三:聖女の治癒
エメとクライズが離別したのは、七年前のことだ。
住んでいた村——魔族を含めた多種族が共存していた隠れ里『テレサ』——が何者かの手によって焼き討ちされ、逃げる際に別れ別れになってしまった。
七年、それはとても長い。故にようやくの再会を果たした今、積もる話はメレディア山脈の最高峰であるトラキスほどに高く、ひっくり返した積み木細工のようにどこから手をつけていいのかわからないほどだった。
だが今は、それよりも先にやることがある。
何故ならクライズにとって、久しぶりに見る愛しい幼馴染の姿はあまりに痛ましいものだったからだ。
※※※
山羊乳と糖蜜で形がなくなるまで煮込まれた麵麭粥は、弱りきった胃に優しく沁み込んでいく。痩せ細った身体に活力が満ちていくようで、クライズが手ずからこれをこしらえてくれたのだと考えるだけで、エメは半泣きになりながら粥を口に運んだ。
その後に用意されたお風呂などは王城で暮らしていた時以来三年ぶりで、身体の芯まで温まっていく感触に、このまま死んでしまうのではないかとすら思った。
食事を摂り身綺麗になった後は上等な寝間着を着せられて、羽根布団つきの柔らかい寝台で休む。クライズはエメが眠りに落ちるまでずっと手を握っていてくれた。
奴隷に堕ちてからの三年間で忘れかけていた当たり前の人並みな生活。なにより、自分の衣食住を気にかけてくれる人が傍にいるという事実。
なにからなにまで夢を見ているようで——だから夢を見ることすらないほどに、深く眠った。
そしてぐっすりとまる一日以上も眠りこけて、目が覚めて食事をして、夜。
屋敷に来客があった。
エメの休んでいた寝室にそのまま通されたのは、ふたりの女性だ。
ひとりは妖精族。
髪は蜂蜜、肌は白絹、唇は薔薇。
すらりとした体躯にやや小柄な背丈、端正な面立ちにはあどけなさと凛々しさ、素朴と洗練が同居しているような不思議な空気がある。種族特有のぴんと尖った耳は横向きにやや垂れていて、それはまるで爽やかな涼風に麦葉がそよぐよう。
整然とした佇まい、立ち姿にも気品が感じられ、高貴な身分であることを窺わせる。
もうひとりは夜妖精族だ。
髪は雨空、肌は誰彼、唇は菖。
曲線もたわわな胸腰には芳醇な色香があり、つんと上向きに伸びた両耳とも相まって艶かしく蠱惑的だ。背は高く、怜悧そうな顔に凛とした鋭さが宿る。
その印象はまるで鋭く複雑に切り整えられた宝石が丸みを帯びた指輪に載せられているがごとく。種族特有の浅黒い肌から連想されるのは、至上の黒金剛石か。
どちらの女性も芸術品のように美しく、クライズがそういう人をふたりも連れてきたことで、エメは否応なしに自分の醜い肢体を意識し、後ろめたいような惨めなような気持ちになった。
だが、思わず目を逸らしかけた直後、ダークエルフの女性の顔に見覚えがあることに気付く。
最後に見た七年前からまったく容姿が変わっていない彼女は——、
「ルルゥ……さん?」
あの懐かしくも愛しい故郷、テレサ村。
母テレサの友人であり、エメとクライズにとっては姉のような存在だった人。
「エメ……よく、よく生きていた」
ルルゥはその鋭い眼差しをつらそうに細めると、エメを抱きしめた。
そのまましばし抱擁され、さんざん頭を撫で回された後にそっと離れていく。
言葉はない。元より口数が多い人ではない。冷たげな顔と相まって、昔はちょっと怖かったなあと思い出す。けれどルルゥの眦から溢れ出る涙は、言葉などよりよほど雄弁だった。
ルルゥとしばし見詰め合っていると、もうひとりの女性が言う。
「ルルゥさん、再会の喜びを邪魔したくはないけれど、私にはあまり時間がないわ」
「ああ……すまない、サータシャ」
サータシャと呼ばれたそのエルフは、一歩退いたルルゥと入れ替わるようにしてエメの前に立つ。
「あ、の……」
視線に厳しさがあり、思わずびくりとしてしまう。
「サータシャ、エメを怯えさせるな」
エルフを咎めるクライズの声が冷たく響く。
が、
