四:彼女は叫んだけれど
偽竜。
それは元来、大陸には存在しなかった生物である。
遡ること十五年ほど前、当時既に大陸を支配していた魔王がある試みに手を染めた。
複数の生物を魔力によって変異させた上で掛け合わせ——大陸で最も偉大で最も高貴な知的生命体の、外見的特徴と生物的能力だけを模した魔物を作り出したのだ。
即ち、竜族の。
己の姿にそっくりな、しかし知性の欠片もない人造生命たちを目にした彼らの心境はいかばかりだったろうか。王国の記録には残っていない。ただ事実としてその数年後、太古より人類種のよき友であり先達であったはずの竜たちは、一頭残らず大陸を去ったと伝えられている。
今ではもう、人の歴史に竜族が登場することはない。ただその姿のみが『偽竜』という魔物として、脅威と立つばかりである——魔族による支配が終わってもなお、まるで人そのものが犯した罪の証のように。
※※※
「うそだ……」
「どうしてこんなところに!」
「いやああああっ!」
中空にはばたきながら牙を剥く有翼偽竜に、馬車の一行たちは恐慌状態となり自制を失っていた。大仰に喚くばかりで地面に伏すこともせず、兵士たちすらうろたえて槍を掲げるのも忘れている。
故に、真っ先に動いたのは部外者であるはずのふたり——クライズとルルゥであった。
「右目」
短い宣言とともにルルゥが弓を引き矢を番える。
その喉が小さく、しゅっ、と鳴り、そうして矢が放たれた。
矢は、ワイバーンの滞空していた地点よりもやや下方へ向かい飛んでいく。傍目から見れば狙いを外したと映っただろう。だが異様なことに——矢が迫るに合わせ、ワイバーンは体躯を沈め、己の頭部を矢の軌道上へひょいと差し出す。
まるで吸い込まれるように、或いは誘われるように。
「——ギィ、ア!!」
ルルゥの宣言通り、ワイバーンの右目に矢が突き立った。
『七英雄』がひとり——『鷹眼にて番える射手』ルルゥ=メイサイヤ。
彼女の持つ『祝福』は、まさしく誉名の通り『鷹の眼』という。
超高精度の空間把握能力と高い視力、百米先に潜む兎の吐息すらも察知する外界魔力の感知能力。そして巨躯の筋肉達磨ですら三寸と引けぬほどの強弓を軽々と射てるほどの筋力。それらを複合的に併せ持った、大陸に並ぶ者なき弓の才である。
彼女が祝福によって獲物を見据えれば、それはもはや予知にも似る。ワイバーンの動きを先読みし、呼吸を合わせ、右目が来る場所へ鏃を置きにいった——故に、矢はまず見当違いの方向へ飛んだように見える。次いで相手はそこへ自分から当たりに行ったように見える。結果、矢は吸い込まれるがごとく、狙った場所へと必中する。
それは弓術の極点、神技の領域。
右目の視界を失ったワイバーンは慌て、翼をばたつかせる。
「——左翼膜」
必中の鏃を見届けるよりも早く、ルルゥが番いそして放つは二の矢。
めちゃくちゃに暴れながら乱上下する体躯を掻い潜り過たず左の翼膜を貫いた鏃は、まるで蛇行を描いたかのようにすら見えた。穴を開けられた偽竜の翼は飛行能力を著しく損い、平衡を失って大きくがくんと地に堕ちかかる。
その瞬間に合わせて、クライズが跳躍した。
ルルゥが矢を番えると同時、既に彼は返事すらなく現地——偽竜の直下へと疾駆していたのだ。言葉もほとんどなく視線すら合わせなかったふたりだが、敵を屠るために必要な手順のすべては刹那の間で既に共有されていた。それは魔王討伐に至る三年間の旅の重みもあるが、なにより同じ村でともに育ったが故の呼吸が大きい。他の『七英雄』たちとならば、さすがにもうひと言ふた言の確認があるだろう。
クライズは空中で手を伸ばし、暴れまわる偽竜の尻尾を器用に掴むとそれを支えに身体を翻らせる。空中で反転するとその背に足を着け、更に蹴り、首筋にまで駆け上がる。祝福——『魔力同調』によるものか、ワイバーンは小さな者が己が背に飛び乗っていることにまったく気付かない。必然、その小さな者が右手に携えた鋭い刃にも、である。
まるで幼子を抱えるかのようにそっと、偽竜の首へその右腕が回された。
かの魔獣の鱗は鋼の刃すら通さぬと謂われるほどに硬く、おまけに隙間もなく皮膚を覆っている。冒険者組合における偽竜討伐指南書には、まずは四等位以上の高等魔術を用いて表面を焼き、強度を下げたところで重量のある斧などを用いよとされている。
だが、クライズの持つ煌めく短刀はものが違う。霊銀と古代金という希少金属を合わせ、『七英雄』グィネスが手ずから錬えて鍛えた——本物の竜族の鱗すらも斬り裂くこと叶うであろう鋭利である。
さくり、と。
