二:山野にて
引き絞られた弓から放たれた矢は、まるで吸い寄せられるかのように斑雉の首を射抜いた。声を殺しておくようにと厳命されていたエメの唇から、無意識に「おおー」という感嘆が洩れる。
矢を放った夜妖精族の女はそんな彼女へ、苦笑をひとつ零した。
「獲物を取って来い、エメ」
「うん!」
ルルゥに言いつけられたエメは藪の中から立ち上がると、数十米先でもはやぴくりとも動かない斑雉へと駆け寄っていった。
王都を出てから三日め——人里から離れた山中である。
「仕事で外出するからついてきてくれ」とクライズに言われ、この前のお出かけ程度のものかと思っていたら始まったのは本格的な旅支度。おまけにクライズだけではなくルルゥまで同行すると聞かされ、あれよあれよと王都を出ることになった。
最初はあっけに取られていたエメだが、いざ出立してしまえば心が浮き立つ。なにせクライズとルルゥとそれに自分——テレサ村出身の、気の置けない昔馴染みだけの旅だ。
「取ってきたよ、ルルゥさん!」
「ああ」
ルルゥの仕留めた斑雉を手に駆け戻ると、彼女は、ぽん、と頭を撫でてくれた。
否応なしに子供の頃を思い出す。まだ十にも満たない頃から、エメは時折こうしてルルゥの狩を手伝っていた。
もっとも今になって考えると、手伝う、と言うにはいささか憚られるほどに幼稚だったと思う。なにせ活発だったエメが森に行きたいばかりにルルゥへ我侭を言い、見かねた彼女が仕方なしに連れて行ってくれただけなのだから。
当時からやることは変わらない。ルルゥの射った獲物をよちよち歩きの猟犬みたいに行って取ってくる——それも鳥とか兎とか、危険のないものばかりを。
エメの頭を撫でるルルゥの仕草と眼差しもまた、七年前と同じだった。彼女にとって自分はまだあの頃のままなのだろうか、などと少しだけ思った。ダークエルフの寿命は魔族の倍くらいに長いから、七年なんてほんのわずかな期間なのだろうし。
そういえばルルゥって今、何歳なのだろう。村にいた時から容姿はまったく変わらないから、少なくとも成熟期は終えて三十歳は超えているはずだけど、今まで教えてもらったことはない。
「……エメ」
「ん、なに?」
「どうして私の顔を失礼な目で見ているのかな?」
「ふぇ!? い、いやそんなことはっ」
気付けばルルゥが鋭い双眸を更に細めていた。
そうだった、と思い出す。
この人は——自分の歳を教えてくれないどころか、その手の思案をしただけで敏感に察知して睨んでくるんだった!
「あ、えっと! この雉、どうするの?」
「羽を毟って腸だけ抜く。この場でやってしまおう」
そう言って弓を背に納め、山刀を抜くルルゥ。どうやらごまかせたようでほっとする。
「血抜きは?」
「不要だ。丸煮にしよう」
「やった! 私、あれ好き!」
新鮮な野鳥——特にこの斑雉は血の風味がよく、一羽そのままを香草などと一緒に煮込むと骨や肉と相まって玄妙な味わいのある汁物ができる。テレサ村では『丸煮込み』という名称でよく食卓にあがっていた。
幼い頃に幾度も楽しんだ料理の記憶が口の中に甦り、エメの顔がほころぶ。
「ではクライズのところへ帰るか」
「うん」
手早く処理を終え、元来た道を引き返す。野営地には既に天幕が張られ、焚火の準備もしてあった。
「おかえり」
ふたりの姿を認めると、クライズは笑う。その瞳は穏やかだった——きっとエメだけではなくルルゥもいることで、気持ちが少しだけ昔に戻っているのだろう。
「天幕、またひとりで作ってくれたの? ありがとう」
「そんなたいしたものでもないよ、慣れてるし」
こともなげに頷くクライズだったが、こういう旅をした経験のほとんどないエメには凄いことのように思える。
「では、明日は設営の方を手伝ってみるか?」
ルルゥが微笑してエメの背をぽんと叩く。
「いいの? 足手まといにならないかな……」
