六:束の間、幸福な日々
エメはその日、雑巾を手に屋敷の掃除をしていた。
階段の手摺や窓の桟などを中心に、埃を拭い取って綺麗にしていく。
汚れはけっこう溜まっていて、木桶の水が見る間に濁っていく様に思わず苦笑してしまう。
そもそもこの屋敷、正直に言うと全体的に掃除が行き届いていないのだ。クライズがここで暮らし始めてからどのくらい経つのかは知らないが、男やもめでおまけに人を雇っている様子もない。それを考えればまあ綺麗にしている方ではあるものの——やはり細かなところがどうしても気になってしまう。
廊下にしゃがみ込んで雑巾を絞っていると、クライズが背中から声をかけてきた。
「無理に掃除なんてしなくていいんだよ」
「えー、だって気になるし……」
「だったら僕もやるよ」
手伝ってくれるのは嬉しいが、エメだって元気になってきたから、このまま食っちゃ寝の生活を送るわけにもいかない。身体を動かしたいし、なにより役に立ちたい。
「いいよ、大丈夫。私、こういうの慣れてるから」
ひとりでできるもん、と思いながら申し出を断る。
断って——失言に気付き、振り返った。
案の定、クライズはうつむき気味に痛ましそうな顔をしていた。
「あ、その……ごめんなさい、違うの!」
慣れているという言葉に嘘はない。
が、慣れた理由が問題だった。
それはつまり、奴隷として働かされていた三年間で否応なしに慣れさせられたということだったから。
屋敷の掃除、風呂焚き、庭の草むしり、荷運び。あらゆる雑事を片端からすべてやらされた。
ひとつひとつの作業は重いものではないとはいえ、日が昇る前から夜更け近くまでろくな休みなどなく延々と続くのであればそれは苦役となる。少しでも効率が落ちたり失敗をすれば容赦のない折檻が飛んできた。むしろ折檻を受けて気絶した方が身体を休められるほどだった。
「そういう意味じゃなくて……私がしたくてしてるの、だからっ」
言い訳しようとするも、しどろもどろになってしまう。
自分の気持ちをどう伝えればいいのかわからない。
「だって、クライズと私のお家を綺麗にしてるんだもん。誰かから強制されたことじゃなくて、私が自分からしてることだもん。そ、それにね……」
クライズに悲しい顔をさせてしまったことが申し訳なくて。
申し訳さのあまり、必死に紡いだ言葉は、
「確かに奴隷だった時にね、ずっと、お掃除とかやらされてたよ。でも、これは花嫁修行だって、そう思って頑張ってたの。だから……今のお掃除はね、前と違って、修行の成果だから!」
まるで愛の告白みたいに、なってしまった。
「……って、あ! その、今のは」
——実のところ。
それは奴隷時代、エメの心を正気に繋ぎ止めていた楔、魔法の言葉であった。
冬の水洗いも、煤にまみれた風呂焚きも、爪に血が滲みながらの草むしりも。
将来クライズと再会して——お嫁さんにしてもらった時にきっと役に立つ。
彼と一緒に暮らす時、きっと喜んでもらえる。
だから無駄じゃない。
つらいけど、苦しいけど、決して無駄じゃない、と——。
そう、自分に言い聞かせてきた。
自分をごまかしてきた。
心を殺して耐えてなお、それでも折れそうになった時、なんとかやり過ごすための原動力。魔法の言葉にしてきたのだ。
——まさか、当のクライズに明かすつもりなんてなかったけれど。
「その、ええと……」
エメは口ごもり、顔を熱くして身をよじらせる。
再会して半月ほど経つ。お互いの想いなんてもはや確かめ合うまでもないが、それでも改めて口にしてしまうととてつもなく恥ずかしい。
しかし、もじもじしているエメに比べ、クライズはいち枚上手だった。
「ありがとう、エメ」
さっきまでの暗い表情から一転。
彼は嬉しそうに微笑むと、しゃがんで目線を合わせ、
「そうだね、掃除くらい信頼して任せなきゃ」
そう言って、エメの頭を優しく撫でる。
「ふぇ!? ふわあ、あ……」
絹を洗うように。宝石を磨くように。
指先と掌は優しく、多幸感と熱でエメの背筋が緩む。
「花嫁修行の成果、他に見せられるものはある?」
「お風呂の用意とか、お洗濯とか、草むしりとか……」
「そっか、頼もしいね。料理はできる?」
「そ、それはできません……」