「あんたねえ、私を無理やり呼びつけておいてその言い種はないでしょ」
サータシャは気圧されることなく眉をひそめて言い返す。
その口調は、さっきまでの貴族然とした物腰とはかけ離れていて、まるで町娘のようだった。
「私、忙しいのよほんと……抜け出すのにも苦労したんだから」
物言いは刺々しいが、悪意はまったく感じられないし、なにより気安さと自然さがある。
きっとこちらが彼女の素なのだろう、とエメはなんとなく思った。
「報酬は払う」
「立場による責任ってのはお金に換えられるもんじゃないの! ……はあ、まあいいわ。とにかくさっさと済ませるわよ。あんたたちもそっちの方がいいでしょ? クライズは部屋から出ていって」
「ダメだ、立ち合わせてもらう」
要求を切って捨てられたサータシャはさすがに鼻白む。
「……私が信用できないってこと?」
「あんたを信用していない訳じゃない。ただ、自分のいないところでエメにもしものことが……」
「っ……いい加減になさい!」
にべもないクライズに、美しいエルフはとうとう怒鳴った。
部屋に入ってきた時に纏っていた気品はもはや欠片もない。
「いい? 今からこの娘の服を脱がせるの。寝間着だけじゃなくて下着も。裸です、一糸まとわぬ全裸です! でもってあんたは男! この娘は女の子。わかる? 理解できる? だいたい私とルルゥがこの娘をどうにかする訳ないでしょ! なんかあったら私とルルゥの首あげるわよ。だから出てけー!」
エメは彼女の剣幕に呆気にとられる。が、聞き捨てならないことも言われた。
脱がせる? 全裸? 私を?
「……わかった。扱いには細心の注意を払え。砂糖細工のように、雪の結晶のように」
それでもクライズに羞恥の表情はなく、殺気じみた鋭い視線。
渋々と仕方なく、とばかりに踵を返し、部屋を辞去していく。
「はあ……始める前から疲れたわ」
「迷惑をかける。だが、クライズの気持ちも汲んでやってくれ」
ルルゥの謝罪と懇願に、エルフの肩が竦められる。
「信用されなかったのがちょっと悲しかったのよ。立場は変わったとはいえ、仮にも仲間だったんだし、さ」
「信用はしているさ。していなかったらお前を呼んでいないし、なにを言われても部屋から出ていかないだろう」
「ま、確かにね。そういう奴か。さ、ええと……エメちゃん、でいいのよね?」
エメに向き直り、サータシャは笑った。
人懐こさと慈愛の同居したような光が瞳に宿っていた。
「服を脱いでもらえるかしら。大丈夫、心配しないで。……これから、あなたの傷を治すのよ」
※※※
扱える魔力量に関して他の追随を許さないのが魔族であるが、一方、こと魔術という話になると、その繊細さと緻密さを発揮するのは妖精族である。魔族の魔術が鉄も断ち砕く大剣とするならば、エルフの魔術は精巧な細工を造りあげる彫刻刀と言えるだろう。
だが、いかにエルフとはいえ、こんな奇跡のような御業が可能なのだろうか——。
エメは寝台に腰掛けたまま、呆然と己の裸身を見詰めていた。
身に着けているのは——外すことが法によって許されていない隷属の首輪のみ。下着すらも脱がされほとんど生まれたままの姿だった。だが、目の前で行われる魔術の凄まじさに、羞恥する余裕がない。
太腿に這っていた醜い引き攣れが、見る間に消えていく。
腹に染みついていた痣が、溶けるようになくなっていく。
折れたまま中途半端に放置していたせいで曲がってしまっていた腕が、真っ直ぐに伸びていく。
きっと極限まで集中しているのだろう、サータシャの気配は薄い剃刀のようだった。
皮膚はもちろん、骨も、筋も、神経すらも。
サータシャはいたわるようにしてエメの肌を、その白い掌で撫でる。するとそこを木漏れ日のような暖かい光が包み、古傷を癒していく。
それは治癒魔術とは似て非なるものだった。
治癒魔術はあくまで肉体の破損を塞ぐものである。怪我の直後に施せば傷痕もなく元通りにはなるが、既存の古傷とか傷痕を消すことはできない。古傷も傷痕も、肉体の破損という意味ではもう治っているもの、だからだ。
