005 アーノルト辺境伯
「婚約が成立することをお祈りします」
アーノルト領から帰ってきたアルドは、朗らかな顔でそう言いました。それから、病に伏せる辺境伯様の代わりに、来週ヨハンがロジエ領まで迎えに来てくれるという事も教えてくれました。
屋敷を飛び出した時とは、まるで別人です。どうやらヨハンと話をして、後妻ということをアルドも受け入れてくれた様子です。
母も妹も応援してくれていることを伝えると、「後は父上だけか……」とブツブツ呟いていました。
◇◇
一週間後、藤色のドレスを着て私は両親と三人でアーノルト領へと向かおうとしていましたが、屋敷の前には既にアーノルト家の馬車が停まっていました。
アルドから聞いていた通り、ヨハンが迎えに来てくれていたのです。
妹のカーティアも、ヨハンに気が付くと屋敷を飛び出してきました。
「まぁ、ヨハン様だわ!」
「おお。わざわざ迎えに来てくれたのだね」
ヨハンは辺境伯の跡継ぎらしく両親へ紳士的に挨拶をしました。
「勿論ですよ。お義父様。いえ、お義祖父様でしょうか?」
「はははっ。まだ気が早いぞヨハン」
「あら。それなら、私はお義祖母様かしら? ヨハンみたいな可愛い孫ができてしまうのなんて、素敵だわ」
「ははは。冗談ですよ。では、屋敷までご案内させていただきます」
両親の機嫌を取り、先に馬車へ案内すると、ヨハンは私の前に立ちカーティアへ視線を伸ばしました。
そして、空色の瞳を訝しげに細めます。
「ベルティーナ。君の妹は昔と変わらずだな。下品なワンピースだ」
「へ? ななな何を仰ってますの!?」
慌てて自分の服装を確認するカーティアをヨハンは横目で流し見て、今度は私を見下ろし首を傾げました。
「ベルティーナ、君は……古風なドレスだね。父が気に入りそうだ」
「ふふふっ。古風ですって!?」
妹はお腹を抱えて笑い始めました。
ヨハンのお義父様が気に入るのでしたら、よいではありませんか。
「あら。最高の誉め言葉ですわ」
「そうか。待ちくたびれて、迎えに来てしまったよ」
ヨハンはとても真剣な瞳でそう言いました。その意味を尋ねようか迷っていると、ヨハンはサッと目を逸らして微笑み、私の手を取りました。
「行きましょうか。未来の母上様?」
ヨハンの言葉を聞いて、また妹が笑い転げています。
ヨハンはそれを一瞥すると、今度は真顔のまま私の手を引きました。
「冗談だ。早く乗ろう」
「はい」
◇◇
両親とヨハンが他愛の無い会話を交わす中、馬車はアーノルト家へと向かいます。
私の目の前にはヨハンが座っています。ヨハンは私と目が合うと、微かに口元を緩めて笑いかけてくれました。
会うのは二年ぶりですが、前より大人びたヨハンに驚きを隠せません。
学生時代の彼は、首席の私に対して、何かと突っかかってくる人でした。彼は常に次席だったので仕方の無いことだと思います。
ですが彼は、辺境伯の跡継ぎです。私のように勉強しかすることが無かった人間とは違い、剣術もさることながら領主としての資質も磨かなければなりませんでした。
その全てをこなしながらも、彼は私をライバル視し、絶対に私より良い成績を取るのだと豪語し続けていました。
そして、私の秘密を探るのだと言い、図書室で一緒に調べものをしたり、学食を一緒にいただいたり、たまにアルドの話をしたり。そして彼は試験の結果が出る度に落ち込み、次こそはと宣戦布告し、また一緒に過ごして……。
学生時代の記憶を呼び起こすと、必ず隣にヨハンがいました。それはとても心地よく、私は彼と過ごす時間が何よりも好きだったのです。
学園を卒業して、やっと両親が私の婚約の話に乗り気になり、私に初めて婚約を申し込んでくれたのも、ヨハンでした。
◇◇
屋敷に着くと、私たちはアーノルト辺境伯様が療養されている部屋へ通されました。
アーノルト辺境伯様は正装し、ベッドの上で身体を起こした状態で私達を迎えてくださいました。顔色は良く、想像していたよりもお元気そうな姿に安堵しました。
両親がアーノルト辺境伯様とお会いするのは二年ぶりです。私の婚約が破談になった日です。互いに昔の事など気にされていない様子で一安心しました。
「ようこそ。ロジエ伯爵。それからロジエ夫人。そしてベルティーナ。このような姿で申し訳ない」
「いえいえ。お招きいただきありがとうございます」
私達はベッドの脇に用意されたソファーに腰掛けました。サイドテーブルには契約書が置かれています。恐らく婚約に関する契約書だと思われますが、文字がゴマ粒の様に小さくて読めません。テーブルに虫眼鏡が置いてあるのは、この契約書を読むためでしょうか。
そして、ヨハンが契約書の隣に立つと、アーノルト辺境伯は口を開きました。
「ロジエ伯爵。早速だが、婚約についての話をしても良いだろうか。恥ずかしい話だが、こうしてベッドから出られなくなる時間が、どんどん長くなっておるのだ。私に残された時間はもう少ないのかもしれん」
「そんなことは……」
「そこでだ。兼ねてから息子から話に聞いていたベルティーナを、アーノルト辺境伯夫人として迎えたいと思い、申し出たのだ。ベルティーナは、アルドに似て誠実で聡明な女性だと聞く。そんな女性に私は最期を看取って欲しいのだ」
私を水色の瞳で見つめ、アーノルト辺境伯様はそう仰いました。その眼差しはヨハンと似ていますが、歴戦を潜り抜けてきた辺境伯様としての威厳や風格も兼ね備えておられます。
私もこの方のお側に仕えて力になりたい。自然とそんな言葉が胸の内から溢れてきました。
「ですが……。ベルティーナは婚期を逃したとはいえ、まだ二十一にございます。これからも長い人生が娘にはあるのです」
「それを承知の上で頼んでいるのだ。ヨハンにはアルドと同い年の妹がいるだろう。もし私が先に逝っても、ベルティーナになら任せられると思っている。もちろんヨハンのことも。それに、大切な娘をいただくのだから、それなりの物は用意している。迷惑でなければ、アルドやベルティーナの妹君にも、私の知り合いを紹介してやろう。細かい内容はこの契約書に書かれている」
アーノルト辺境伯様がサイドテーブルの契約書へ視線を伸ばすと、ヨハンがそれを手に取り、虫眼鏡片手に内容を読み上げました。
「ベルティーナ=ロジエ様をアーノルト家に迎えるに当たっての諸々の契約についてです。まず持参金は必要ありません。ベルティーナがもし未亡人となった際もアーノルト家で世話をいたします。先程、話が出ましたが、ベルティーナ様の弟妹様には、ご希望があればご縁談の仲介をさせていただきます。また、ロジエ領とアーノルト領間の税についてですが――」
その後も領間の移動の際の税金の軽減や、物品の流通についての優遇に災害時の援助など、途中から父は遠くの壁にかけられた絵画へと、視線と心をお預けになられるほど、長い契約内容が語られ続けました。
そして最後にヨハンはこう締め括りました。
「ただし、これらの領間での優遇措置は、父が信頼を置くアルド=ロジエが爵位についてから有効性を持たせたいと思っております」