枯葉でも嬲るような音とともに。
偽竜の首が深く刺し貫かれ、同時に致命の捻りにより抉られる。
断末魔の悲鳴はほとんどあがらなかった。
ただ、偽竜はその首元からぶしゃあと血飛沫をあげ、大きく一度だけ痙攣し、それから五米の上空で動きを止めてそのまま無様に落下する。クライズは偽竜が命を失った一瞬の後、背を蹴って後方へ飛び、重力などないかのように着地する。
一連の行為——偽竜狩りは、ルルゥが一本めの矢を放ってからほんの十数秒で幕を降ろす。
隊商の連中は、兵士も御者も乗員たちも、誰もが恐慌状態の途中で唖然として、魔物が落下する様を見詰めていた。誰もが動けず、目を離せず、思考もできずにいた。
だからその間隙においてエメの叫びは、街道に大きく響くことになった。
「早く、こっちを! ……手伝ってくださいっ!!」
※※※
クライズとルルゥが偽竜へ戦意を向けた時、エメのとった行動は、不安とともに案じることでもなければ、固唾を飲んで見守ることでもなかった。
もちろん、案じていたし見守りたくもあった。が、それ以上にエメはふたりのことを信じていた。偽竜なんて見るのも初めてで、どれくらい恐ろしい魔物なのかもよくわからなかったが——それでも、ふたりが後れを取る可能性などあるはずがない。
きっと危なげなく倒してしまうだろう。毛筋ほどの傷も負うことはあるまい。それこそエメが呼吸をひとつふたつするよりも早くすべてを終わらせるかもしれない。
だったら、自分がすべきなのは。
彼女たちと同じ村に生まれ育った、エメリルアのやるべきことは——ふたりの後ろでおっかなびっくり趨勢を案じることでも見守ることでもない。
エメは息をひとつ吸うと地面を蹴り、馬車に向かって走り出していた。
だって、さっき自分は見ていたのだ。
偽竜が空から降下して急襲した馬車の一台——幌が引き裂かれるのに伴ってぶちまけられた積荷の中に、人影が紛れていたのを。
衝撃のせいか車体は横倒しにされていて、崩れて散らばる積荷はまるで小山のようだ。そして破壊の瞬間は確かにあった人の姿がどこにも確認できない。
つまりは荷物に埋もれてしまっているか、車体の下敷きにされているか。
「……っ!!」
エメは一心不乱に馬車を目指した。近付くにつれ、予想以上にひどい有様であることがわかる。遠くからではただ幌が破られただけに見えたがとんでもない。車体は完全に破壊され、積荷も原型を留めていない。
それらは残骸となっていた。割れた壺。ひしゃげた木箱。潰れた果物——。折れて地面へ突き立った刀剣類。
そして残骸たちの中から伸びる、白く細い、手。
エメはその手の前に座り込むと、夢中で積荷たちを片っ端から掴み、横にどかす。手を掴む。温かい。生きているはずだ。どうか生きていて。
突き立っていた剣を引っこ抜いて放り投げる。
潰れた果物の汁が赤くて紛らわしい。
木箱の折れたささくれで痛みが走るが無視して持ち上げる。
割れた壺の欠片、私を傷付けるのは構わないから、どうかこの人を貫いていませんように。
背後で、なにか重く大きなものが落下する音と衝撃がした。きっとルルゥとクライズが偽竜を倒したのだろう。だから、だったら——たくさんいた兵士さんや他の馬車の乗員たちは、なにをしているの?
「早く、こっちを! ……手伝ってくださいっ!!」
エメは叫んだ。叫びながらも撤去の手は止めない。腕が見えた。頭が見えた。金色の髪。細い胴体、仕立てのいい服、自分と同じ歳頃の少女。
彼女を下敷きにしている残骸の山、その中を覗き見て、大丈夫、いける——両脇を抱きかかえて。
ずるり、引っ張り出す。
「大丈夫ですかっ!」
全身を確認した。僥倖、手足は無事、大きな怪我も見当たらない!
抱いて仰向けにさせながら頬を叩く。少女はゆっくりと目を開けた。
「あ、わた、し……」
「無事ですか? どこか痛いところはありませんかっ」
「なにが、あったの? 急に、がーん、って……」
「それは後です。まずは怪我の確認を……」
頭を強く打っていたらいけない。せめて意識がはっきりするまでは——。
そんなことを思いながら、少女の手を握ろうとしたその時だった。
どん、と。
突き飛ばされる感触がして、視界がぶれた。
こてんと尻餅をつくと同時、両の腕に抱いていた少女から強引に引き剥がされる。
一瞬なにが起きたのかわからず、エメはぽかんとしながら顔をあげる。
そこにいたのは兵士だった。
少女とエメの間に割って入るように、こちらへ敵意と殺意とそれから槍の穂先を向けて、彼は吐き捨てた。
「お嬢さまになにをするか、この薄汚い魔族が!!」




