014 指輪と契約書
俺は婚約指輪と契約書を隠し持って、ベルティーナの部屋へ向かった。
扉をノックすると、マールが顔を出した。
「ヨハン様。ベルティーナ様はバルコニーでカモミールティーを召し上がりながら、お庭をご覧になってらっしゃいますよ。チャンスです!」
「チャンスって。――そうだ。シエラの課題が心配だな。見に行ってやってくれ」
「それは別館の使用人の仕事です」
「……」
「畏まりました。仰せのままに」
マールがその場を離れるのを見送って、俺はベルティーナの部屋に入りバルコニーへ直進した。
「ベルティーナ。失礼する」
「えっ? ヨハン。騎士団のお仕事はよろしいのですか?」
「ああ。父が迷惑をかけたな」
「いえ。マルセル様は本当に器の大きな御方です。アルドが真っ直ぐに育ったのは、マルセル様のお蔭だと確信しました」
ベルティーナは父へ多大な信頼を寄せているようだ。その父が今、階下で号泣しているなんて思いもよらないだろうな。
「そうだな。その……。先程の話の続きなのだが。父に」
「あっ。マルセル様の療養についてなのですが、痛みが引いてきたら、少しずつお体を動かした方がよいのですよね。腰を痛めてから、明日で三日目だと聞きました。ですから、明日の朝、一緒に庭をお散歩したいと思います」
「え? ああ。それなら俺も一緒に行こう」
「ヨハンは他にもお仕事が沢山あるのでしょう? マルセル様の事は私に任せてください。もっとマルセル様の事を知って、私は彼の支えになれればと思っております。それから、ヨハンの義母としても」
ベルティーナはいつも真面目で勤勉だ。
学生の頃も、花壇の世話を任された時、植物について調べ完璧に世話をしていた。
父についても、これからどんどん知識を付けて最善を尽くしてくれるのだろう。でも、それは妻としてではなく、義理の娘として、してもらわなくては。
「そんなに熱心だと、父に妬いてしまうな」
「きゅ、急にどうしたの? そういう言い方は好ましくありません。止めましょう?」
「止めない。さっき、ベルティーナが俺の事を、 だと言ってくれて……嬉しかった」
「へ?」
ベルティーナは飲みかけていた紅茶のカップを落としかけて慌てて両手で支え、耳を赤く染めて俺の方にゆっくりと視線を伸ばした。
「俺は、今も君の事が好きなんだ」
「……ぇっと。……ぁ、ありがとう……ございます」
何だその反応は。恥ずかしがっていて可愛い。
瞳を泳がせ動揺するベルティーナは、視線のやり場に困りながら口を開いた。
「でも、父はヨハンとの婚約は許してくれないと思います。それに、マルセル様と婚約を結んだのに、そんな不義理なことは出来なくて……。でも。でもね……すごく嬉しい」
ベルティーナは小さく首を横に振りながら、戸惑い赤く染まった顔を隠すように両手で覆い俯いてしまった。
俺は、先程ロジエ伯爵と交わした契約書を読み上げた。
「マルセル=アーノルトは、ベルティーナ=ロジエに対して、ヨハン=アーノルトとの婚姻の申し込みに関して次のとおり誓約する」
「えっ?」
冒頭部分がよく見えるように虫眼鏡を宛がいベルティーナへ契約書を見せた。ベルティーナは不思議そうに虫眼鏡越しに契約書へと目を走らせた。
「君の父は、もう俺とベルティーナの婚約を認めているのだ。本人は契約書を読んだ。と言っていたのだから。それに、俺の父も全て知って協力してくれていた。俺とベルティーナの過去のわだかまりを心配して、ロジエ伯爵が帰った後も、少しだけ君の婚約者のフリをしていたんだ」
「それじゃあ。私は……」
俺は二年間閉じたままだっだ小箱を開きベルティーナへと差し出した。
「ああ。俺と結婚しよう。ベルティーナ」
◇◇
ヨハンは婚約指輪を私へ差し出しました。
赤いルビーが輝く、とても素敵な指輪です。
これは、私が好きな宝石です。
「ああ。俺と結婚しよう。ベルティーナ」
あの日、夢で終わってしまったヨハンからのプロポーズを、二年越しに受けられるなんて想像もしていませんでした。
「はい。よろしくお願いします」
「ありがとう。ベルティーナ。一生をかけて君を幸せにしてみせるから」