それを消し去ることができるのは、もはや、そう——回帰、復元、拒絶、創造、そういった多様な概念を内包した、おそらくは事象魔術の類。
『祝福』持ちかもしれない、と思う。
数万人から数十万人にひとりの割合でごく稀に発生する、種族の限界を大きく超えた特異な能力のことである。その内容は千差万別であるが、有史以来、世を動かし歴史を変えた傑物たちのほとんどがこの『祝福』を備えていたと言われている。
新しいところでは、魔族を統率し大陸を支配した魔王、エメの父。
更にはその魔王を弑した『七英雄』たち。
そして——今となってはもはや意味のないことだが——。
「ごめんね、角と背中の封印だけはいじる訳にはいかないの」
と。
肩口にあった鞭の痕を消しながら、申し訳なさそうに、けれど毅然とした調子でサータシャが言った。
「あなたが魔族で、そしてこの大陸で生きる以上、それは決して覆せない」
わかっている。
三年前に魔王——エメの父が『七英雄』によって討ち倒されて以降、魔族は人類のいち種族としては扱われなくなってしまった。正確には、生きていてはいけない種族となった。
片角を折られ背中に封印を施され、奴隷の首輪を着けられて、それでようやく生を許される。
未だに逃げ続けている同族もいるそうだが、冒険者たちへ常駐の討伐依頼が出ており、また発見次第の報告義務もある。
全人類から敵意を向けられながら隠れて暮らすことなど不可能に近い。魔族狩りで名を挙げる冒険者も多いし、市場には今でも『新品の奴隷』が並び続けている——つまりそういうことだ。
この現状に対して思うところはたくさんある。たくさんありすぎて、整理しきれないほどに。
でも、仕方ない——そう、仕方ない。生きていられるのなら、生きたいのなら、受け入れるしかない。
この境遇も、そして、多種族から向けられる負の視線も。
その視線は今、エメの傷を治してくれているサータシャすらも例外ではない。
侮蔑や憎悪こそなかったものの、『魔族を治癒する』ことに対して含むところがあるのは見てとれた。
「どうして……サータシャ様は、私にこのような施しをしてくださるのですか」
思わず尋ねる。
「その、魔族を治して、罪には問われないのでしょうか」
サータシャはほんの一瞬だけ目を閉じた。
そして薄く笑い——それは優しさではなくどこか自嘲めいた色で——答える。
「クライズに頼まれたから、それ以上の理由はない……って、そう割り切って言ってしまえるなら楽なんでしょうけどね。もちろん、あなたたち魔族の現状を否定するつもりも、憐れむつもりもないけれど……私にも思うところはあるわ」
どういうことですか、と問い返そうとすると、
「目を閉じて顔を上げて。顔は繊細な作業になるから少し集中します」
それを遮られるように、両手で頬を覆われる。
疑問を呑み込んで、言われた通りにした。
ああ、そうだった——どのみち奴隷の分際で、執拗な詮索など許されるはずもない。
彼女は決して対等な話し相手ではないのだ。
その残酷な事実を思い出して、エメはぎゅっと拳を握った。
それでもサータシャの掌からはじわりと暖かな感覚が伝わってきて、顔の火傷痕が癒されていくのがわかった。
※※※
「……私にも思うところはあるわ」
その言葉に、魔族の少女はきょとんとして、何事かを言いかけた。
たぶん「どういうことか」などと、問い返そうとでもしたのだろう。
だが、妖精族はそれを遮り、治癒に集中すると嘯いて会話を切り上げた。
卑怯な振る舞いであると自覚している。それでも彼女とそういう話をする気は起きなかった。
何故ならそれは部屋の外で待っているかの少年の役割であるし——いや、外連だ——単にそれを言葉にする勇気が自分にないだけだ、これは。
——だってあなたのこの傷は、私たちが付けたようなものだもの。
サータシャ。
王国より賜った誉名を『慈愛溢るる聖女』——即ち、魔王を討ち倒した『七英雄』のひとり。
彼女の自責は、唇から発されることなく、喉の奥へ落ちていった。




