013 父の涙
療養部屋に戻り、執事にマルセル様の怪我を報告しました。ですが執事は、マルセル様の怪我を確認すると笑って言いました。
「これぐらいかすり傷ですよ。放っておいても――あ、血は拭いた方がいいですね。ご用意いたします」
執事は水の入った桶と白い布を用意すると、私に手渡しました。
「終わったら呼んでください。旦那様をベッドにお運びしますので」
「は、はい」
執事は爽やかに部屋から出ていきました。
これは――初めて任された婚約者として、ひいては妻としての仕事ですね。
初仕事だと意気込んでマルセル様の方へと向き直ると、マルセル様は驚いておられました。
「そんな事、ベルティーナがしなくてよい」
「いえ。私にお任せください。痛みを感じたら仰ってくださいね」
「……しかし」
私では心許ないのかもしれませんが、手先は器用な方です。マルセル様は、車イスに腰かけたまま気まずそうに窓の外へと目を向けておられます。
「失礼いたします」
左側頭部、こめかみの辺りが少し腫れていて、ヨハンと同じ水色がかった銀髪に血がついています。
濡らした布でゆっくりと拭い、腫れた箇所に触れると、マルセル様は少しだけ体を強ばらせ、言葉を発しました。
「ベルティーナ。先程の庭で話していたことなのだが……」
庭で。とは、ここへ来るまでマルセル様がお話してくださったことでしょうか。外の景色を眺めながら、マルセル様は顔をしかめ、言い辛そうにしています。
「どのお話の事でしょうか。マルセル様のお話は、私の知らないことばかりで興味深いことばかりです」
「いや。私とではなく、ヨハンと話していたことだ。通りすがりに聞こえてしまってね」
「あ……」
思い返すと顔が熱くなってきました。赤く染まったヨハンの頬が脳裏に浮かび、あんな恥ずかしいことを言ってしまった自分に驚きを隠せません。
ですが、それをお聞きになっていたとしたら、マルセル様はご不快に思われたに違いありません。
しかし、マルセル様は私の顔を見ると、ヨハンやシエラへ向ける顔と同じ、親が子へ向けるような優しい笑顔で微笑みました。
「ベルティーナは、今もヨハンを愛しているかい?」
「……そ、それは。――申し訳ございません。私はマルセル様の妻としてここへ参りました。過去の感情は今後一切口にいたしません。もう、全て過ぎたことですので、ご気分を悪くさせてしまい――」
「謝らなくていい。君はとても純粋で一途な女性なのだな。私ではなく、ヨハンが婚約を申し込んでいたら……」
憂いを帯びた笑顔に胸が苦しくなりました。
心無い言葉を浴びた時と少し違う、この苦しみはあの日ヨハンに胸の内を話せなかった時と似ていました。
「マルセル様。……ヨハンが申し込んでくださっていたら、また妹に婚約のお話を奪われていたでしょう。私はマルセル様が婚約者として迎え入れてくださったお蔭で、ここにいることが出来るのです」
マルセル様は、困ったように微笑みました。それはヨハンとそっくりで、益々胸が絞めつけられました。
「そうだな。ベルティーナの言う通りだよ。これからは、君の人生は君のものだ。私はそれを応援するよ。私にしてあげられることがあれば、何でも言っておくれ」
マルセル様は私の心が見えているのでしょうか。
私は、庭でヨハンに言いかけたことを、マルセル様に話しました。
「そ、それでしたら。……とても遠いお話になるとは存じますが、シエラやヨハンが結婚して、そしてもしも……マルセル様が私よりも早くここを去られることになった時は、私を修道院に行かせてくださいませんか?」
「しゅ、修道院だと?」
「はい。マルセル様はアーノルトを私に任せられると仰ってくださいましたが、私には少々荷が重く存じます。ですから――」
「分かった。この話はまた、ヨハンも交えて答えをだそう」
「はい。ありがとうございます」
マルセル様は力強く頷き微笑むと、また窓の外へと視線を伸ばしました。
◇◇
父に言われ騎士団へ行ったと思えば、またすぐに父からお呼びがかかった。
まさか、本気でベルティーナを自分の後妻にしたくなったのか?
いやいや。契約書だって俺の名前になっているから、今更変えようがないし、あれだけ俺やシエラが結婚するまでは死ねないと騒いでいたのに。
まぁ、それもただの腰痛で命に別状はなかったのだけれど。
父の行動予測が出来ぬまま、俺は療養部屋の扉をノックした。
「父上。失礼します」
部屋に入ると、父は車イスに腰かけたまま窓の外を眺めていた。その後ろ姿には哀愁が漂い、こちらを振り返ろうとも、言葉を掛けようとする素振りもない。
「あの。お呼びになられましたよね?」
「……ああ。……っ。呼んだ」
父は肩を震わせ、瞳の辺りを手で拭いながら言葉を絞り出している。
まさか……泣いてる? 状況が理解できない。
しかし、呼んだということは、俺に理由を聞いて欲しい筈だ。
もしかして、ベルティーナに嫌われた……とか。
結構、寂しがり屋だからな。
「どうされましたか?」
「ヨハン。これをお前に」
父はこちらを向かず、小箱を俺に向かって差し出した。それは、二年前にベルティーナへと渡そうとしていた婚約指輪が入った箱だった。自室のキャビネットに仕舞っておいた筈なのに、何故父が持っているのだろうか。
「一週間後、婚約式を開こうと言っただろう? ヨハンが先走らないように、執事に回収させていたのだ。――しかし、返す」
「はい?」
「ベルティーナは、ヨハンとシエラの結婚を見届け、私と死別し未亡人になったら、修道院へ行きたいそうだ」
「な、何の話ですか?」
「アーノルトを任せるとベルティーナに言ったが、自分には荷が重いと。しかしそれはただの言い訳だ。――ヨハン。お前が結婚した後、側で見守るのが辛いからなのだ。分かるな?」
さっき庭でベルティーナが言いかけていたのはその事だったのだ。
だから、一緒にいられないだなんて――。
「そんな事、分かってます。……もしかして、ベルティーナに本当の事を話したのですか?」
「我慢したからっ。涙が止まらんのだろう!? 健気な彼女を騙した罪悪感で、もう腰の痛みも忘れるほどだっ。早く、ベルティーナに本当の事を教えてやれ。お前達にじがんなんがもぅ……」
「は、はい」
俺は号泣して呂律の回らない父から婚約指輪を受け取った。
父の涙を初めて見たのは、妹のフィエラの結婚式だった。私はもうフィエラに必要ないのだと、夜通し泣いていた。
あの日と同じ涙を流すと言うことは、もう、ベルティーナは娘同然ってことで良いのですよね。
「父上。二年前、ベルティーナと俺はすれ違ってしまいました。ですが、互いに気持ちはあの頃のまま変わりません。少し話しただけで分かりました。ですから、父上が提示してくださった一週間は必要ありません。マルセル様と呼ばれることは今日で終わりになると思いますが、お義父様と呼ばれることも悪くないと思います」
「……確かに」
父の涙がピタリと止まった。
やはり、用済みにされるのが寂しかったのだろうな。
ベルティーナはそんな人じゃないのに。
勿論、俺も。
「では、失礼致します。父上」