前の主人は貴族で、食事の用意は料理人の役目だった。専門職の仕事は奴隷に任されるようなものではないし、加えて『口に入れるものに魔族が触れるのは汚らわしい』という差別感情も大きい。
実際、奴隷であるエメたちが食事に関する諸々に関わるのは禁じられていた。調理はもちろんのこと、配膳や食器洗いなども。
奴隷たち用の食事なら当番制で定期的に作ってはいたものの——野菜くずや肉の切れ端を塩だけで煮込んだあれは、果たして料理と言えるのだろうか。
クライズもきっとそれはわかっているはずだ。けれど敢えて冗談めかして問うてきた。
そして、まぜっ返す。
「エメは昔から料理苦手だったもんね」
「むうう! だってクライズの方が料理上手かったから……」
「『私が狩りをするからクライズが家事をするのよ!』、なんて言ってたもんね」
「クライズ、狩りとかできそうになかったんだもん!」
子供の頃はそうだった。
土いじり、狩り、家事と、生きるために必要な諸々は男女の区別なくひと通り手伝わされていたが、やはり個人で得手不得手と好き嫌いは出る。
強気で活発、おてんばなエメと、弱気で内向的、おとなしいクライズ。エメは外仕事の方が得手で、母ではなくルルゥに狩りを教わる方が好きだった。クライズは逆に外仕事が不得手で、テレサに料理の筋がいいとよく褒められていた。
お前たちは仕事が逆の夫婦になりそうだな、と、よく大人たちにからかわれたものだ。
在りし日を思い出して頬を膨らませたのち、エメはふと、クライズへ額を寄せる。
軽く触れ合わせて、おずおずと問うた。
「……ねえクライズ。お母さんの料理、今でもぜんぶ作れる?」
「もちろん。忘れてなんていないよ」
クライズは笑う。
優しく——昔みたいに。
「じゃあ、私にも教えて? 食べるだけじゃなくて作りたいの。覚えていたい」
「そうだね。エメの料理下手はテレサかあさんの悩みだったから。きっとテレサかあさんも喜ぶよ。……それでゆくゆくは、エメにも作ってもらおうか。僕も食べてみたい」
「ルルゥさんも呼ぶ?」
「ああ、ルルゥには鴨を獲ってきてもらおう。あいつは昔にも増して、狩りが上手くなった」
——ルルゥさんのこと『あいつ』なんて言うようになったんだ。
昔は『ルルゥお姉ちゃん』と呼んでいたはずだ。
ちなみに夜妖精族は成人してからはほぼ不老で、寿命も只人族や魔族の二倍くらいある。だから正確な年齢はよく知らない。でも『ルルゥおばさん』っていうと、ただでさえ鋭い目を細めてじっとこっちを見たまま、絶対に返事をしてくれない。あの視線を思い出してぶるっと震えた。
そのルルゥから『お姉ちゃん』が取れて、しかも『あいつ』呼ばわり。
いったいどういう経緯でそんなふうに変化したのだろう。
親しみが深まったからではないと思う。むしろ逆な気がする。クライズはたぶん——大人になる必要があったのではないか。ルルゥと対等になる必要があったのではないか。
お姉ちゃん、ではなく呼びつけにできるほど。あいつ、だなんてぞんざいに言えるほど。
もう、弱気で内向的でおとなしかった頃の彼はいない。
そして、強気で活発でおてんばなエメも——。
私たちは変わってしまった。改めて思う。
在りし日の記憶は過去のもので、時々こうして懐かしむことはできても、ひとしきり愛でた後には再び胸に仕舞いなおさなければいけない。そうしないと、大事に保存しておかないと、風化して壊れてしまうから。
だから思い出を胸に、顔を向けるのは過去ではなく。
これからと、そして未来のことを。
「クライズ」
「なに?」
エメはクライズを促しながらともに立ち上がると、少しだけ前にかがみ、顎を上げて、顔を傾け、
「お掃除頑張ってるから、ご褒美ちょうだい」
子供の頃には決して見せなかった——新芽ではなく蕾を、若葉ではなく蜜を連想させる顔で、せがむ。
「雑巾持ったまま、することじゃないんじゃないかなあ」
苦笑するクライズの気配が体温を感じさせるほど近くなる。
緊張は直前の一瞬だけで、受け入れればもうあとは甘い痺れ。
さっき頭を撫でられた時と似た、けれどあれの何倍も何十倍も幸せな気持ち。
エメは雛のついばみを想像していたのに、実際は子犬の甘食みで、ずるい、と思った。




