八:停滞は慟哭ともに
魔王への刃は憎しみと恨み、それから失望とともに振るわれた。
三年前、魔王城。
真正面から攻め入った『七英雄』たちを陽動にして、暗殺者の少年は城内へ潜入する。
ただ、彼の目的は魔王の命などではなく、城内に匿われていると思しき魔王の娘の身柄だった。彼にとってはそれこそが旅の理由であり、それ以外のことは眼中になかったのだ。
実際のところこの時、少年が魔王を殺すことになるなど『七英雄』たちはもちろん少年自身も予想していなかった。少年は娘を発見次第、彼女を連れて城を脱出する予定であり、『七英雄』は英傑の本懐、旅の総仕上げとして、彼ら自身の手で魔王を討ち滅ぼすつもりだった。
だが、少年は——城に潜入し、内部を探索し、なのに『彼女』はどこにも見つからず、焦燥と忿怒とともにとうとう魔王本人の前に姿を現し、所在を問いただして愕然とする。
転移魔術陣。
霊族の発明した叡智の結晶、伝承級の遺物。
対象を遠隔地へと一瞬で移動せしめる奇跡の魔道具。
魔王は、『七英雄』が攻め入ったのに合わせ、己が愛娘を、既にここではないどこかへと逃していた。
転移先は大陸のどこか。魔王にもそれはわからぬと言う。
その事実は少年にとって、あまりにも残酷で、あまりにも無体だった。
故に少年は、憎しみと恨み、それから失望とともに、魔王の首へと刃を振るった——。
※※※
「エメのお父さんを殺したのは、僕だ」
クライズの告白に、エメの喉が、まるで断末魔のようにひゅ、と鳴った。
意味がわからなかった。
わかりたくなかった。
だから問おうとした。うそだよね、と。
「嘘じゃない」
なのに声にするより先、クライズは否定する。
「……この短刀だ」
卓の上にある薄鈍色の刃に視線が向く。
わざわざエメに見せるように置いたのには理由があったのだ。
「僕はこれで、あいつを殺した」
「……っ!!」
椅子を蹴飛ばす勢いで、エメは立ち上がった。
手を伸ばして短刀をひっ掴み、柄を握り締め、数歩を退がる。
頭で考えるより前に、心で感じるより先に、そうした。そうしなければならなかった。
短刀があらかじめ、柄をこちら側に向けて置かれていたことには気付かなかった——まるで、エメが手に取りやすいように。
刃を掻き抱くように身構えたまま、クライズを睨みつける。
「なん、で! どうして……!?」
どうしてクライズがお父さんを殺したの?
どうして私はクライズから距離を取ったの?
どうして私はクライズをこんな目で見ているの?
どうして私はクライズに、刃を向けているの?
視界が滲む。心臓が痛いほどに速い。呼吸が覚束ない。
頬が熱い。上気する。身体が震える。
その変調はまるで恋のようで——ああ、恋と憎しみが似ているなんて、知りたくはなかった。
どうして?
ねえ、どうして?
どうしてクライズが、暗殺者なの?
どうしてお父さまが、魔王なの?
どうして私は、こんなことになっているの——?
