五:それはやがて死に至る病
エメが治療を受けて、二週間が経った。
そして彼女の生活は、奴隷だった頃から比べるべくもないほどに改善されていた。
食事は当初出されていた消化優先の病人食を終え、既に通常のものへ移行している。
肉も魚も野菜も、しっかりとした歯ごたえを保ったまま調理され、『食べている』という実感があった。麵麭も上等な麦を使って焼かれた白いやつだ。
出される料理は総じて質の高い食材が使われていた。魔王である父のもとで暮らしていた三年前には及ばないまでも、生まれた村で食べていたものよりも上等なくらいだ。
もちろん改善されたのは食事だけではない。
入浴は毎日、石鹸は好きなだけ使い放題、睡眠は柔らかい寝台に羽毛布団——エメは気付いていなかったが、その生活水準は王都の平民のそれを大きく上回り、中級貴族とほとんど同等である。一般市民は入浴など週に一度が普通で、石鹸は高級品、布団も羊毛屑を詰めたやつをいかに長く腐らせずにいられるか、といったような具合だ。
貴族並というのには気付けずとも、贅沢をさせてもらっていることはわかる。
そして、贅沢をするには金銭が必要であることも。
「クライズはなんのお仕事をしているの?」
その日、食卓を囲む際にそう尋いてみた。
小さいながらも屋敷持ち、食事も上等、家具も高級さはないものの決して古くない。おまけにエメを買う時に、三万シルという値段をぽんと払っている。
「というか、そもそもお仕事行ってる……?」
よく考えたらエメがここへ来てから二週間、彼はどこかに出かけた気配が一切なかった。
だいたいが一日中屋敷にいて、エメが体力を戻すために運動するのを介助してくれたり、エメがお手伝いをしたいと掃除や洗濯をするのを見守ってくれたり、エメが退屈しないようにと書庫から本を見繕ってきてくれたり——なんてことだ、ほとんどエメと一緒!
もしかして自分の傍にいるために仕事もせず、貯金を使い潰しているのではないかと不安になる。
「心配いらないよ」
けれどクライズは、切った肉を麵麭に乗せながら、柔らかく苦笑した。
「蓄えは充分にあるし、困るようなことにはならない」
言いながら手巾を差し出して、エメの口元を拭ってくる。
気付かないうちに調味油が頬へ付いていたらしい。幾らなんでもお行儀が悪すぎた。かあっと頬が熱くなる——そんなにがっついてしまっていただろうか。
「エメの調子が戻るまで仕事を控えてる、ってのはある。でも、僕と同じ食事が摂れるようになったし、顔色もだいぶよくなってるから、ぼちぼち再開してもいいかなとは思うよ」
あとはもう少し太ろうか、と。
クライズは冗談めかして付け足した。
「淑女に失礼ね」
だからエメもわざとむくれてみせる。
まあ確かに、まだまだ自分の手足は枯木のように細く、脇腹に肋も浮いてしまっている。もっと肉を付ける必要があった——それで健康を保証できるようになるかは、ちょっとわからないが。
ふたりで笑い合う空気は幸せで、だから水は差さなかった——差せなかった。
『エメの調子が戻るまでは』という彼の言葉が、小さな棘となってエメの心を引っ掻いたとしても。
そして、その痛みに気を取られたせいか、気付いていなかった。
エメが尋いたそもそもの質問——『クライズはなんのお仕事をしているの?』。
その答えを、クライズが上手くはぐらかしたことを。
※※※
食事が終わり、後片付けをふたりでして、自室へと戻る。
エメのために充てがわれた部屋はそれなりに広く、生活に必要な家具が一式きっちりと揃えられていて、彼がいかに自分のことを想ってくれているかが伝わってくるようだ。
一週間分の普段着がまるまる収納できるような衣装棚。
よく磨き上げられた立派な鏡のついた化粧台。
時間を忘れて読書に耽ることができる机。
そして、ゆったりと両手足を広げられるほどに大きな寝台——。
部屋に戻るたび、満ち足りた気持ちになる。
エメは寝台の上へぽふんと座り、ひと息つきつつ、部屋着から寝間着へと着替えなきゃなと思い。
立ち上がろうとして、
「……っ!」
不意にやってきた胸の痛みに——唇を咬んだ。
胸の痛みを呼び水とするように、全身に不調が顕れる。
ぐらぐらと酷い目眩がする。
息が浅くなる。
手足が震えて力が入らない。
三半規管が狂って座ってさえいられない。
身体が熱くそのくせに悪寒がする。
激しくなっていく動悸が胸を締め付ける——。
寝台の上に倒れこみ、蹲った。
不意とはいえ、覚悟していた発作だ。
いずれ来るべきものだった。クライズに身請けしてもらって以降ずっとなりを潜めていたから、そろそろかなとは思っていた。むしろひとりきりの時に来てくれて助かった。こんなもの、クライズには見せられない。
気分は最悪で全身を駆け巡るいろんな症状に今にも吐きそうだが、じっと耐えていればいずれ過ぎ去る。
耐えて、我慢して、それから、これが終わる前にクライズが扉を叩いてこないよう祈るだけ。
