八年経って、
交際して二年が経った頃、姿を消した恋人を探し、待ち続けるのを八年目で諦めた女性からの手紙。
黒森 冬炎様主催『ソフトクリーム&ロボ〜螺旋企画〜』に参加させていただいています。
実は使いまわしのキャラクターです。
貴方はこの手紙を見て、どんな顔をしていますか?
貴方が私の前から姿を消して、八年が経ちました。八年というのは、好きな子に意地悪するやんちゃ坊主が大人の仲間入りをするまでの時間と考えると、かなり長い時間のように思います。
私は元気に社会人をしています。両親に頼ることなく、自分の力で生活をしています。昨年、兄夫婦に三人目の天使も生まれて、叔母バカが止まらない毎日です。
まあ、それは置いといて、私は健康に不自由なく暮らしています。貴方もそうだったら嬉しいです。特に健康は心配しています。私と貴方が出会ったとき、すでに貴方は三十代を折り返していたから。でもピンピンしてたらちょっとムカつきます。私はこうやって貴方を思い出しながら、滞りなく手紙を書けるまで八年もかかりました。それまではずっと、貴方が帰ってくることを妄信していました。
ショックでした。二十一歳だった私の甘え攻撃をたじたじと受け止めていた貴方が、私が社会人生活に慣れた頃、同棲していたマンションから出ていってしまったのですから。そこから私は悲しみのどん底に落とされて、会社のチームで任されたプロジェクトを降りました。どうして何も言わずに消えたんですか? 貴方はそんな不義理な男ではなかったでしょう? 話してください。怒るかどうかは理由によりますけど。
とにかく貴方のいない生活は笑えないものでした。男性キャラが横恋慕しようとするガールズラブくらい。カフェで運ばれてきた、メニュー写真よりずっと貧相な苺のタルトくらい。どちらの例えも、貴方はきょとんとするだけだとは思いますが。
私が大学に行く朝にヘアセットをしていると、貴方は「俺がやりたい」とはしゃいだ声でねだって来ましたね。なんでも手を出したがる子どものようで可愛いから「いいよ」と言ったけど、貴方はヘアアイロンなんて使わないから上手く扱えなくて、百八十度のコテが首に当たったり、コテを逆方向に回すから髪に折り目がついてカールが汚くなったりもしました。
そのくせ私がクリームやらアイロンやらを駆使して髪を直していると「遅刻するよ!」と言ってくるものだから、その時ばかりはこのクソジジイと思いました。恋人の髪で折り目だらけの汚い螺旋を作って「出来た!」と満足そうに笑う顔が可愛かったから許していましたけど。可愛いクソジジイだと思いました。そして、私が就職を機に髪を切ったら、そのやりとりはなくなりましたね。
お気に入りのヘアクリームが無くなりそうになった頃に、貴方は書き置きだけを残して姿を消しました。
「君の未来が幸せであるように」
ボールペンなのに元書道家らしく流麗な字が、憎らしく感じました。
結局、ヘアクリームは変えて、ヘアアイロンも暇を出しました。それでも染み付いた習慣というのは残っていて、貴方が好きだと言ったから鮭の西京焼きも頻繁に作りますし、貴方の趣味の一つだった女性アイドルの応援もしますし、寒がりな貴方のために買ったブランケットもそのままにしてあります。
貴方が快適に生活する環境もスキルもあるのに、貴方のための空間があるのに、貴方はいない。
別に、貴方がいなくても生活は出来ます。ヘアセットは自分でやった方が綺麗に出来るし、西京焼きは作ったら食べるなりお弁当に回すなりすればいいし、アイドルは自分が「この子だ!」と思う子を見つけて応援しますし、私も冷えるのは苦手だからあのブランケットを使えばいいんです。ただ、寂しくて悲しい気持ちがずっと残っていました。
貴方のいない世界でも、生活が出来るのが苦しかったです。貴方と引き離されたら死んでしまう体だったら良かったと、広いリビングでそれだけを思っていました。貴方と別れても正常に日常を送れることが、苦痛でした。
Wi-Fiが繋げないパソコン、貴方が羽織らないブランケット。
お湯を出さない給湯器、貴方が観ないアイドルのライブDVD。
相手のいない喧嘩、貴方が食べない西京焼き。
干からびた湖、貴方には作れない綺麗なミックス巻き。
摂氏零度の太陽、貴方のいない世界。
それくらい、貴方は私の日常に欠かせない存在でした。貴方が姿を消してから半年間は夜通し泣いて、毎日喉が乾燥して噎せました。そのあとは会社を辞めて、親に借金をして貴方を探しました。貴方の地元だけじゃなく、日本全国、貴方がうんと若い頃に活動していたフランスやイタリアにも飛んで探しました。