「僕は……僕は、きみを魔王城から連れ出すため『七英雄』に同行した。暗殺者になったのは、僕の力がそれに一番適していたからだ。でも……結局、失敗した。きみはもう転移陣でどこかに逃がされた後だった」
「……だから、お父さまを殺したの?」
「魔王をそのままにしておくことはできなかった……いや、言い訳だな。僕は許せなかったんだ。憎かった。殺したかったんだ。だから殺した、あいつのことを」
「お父さまが……『魔王』が、なにをしたかは知ってる。たくさんの人を不幸にして、たくさんの人を悲しませた。魔族たちが今こんな扱いをされてる理由もわかる。でも……だからって。なんでクライズなの。なんでクライズが、殺したの」
父が殺されるべきだったというのならば、相手は誰でもよかったではないか。
それこそ『七英雄』の誰か——勇者にでも任せておけば、それでよかったではないか。
それならばエメも悩むことはなかった。
顔も見たこともない、今はミドガルズ第一王女の婚約者としてお城にいるという勇者さま。
物語の主人公みたいなその人を、勝手に恨んで。
父のことも、悪い魔王だったのだから仕方ない、と勝手に諦めて。
そうして心を殺して——奴隷時代の折檻のように——やり過ごしていれば。
少なくとも、こんな気持ちにはならなかったのに。
「お父さまは、私を救ってくれたよ。あの日、村が滅んで、クライズと生き別れて、お母さんが殺されて、ひとりぼっちになった私を……救ってくれたよ」
私の大好きな人が、私を救ってくれた人を、殺すだなんて——。
「エメ、違う。それは……違う」
クライズの表情がその時、はっきりと歪んだ。
笑っているような、怒っているような、泣いているような——けれど一方で、視線はやけに真っ直ぐだ。
エメは思わず息を呑んだ。
昔、子供の頃。
村の結界の外に出て王都に行ってみたいとか、いいや今すぐ行ってみよう冒険しようお母さんにもルルゥお姉ちゃんにも内緒で、なんて。そんな思いつきの我儘を言ったエメに。
ダメだよ、やめようよと。
そう諭したあの時のクライズと、そっくりな目をしていたから。
「テレサ村は、結界で覆われていたよね」
そう——結界だ。
近寄った人間の精神に干渉し、そこに集落があるという意識を持てなくする結界。
外部からの接触を一切拒絶する、魔術式。
どうしてあんなものがあったのか。
魔族の襲撃から逃れるため? 争いを避けて幸せに暮らすため?
それは確かにそうだろう。実際、村のみんなは、平和に暮らせていることを村長であるテレサに感謝していた。
けれど、では——。
どうして村から出られないのか。出てはならなかったのか。
エメが、クライズが子供だったから?
そうではない、少し違う、と言うように。
クライズは告げた。
「村は……テレサかあさんが作ったあの村は、エメ。きみを守るためにあった。魔王の娘であるきみを、魔王から守るためにあった」
「どう、いう……こと」
それはエメにとって、
「魔王はきみを自分の後継者にしようとしていた。……同じ『祝福』を持つきみを、次の魔王にするつもりだった。自分が死んだ後も、我が世が続くように。魔族が人類種の頂点に立ち続けるために」
「まさ、か……」
父の言葉を、思い出した。
——お前は私にそっくりだ。
自分に似ている娘のことを、愛しんでくれているのだと思っていたけれど。
——同じ祝福も持っている。
父娘の証であると、喜んでくれているのだと思っていたけれど。
——後を継ぐに相応しい。
後を継ぐ。
次の『魔王』になる。
それはどういうことなのか。
それは、蹂躙するということ。
同朋たちの魔力を増大させ、圧倒的な暴力を行使させ、多種族を思うがまま恣にするということ。
エメの力で、誰彼構わず、手当たり次第に人を殺して回るということ——。
「テレサかあさんはきみを産んだ後、魔王の元を逃げ出し、そして隠れていた。ただ、匿っていたのはきみだけじゃなくて……いや、それは今はいい。魔王はきみが十歳の時に村を発見した。そして襲った。きみを奪い返すために、村のみんなを、テレサかあさんを殺したんだ」
嘘だ、と言いたかった。
そんなの嘘だ。間違っている。認められない。
だってお父さまが村を襲っただなんて。お母さんを殺しただなんて。
嘘だ。嘘だ。嘘だ。
だって嘘じゃなかったら。本当のことだったら。
お母さんが死んだのも。村のみんなが死んだのも。
「……ぜんぶ、わたしのせい、なの?」
呼吸が荒くなる。
短刀を持つ手ががくがくと震える。
自分はどこに立っている? どこに立っていた? どうして立っている?
こんなにも罪深くおぞましい存在なのに、どうして生きている?
胸が痛い。
目眩がする。
膝がいうことを聞かない。立っていられない。動悸が酷い身体が熱い悪寒がする気持ちが悪い頭が割れる吐き気がするそれらすべてが加速して止まらない——。
「……っ」
エメはその場に崩れ落ちた。
緩慢に視界を霞ませながら。
それはおよそ二週間ぶりに発病した、停滞病の発作だった。