「やってみなければ始まらない。獲物を捌くのだってそうだったろう」
テレサ村にいた頃、狩りに出た大人たちが持ち帰ってきた猪や鳥などを捌くのは、村総出での仕事だった。必然、エメやクライズのような子供も手伝わされることになる。生き物の毛を剃り皮を剥ぐこと、血腥い臓物を掻き出すこと、筋を断ち関節を切り離すこと——どれも最初は難しくて、それ以上に気持ち悪くておぞましくて、泣きそうになった。
でもそれは生きるために必要なことで。毎日のご飯をちゃんと美味しく食べるためには避けて通れないことで。
だから必死になって覚えた。その経験は今でも忘れていないし、ちゃんと手伝える。さっきも鳥の毛を毟ったのはエメだった。
野営地の構築も同じことだろう。考えてみれば薪拾いは村でもしていたし、焚火とは勝手が違うかもしれないけどかまど番なら経験がある。天幕の杭打ちは——力仕事はまあいっか——ともかく、意外にいけるのではないか。
「うん、そうだね。だったら私、明日はクライズを手伝うよ!」
「エメ、張り切ってくれてるところ悪いけど、明日は僕が狩りをする番なんだ」
「え……じゃあまたルルゥさんと一緒?」
「なんだ、私とでは不満か?」
「あ、いや、そういう意味じゃなくてっ」
じっとりした目で睨んでくるルルゥにあたふたしていると、彼女は小さく、稚気めいた笑みを浮かべた。
「クライズが愛しいのはわかるが、いつも一緒に暮らしているだろう? こういう時くらいは共にいさせてくれ。……私とて、七年は長かったのだ」
「……うん、ありがとう」
そうして頭を撫でてくる。
エメの目頭が熱くなった。当時と外見が変わらないしそもそもあまり表情の動かない人だから、さっきはつい『ほんのわずかな期間なのだろう』などと考えてしまっていたが——そんなことがあるはずないのだ。
たとえ寿命が倍ほどに長くても、それはルルゥだけの話であってエメは違う。一緒に居られる時間が倍になるわけではない。むしろ逆に——自分の半分しか生きられない相手との時間は、なによりも貴重なのではないか。
焚火の時も、それから食事も、エメはルルゥの隣にひっついていた。
クライズは対面に座ってそんなふたりを穏やかな表情で見てくれていた。
「美味しいね」
斑雉の丸煮込みは昔食べていたのと同じ味がする。血も肉も骨もすべて、命ひとつをまるごと閉じ込めた汁は滋養があって、身体が芯から温かくなる。けれどぽかぽかするのは身体だけではないとエメは思う。
久しく忘れていた。生き物の命をもらってお腹を満たすこと、森から薪を集めて火にあたること。暮れる夕日と輝く星空を見上げながら大切な人たちと寄り添うこと。自然とともに大地ともに生きること。全部、あの村で当たり前のように行なっていたことだ。それは決して懐かしむべきものではない。忘れてはならないものなのだ。取り戻さなければならなかったものなのだ。失ってはいけなかったものなのだ。
あの頃のエメたちはなにも知らず、世の中に対して無力で、だからあんな悲劇が生まれた。
けれどそれでも——自分たちがこういうふうに生きていたことは、正しい営みだったんだと思う。自然の中で、地に足をつけて暮らしていたことは。
そしてそれを教えてくれた、あの村のみんなも。
※※※
天幕の中に三人で枕を並べた。
エメが真ん中、左にクライズ、右にルルゥ。
旅の野宿だから夜哨は必要で、必ず誰かが起きていなければならない。今晩はクライズとルルゥが交代で見張りをしていた。だから三人一緒に眠ることはなかった。
それでもエメはまどろみの中で、左右にぬくもりを感じていた。
旅はまだ始まったばかりで、片道で十日ばかりかかるという。それが嬉しくて、楽しみで、夢の中でも浮き立って。
エメは「むに……」と寝言を転がしながら、隣の体温に抱きついた。
どっちだったのかはよくわからなかったけれど、家族にしがみついて見る夢は幸福だった。




