した所存です」
後妻として娘を嫁にやり、その代わりに自身の領土を潤わす。それが悪いことでは無いけれど、周りからは好奇の目を向けられるでしょう。
ヨハンは更に言葉を続けます。
「アルドは優秀ですが、ロジエ伯爵様には到底及びません。ですが、爵位に就きアーノルトとの友好関係を示せば、アルドは領民からの信頼を我が物とするでしょう。そうなればロジエ領は更なる発展を遂げることが出来ます。このアーノルト領と共に」
「おお。それは中々良い話だな」
父は顔を綻ばせ、母と視線を交わすと納得したように頷き合いました。ロジエ領は大きな川と山々を所有し、様々な作物が育つ良い土地です。財政的にも急ぎで何か講じなければならない状況にはありません。
「貴方。アーノルト辺境伯がここまでロジエの事を敬い策を講じてくださったのよ。アルドやカーティアの為にも、ベルティーナの門出をお祝いしてあげましょう?」
「そうだな。ヨハン。契約書をくれ」
「はい。こちらにサインをお願いします」
断りたければ断れと言っていた父は、私に確認することもなく軽快に羽ペンを滑らせ、ゴマ粒文字の契約書にサインをしました。ヨハンはサインを確認すると、思い出したかのように言葉を付け足しました。
「あ。言い忘れましたが、ベルティーナは今日からアーノルト家で過ごしていただきます。ひと月後に結婚式を開きますので、ご承知置きください。契約書にはその旨も記載されておりますが、勿論、読まれましたよね?」
「も、勿論読んだとも。いやぁ。急で驚いているところだよ」
父はゴマ粒に目を走らせていますが、読んでおられなかったのでしょう。動揺して瞬き過多になっております。
「急ですまない。ひと月後は私の誕生日でな。元々パーティーの準備を進めていたのだ。招待状も送ってある。それをベルティーナとの結婚式に変更するだけなのだ。改めてロジエ家の方々にも招待状を手配するよ」
アーノルト辺境伯様の誕生パーティーは毎年行われていますが、私との婚約が破談してから、ロジエ家に招待状は来なくなっていました。
「で、ですが、ドレスも何も……」
「それはもう用意している。二年前にヨハンがベルティーナに婚約を申し込んだだろう? あの時にもう注文していたのだよ。急で申し訳ないが、私に残された時間はもう――」
「いえ。こちらは大丈夫です。しかし、何も持たずに来てしまったのですが……」
「母の部屋をベルティーナに使っていただきます。必要なものは大抵揃っておりますからご安心ください」
両親は顔を見合わせ、母は父を説得するように視線を送ると、アーノルト辺境伯様へ視線を伸ばしました。
「まぁ。全てお任せしてしまって申し訳ないわ。あの、ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「ああ」
「カーティアのお相手は、いつご紹介してくださいますか?」
母の質問に、アーノルト辺境伯様とヨハンは顔を見合わせて微笑んでおられます。
「ロジエ伯爵夫人。式には多数の貴族が参列する。その中に気になった者がいたら伝えてくれ。――そうだ。嫁に出た長女も参列するぞ。御主人とその弟君も一緒だ」
母はその言葉に高揚し、胸に手を当て感嘆の声を漏らしました。それもその筈です。ヨハンの二つ下の妹君は、昨年第二王子様とご結婚されたのですから。
同行していた筆頭執事のエイベルに契約書を任せ内容を確認させると、両親は満足げに帰られました。あまりに嬉しかったのか、私への挨拶は忘れてしまったご様子で、エイベルだけが、「おめでとうございます」と祝福の言葉を述べてくれました。
そして私は今、アーノルト辺境伯様とヨハンと三人で、契約を交わした部屋にてお茶をいただいています。
二年前の非礼を謝罪したところ、アーノルト辺境伯様は笑ってこう仰いました。
「ベルティーナ。君が気に病むことではない。これから、よろしく頼むよ」
「はい。アーノルト辺境伯様。至らない点が多々あるかと存じますが、精一杯尽くさせていただきますので、よろしくお願いいたします」
「そう畏まらなくてよい。私達は家族になるのだからな」
辺境伯様の仰る通りです。私はアーノルト辺境伯様の妻になります。それなのに辺境伯様とお呼びし、お気を悪くさせたに違いありません。お優しい辺境伯様は笑っていらっしゃいますが、早くも失敗してしまいました。
「失礼いたしました。あの。私はアーノルト辺境伯様を何とお呼びしたら良いでしょうか? マルセル=アーノルト様ですので。ま、マルセル様と……」
「それでいこう」
マルセル様は間髪いれずにご快諾してくださいました。
懐の深さに感服いたします。
ですが、ヨハンは飲んでいた紅茶を吹き出して驚いていました。
「ち、父上?」
「いや。ベルティーナにそう呼ばれたら、体の調子が良くなってきた。……気がする」
「そんな奇跡は起こりません。絶対安静をお忘れなく。それから……」
「一週間後に家族だけで婚約式を挙げよう。それまでの間、このままでは駄目か?」
「…………」
何故でしょう。ヨハンとマルセル様が険悪な雰囲気になられました。お互い無機質な表情のまま見つめ合い、ヨハンは根負けしたのか溜め息をついて私へと目を向けました。
「ベルティーナ。父と話があるから、君に用意した部屋で待っていてくれないか? 一通り見て、足りないものがないか確認しておいてくれ」
「わかりました」
ヨハンが目配せすると、控えていたメイドが私を案内をしてくれました。
◇◇
「父上。話が違いますよね」
ベルティーナが部屋を出ていくと、間髪いれずにヨハンは父へ問いただした。
「ああ。本当なら今頃、私はベルティーナにお義父様と呼ばれていた」
「ですよね。ロジエ伯爵の前だけで良かったのですよ。ご自身が婚約者であるフリは」