でも、貴方は見つかりませんでした。逃げているのか、すれ違っているのかはわからないけど、探し続けても貴方が私の前に現れないということは、そういうことなんでしょう。貴方を探すことを二年前に諦めました。
そして、貴方が姿を消して八年、貴方と出会って十年。貴方を待つことを諦めます。笑い上戸で、照れ屋で、いつまでもお坊ちゃんで、女からの好意に鈍くて、優しくて、外見も声もスマートに格好いいのに、たまに子供っぽい貴方を、連絡先も変えずに待っていたけど、もう諦めます。
だから手紙を書きました。貴方への想いに終止符を打つために。貴方宛てにしたら貴方は読まないでしょうから、貴方が自慢していた美人で優秀な妹さん宛てにしました。住所は静岡にある貴方の実家を書きました。貴方は色恋沙汰で悩むたび、実家に帰って妹さんに泣きついていましたからね。
手紙を読む貴方を想像して、私は秦野光華の個展に行きます。書の巨匠・秦野頼山の孫娘で、多くの賞を受賞した素晴らしい女性書道家です。彼女の兄である秦野聡舟が書いた最初で最後の復帰作もあるそうですよ。
手紙を読んだ貴方は、どんな返事をするでしょうか。
貴方は私のいない世界で、どんな顔をして生きているでしょうか。
書家・秦野光華作品展。展示された作品たちをじっくり鑑賞したあと、光華先生にご挨拶をする時間を頂けた。
「光華先生、お時間を頂きありがとうございます」
「結安ちゃんが来てくれたんだもん。当然」
おっとりと微笑む彼女は、上質な着物を品よく着こなしている。彼女は四十代半ばになるけど、初めて会った時と変わらず美しい。
「もう呼ばないのね?」
寂しげなソプラノが聞こえて、「え?」と聞き返した。
「光さんって」
「……はい、もう終わらせましたから」
「そっかぁ……」
光華先生の言葉を最後に、お互い何を話したらわからなくなって静寂が流れた。
「……。」
「……本当に素晴らしい作品でした。先生のさらなるご飛躍を祈念いたします。聡舟先生にも、よろしくお伝えください」
当たり障りのない挨拶をして会話を終わらせようとしたら、光華先生は「結安ちゃん」と柔らかい声で私を呼んだ。
「はい……?」
「引き取って欲しいものがあるの」
何のことかわからずに突っ立っていた私の耳が、革靴の足音を聞き取った。
「ひかりー、俺にお客様って――」
私たちの前に現れた長身の紳士は言葉を途中で切った。私の顔を見て、声を失ったという方が正しいかも知れない。大きく見開いた切れ長の目、年を重ねて少し皺が刻まれた端正な顔立ち、艶感のあるスリーピースを着こなす恵まれた体躯。
「聡……」
私の口は、不意に紳士の――八年前に姿を消した恋人の名前を呼んでいた。
どういうことかわからなくて光華先生に視線を移す。彼女は落ち着いた声で言った。
「ごめんね。兄があなたと話し合わずに別れたって知ってからずっと、このままじゃいけないって思ってたから」
そう言った彼女は、申し訳ないというよりは、『しょうがないな』という顔で眉を下げていた。
いつの間にか、この場は私と紳士――聡の二人きりだった。
「結安…ごめん……」
それは何に対する謝罪なの? 目でそう言ってやったら、
「いや、何っていうより……あれ読んだら罪悪感湧くよ」
そっか。罪悪感か。いっそ「重い」とか「困る」とか言ってくれた方が良かった。貴方に罪の意識を持たせたくて書いたわけじゃないんだ。
棒立ちしたままの彼が、気まずそうに言った。
「俺も……結安といたかったけどさ」
凛とした切れ長の目が、プレーントゥの革靴に向けられる。
「忙しくしてる結安のこと見てたら、俺は必要ないって思ったから」
え、そんなことで? そんなことで私の八年を奪った?
「最低」
自分が必要ないと思った?
「ほん、と……さい、てー……この、クソジジイ」
そんなの勝手な決めつけだ。こっちの気持ちも知らないで。
ボタボタと涙が頬を伝って落ちて、目の前にある厚い胸板に拳をぶつけていた。
「最っ低、だいっきらい、死んじゃえばいい!」
拳をぶつける重い音と、私の咽び泣く声だけが聞こえる。
「大嫌いなのに、大好きだ」
残念、ハズレ。
「もう…離れないで……」
八年経って、それでも貴方しかいなかった。
お付き合いいただきありがとうございました!
実は未来のこいつらでしたー! ↓
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『この恋はテイクアウトで #1』