二:再会したふたり
四半時ほど歩いて辿り着いたのは、小さな屋敷だった。
王都の中心部からほど近いが、人通り少なく寂しげな区画である。
町並みは雑然としており、近隣には古い建物や打ち捨てられた廃墟が目立つ。
魔族の脅威に晒されていた三年前まで、国は荒れていた。侵略への抵抗に手一杯であらゆる内政が上手く回っておらず、王都ですら、なんとか歴史と威厳を守れていたのは宮殿を中心としたごく小さい区域のみ。それ以外の大半はほとんど貧民街のごとき有様であったのだ。
魔王が討ち倒されて後、復興と再開発に全力が注がれていたが、たかが三年。まだすべてとはいかない。
そんな——再開発を後回しにされている区画のひとつに、屋敷はあった。
玄関広間は地味で狭く、部屋数も少ない。下級貴族の三男坊あたりが妾を囲うために建てた、程度の規模である。ただ建材はまだ新しくそれでいて堅牢そうで、手間と金はそれなりにかけられていることが窺える。まだ復興の手が届いていない場所に建っているにしては、やや不自然でもあった。
玄関から中に入れられ、扉が閉められた音を背に、魔王の娘であるところの奴隷——エメリルアは、反射的にびくりと肩を震わせる。
改めて、自分がこれからどうなるのか。どうするべきか。
その去就を決める時がきた、と息を吸った。
この屋敷に辿り着く前に、エメリルアはずっと考えていた。
新しい主人の出方如何で、選択しなければならなかった。つまり、生きるか、死ぬかを。
生きる——奴隷として新しい主人に仕える。
ごくごく普通の奴隷、ただの労働力としてエメリルアを使おうとするのならば従おうと思う。以前いた屋敷となんら変わらない。言われるまま、できれば折檻を受けないように働く。どんな苦役だろうと心を殺せば耐えられる。喜びや楽しみなど一切ないただつらいだけの日々であるが、それでも生きることはできる。
対して、死ぬ——自ら命を絶つ。
この選択に至る可能性は、ふたつある。
ひとつは、この主人がエメリルアの素性を知っていて、そのために自分を買い上げたという場合。同族をおびき寄せる手段として利用されるか、或いは父への憎しみからおそろしい拷問を受けるか、はたまた実は魔族の手先で、叛旗の神輿として担ぎ上げられるか。
とにかくなにをされるか、どんな悲惨な結果を生むか予想がつかない。
故に、これはもういっそ自害した方がいいと思う。
そしてもうひとつ。
性的に陵辱する目的で買われていた場合である。
『不良品』である自分をわざわざ単体購入したのだから——だからこそ、可能性は充分にあった。
こんなやせ細って身体も傷だらけな女、大勢のひとつとしてならともかく、単体の働き手としては半人前以下である。ならば新しいこの主人はそういう趣味で、自分がこういう身体だからこそ興奮する質で——ああ、考えただけでおぞましい!
エメリルアは、たとえどんなに折檻されようとも、貞操だけは絶対に奪われたくなかった。
彼女が買われたのは、奴隷になって二度めである。
一度めは王都の外れに住まう貴族だった。外縁に広い領地を持つ伯爵だかで、ろくに休みももらえぬ重労働を強いられ、容赦なく折檻された。刃物で斬られたこともある、鞭で叩かれたこともある、棍棒で打擲されたこともある。痛みは消えない傷跡となり、彼女の身体に刻まれた。そうしてこき使われた挙句、「若い女ではろくな労働力にならない」という理由であっさりと売り払われた。
だがそんな境遇の中でも、貞操だけは守った。
顔を——自ら、焼くことによって。
エメリルアの身体に刻まれた傷はそのほとんどが前の主人の手によるものだが、唯一、顔から首にかけての火傷痕だけは違った。買われた当初、主人が自分に下衆な目を向けていたことに気付き、風呂焚きの事故に見せかけて燃える炭を自分で押し付けたのだ。
醜くなり果てたその顔に、主人はすぐ興味をなくした。元々が女に困っていた訳でもエメリルアだけに執着していた訳でもない。魔術によって火傷を治すことはできるがそれなりの費用がかかる。奴隷にそんなものを施すにはもったいない、とろくな手当てもないまま放置され、結果として痕は無惨に残り、けれど肉欲の対象とはならずに済んだ。
——想い人がいるのだ。
もう七年もの間、会っていない。生きているかどうかもわからない。むしろ死んでしまった可能性の方が高い。別れは十歳の頃。一般的に捉えるならば幼い日の仄かな恋心であり、過ぎて終わった残滓に過ぎないだろう。
そんなものをいつまでも胸に抱いているなど、我ながら馬鹿げた話だとも思う。
けれど、けれど、けれど。
それは、母も父も地位も力もすべてを失った彼女に、最後に残った誇りなのだ。
この想いを。彼のことが大好きで、手を引いて走り回って、時々泣くのを慰められて、ともに花畑の中に寝転んで。
あの日々を——あの愛しい気持ちだけは、絶対に誰にも穢させない。
だから、もし犯されそうになったら自殺する。
この初恋だけは、綺麗なままで、命を賭けて守る。
だが、そのエメリルアの凄絶な覚悟は——予想もしなかった形で裏切られることとなった。
そいつは、屋敷の扉を閉めた後、振り返りながら外套の冠帽をばさりと脱ぐ。
まるで執念にも似た気持ちを込めて新しい主人の顔を睨みつけるエメリルア。
睨みつけて——思考が、止まる。
「エメ」
名乗ってもいないのに呼ばれた、しかも愛称で。
そして、その顔。
「やっと見つけた。エメ。……僕がわかる?」
少年だった。
歳の頃は十七、八。エメリルアと同じくらいだろう。
銀に限りなく近い白い髪。
鈍色の瞳。
記憶にあるそれよりも、遥かに成長している——あの頃とは違って精悍で、内気さや気弱さなんて影も形もなくて、それでいて陰鬱そうな、どこか思い詰めたような雰囲気を纏っていて。
けれど、面影がある。
ひと目でわかった。
見間違うはずがない。
この男の子を見間違う訳がない。
彼が——そう、彼が。
檻の中で十把ひと絡げに放り込まれていた、痩せこけて傷だらけになって表情なんて欠落させて絶望にまみれて見る影もないほどに変わり果てた自分を——エメリルアを——エメを——迷いなく見付けたように。
「クライ……ズ?」
愛しい幼馴染の顔を——どうして見間違うものか。
「うそ。クライズ、どうして」
再会はあまりのことで、情動が追いつかなかった。
声が震える。唇がわななく。手先がこわばる。それでも頭が働かない。心が硬直している。
紛れもなく待ち望んでいた顔なのに。離れ離れになって七年間、ずっと会いたいと思い続けていた人なのに。奴隷になってからの絶望があまりに深かったせいで。私が死ぬ前には幻覚として出てきてくれないかな、なんてことすら考えていたから。
まさか現実だとは、とても思えないから。
代わりに泣いてくれたのは、抱き締めてくれたのは、クライズだった。
「エメ、エメ……エメ。やっと……七年もかかった。やっと見付けた」
回された腕は力強く、頭を撫でる手は優しく、触れ合う頬は熱かった。
その感触が、体温が、現実だと思い知ってようやく。
「ふあ……あ、あ、うえええええええ! クライズ、クライズぅ……!!」
とうに枯れ果てていたと思っていた涙が、あっけなく溢れる。
エメは赤ん坊のように、クライズに縋り付いて慟哭した。