「はい」
ヨハンが、私の指に婚約指輪を嵌めてくれました。
とても幸せな気持ちで胸が一杯です。
これはアルドのお陰でしょう。ですが、アルドの顔が浮かぶと、ロジエの家族を思い出し、ふと不安が押し寄せてきました。
「何か、心配事があるのか?」
「お父様が、もしヨハンとの婚約を知ってしまったら、と思うと少し不安で」
「もし、途中で婚約破棄なんて馬鹿な事をロジエ側が言ってきても、契約書に書かれた通りの賠償金を請求して破産させてやるから。してこないだろう」
「……ぇ?」
笑顔でなんと恐ろしいことを言うのでしょうか。
でも、ヨハンは昔からズルや不公平な事を嫌う人でした。それに、肩書きや権力も上手く使い、相手を沈黙へ誘うことを得意としていました。
「だが、アルドの為にも、そんな事まではするつもりはないから安心して。それに、ロジエ家に送る招待状以外には、俺とベルティーナの名前が書いてあるから、式の前には知られるだろうな。でも、当日騒がれるよりはマシだろうし、ここにいれば手出しは出来ない筈だ」
ヨハンは、その為に私をアーノルトへ置いてくれていたのでしょう。ロジエに戻っていたら、私は両親に逆らえず、アーノルトへ来られなかったでしょうから。
「ええ。そう……ね」
「ベルティーナは何も心配しなくていい」
「ありがとう。ヨハン。でも、私がヨハンと結婚だなんて、いいのかしら。アーノルトの名に傷が付くのではないかと不安だわ」
「もしかして、ベルティーナへ縁談を申し込んできた貴族達のことを心配してるのか?」
「私、色々な方に迷惑をかけてしまったから」
後妻であれば気に留める方はいらっしゃらないかと思っていましたが、次期アーノルト辺境伯夫人となれば、良く思わない方も多いでしょう。厚顔無恥にも程があります。
ですが、そんな私の心配を他所に、ヨハンは首を傾げて微笑んでいます。
「どうかな。言い方はアレだが、皆ただのゲーム感覚で君に婚約を申し込んでいたみたいだぞ。特に十件目以降は」
「げ、ゲームですか?」
「ああ。俺とベルティーナが破談になった時、周りは結構驚いたそうだ。父はロジエ家の為にも、破談の理由は誰にも話さなかったから余計に、何故そうなったのか関心を集めたとか。実際にロジエ伯爵を落とせるか賭けの対象にもされていたらしい」
まさかそんな事になっていたなんて、想像もしていませんでした。ですが、それなら絶えずに縁談があった事にも納得できます。
「俺は、君が誰かと婚約した話なんか聞きたくなくて、あえて情報を知らせないようにしてもらっていたから、何も知らなかったんだけど。自称病弱な妹を先に押し付けたいのか、ベルティーナに領内の経営を任せたくて嫁に出したくないのか。それとも、もっと良い待遇の縁談を希望しているのか。誰が何をしたらロジエ伯爵が首を縦に振るのか。皆それを知りたがっていたそうだ。中には勿論、ロジエとは今後関わらないと憤慨した侯爵もいたみたいだけど、父がアルドを心配して、別の令嬢を紹介してやっていたそうだよ」
「そ、そうでしたか。マルセル様には、ずっとお世話になっていたのですね」
「父はアルドを息子のように可愛がっているから。それからベルティーナの事も」
初めてかもしれません。
私を本当の娘のように思ってくれる方がいるなんて。
「嬉しいです。アーノルトの方々と家族になれて」
「ああ。俺も、ベルティーナと家族になれて嬉しいよ」
◇◇
その日の夕食の際、マルセル様は私に謝罪しました。
私がマルセル様へ嫁ぐ気持ちを整えてアーノルトへ来てくれた事が嬉しくて、ヨハンで少し遊びたくなってしまったのだと仰っていました。
それは半分本当で半分嘘だと思います。マルセル様は、私が急なことに動揺しないように、時間をくださったのだと思います。
ですが、それを言葉にすることはしませんでした。
私が言うまでもなく、ヨハンもシエラも、マルセル様の事を理解していると感じたからです。
そして私がそれを心の内に留めたことも、きっと、アーノルトの方々には伝わっているのだと、そう思いました。
これが、家族というものなのでしょうか。