やがて——五分か、十分か、四半刻か。
発作が徐々に引いてきて、ちかちかしていた視界がだんだん元に戻ってくる。
「は、ふ……う」
荒くなった呼吸を少しずつ整えながら、エメは安堵の溜息を吐いた。
——停滞病、という。
奴隷となった魔族が例外なく罹患する、宿痾である。
原因は文字通り、魔力の停滞だ。
魔力は血液や体液と同様、常に体内を巡っている。適切に滞りなく循環していれば問題となることはないが、なんらかの理由で滞ることがあれば、それは心身の不調となって顕れる。
魔力の循環は、魔族に限らず生きとし生けるものすべてにおいて共通する生理である。が、魔族とは全人類の中で最も魔力量に長けた種族。只人族の魔力を小川、妖精族の魔力を湖に例えるなら、魔族のそれは大河の瀑布に等しい。
魔族は奴隷として捕らえられるにあたり、角の一本を折られ、背中の魔力翼根を封印術式で覆われる。
それは今の王国法によって定められた必須の処置で、この処置がなければ魔族は生存自体を許されない。
だがここで問題となるのが、魔族にとって角と魔力翼根は——膨大な魔力を制御するのに必須の器官である、ということだ。
角は体内魔力の制御と外界魔力の吸収を担う。
そして魔力翼根には、体内を駆け巡る魔力を適切に放出する役割がある。
では片角が折られ、魔力翼を出せなくなった魔族はどうなるのか。
端的に言うと、魔力の流れが滞るのだ。
それも、瀑布のごとき流れが。
滞った魔力の流れによる不調は、定期的に顕在化する。
症状としては今エメが襲われたように、手足の震え、動悸、目眩、悪寒、発熱。
どれも生命に関わるものではない。まとめて来たとして、それ自体で死ぬことはない。
だが——この発作は、魔力の流れが滞り続ける限り、少しずつ顕在頻度が上がっていく。
三年前は、季節に一度ほどだった。
二年前に、ふた月に一度となった。
一年前に、ひと月に一度来るようになった。
そして今は、およそ二週間か三週間に一度。
きっと来年あたりには、週に一度来るようになるだろう。
再来年ともなれば三日に一度か。
そして更にその先——やがて必ず——潜伏期間はなくなり、毎日が発症期間となる。
つまり、発作がずっと続くようになる。
たまに来るだけであれば命に関わるものではない症状も、常態化すれば体力と気力を著しく削り、生命を蝕む。
いずれ耐えられなくなり、確実に死に至る。
ましてやエメは魔王を名乗った男の娘。その身に流れる魔族としての才は、即ち魔力量の大きさである。
病の進行速度は高かった。
一般的な魔族であれば発作間隔がひと月を切るのに十年ほどかかるそうだが、三年——わずか三年で、こうなった。
——この先、私は、いつまで保つんだろう。
三年か、二年か、或いは一年か。
わかっているのは、ぷつりと糸が切れるような、楽な死に方にはならないということ。
間隔がどんどん狭くなる発作に苦しんで苦しんで、衰弱しながら緩慢に。
起き上がることも喋ることもできなくなって、心だって狂ってしまうかもしれない。
でも、それでもいい、と思う。
元々、望みなんてなにもなかった。
村が焼かれ、母と死に別れ、せっかく出会った父も殺され。
奴隷に堕とされて、痛めつけられて、停滞病の発作間隔は他人より早く狭まってきて。
けれどそんな中、クライズと再会できた。
おまけに自分を買い取ってもらえて、綺麗な身体に戻れて、美味しいご飯を食べさせてもらって、ふかふかの寝台で眠ることができて。
闇の中を這い回った末に息絶えるはずだった自分が、最後の最後で、優しく暖かな光に包まれた。
大好きだった幼馴染と一緒に、最後の時間を楽しく過ごすことができるなら。
いずれ死ぬその時も、彼に看取ってもらえるのなら。
それは決して悪いものではないな、と思うのだ。
だからそれまで、いっぱい笑おう。
彼の隣にい続けよう。手を繋ごう。体温を感じよう。
抱き合って、頬擦りして、頭を撫で合って。
接吻だってしたい。もちろんそれ以上も。いっぱい食べて貧相な身体じゃなくなったら、昔の頃の約束を果たしてほしい。
クライズの、お嫁さんになりたい。
只人族と魔族との間に子供はできなくて、クライズの赤ちゃんを産むことは叶わないけれど、むしろ心残りになるからそっちの方がいいかもしれない。いっぱいいっぱい想いを確かめ合って、死ぬその時までずっとずっと一緒なら、それで。
発作の余韻が、幸せな空想に満たされていく。
仰向けになって浅い呼吸を整えながら、エメは目を閉じて笑った。
ほんの少しだけ泣きながら、笑った。
引きが不穏な感じになってますが、作品タグの「ハッピーエンド」を信頼していただけたらと……。
なお1章は全10話くらいを予定しています。
今のところずっとエメ(女主人公)を中心とした視点で話が進んでますが、固定することは考えてません。
まだ先ですが、2章はクライズ(男主人公)視点中心になる予定です。