十一:罰を教えてあげましょう
昏く淀んだ湿っぽい空気の中で、ドルトデルタ伯爵は目覚めた。
鉄板の上に直接寝かされているようで、頬に当たる感触が冷たい。身を起こすと節々がひどく痛んだ。だが一方でその痛みは、生きている証でもある。ガンガンと頭痛のする中、意識を失う前のことを思い出す。何故自分は殺されていないのかと、そんな疑問を抱いた。
顔をあげて周囲を見渡す。闇の中、鉄格子の向こうに燭台が燃えているのが見える——鉄格子の向こう、だと?
自分が檻の中に入れられていることに、そこで気付いた。
牢ではなく、檻だ。四角い匣型の、運搬可能なもの。
まるで猛獣を入れておくような。まるで——奴隷、を、入れておくような。
「目が覚めまして?」
後方から声がして振り返った。
思わず身がすくむ。そこに立っていたのは、異様な格好をした女だった。
歳の頃は三十路にかかるかどうかほど。面立ちそのものはひどく整っており、背筋が凍るほどに美しい。だがその左半分が、面紗を厚くしたような黒布で覆われている。
顔だけではない。左腕、左足、左胴、左腰、つまりは左半身すべてが長外套とも敷布ともつかない布で隠されていた。
この奇怪な姿に、ドルトデルタは覚えがあった。
何度か遠目にしたことがある。あれは確か奴隷商館で行われた競売に参加した時だ。こいつは壇上に立ち、競売を取り仕切っていた。組合の職員たちを付き従えていた。
ああ、そうだ。この女は。
奴隷商組合の組合長——フランチェスカ=シアン。
元は先代ギルドマスターの奴隷という立場にありながら、その不可解な死に伴いすべてを継承した女。就任してわずか数年で業界にはびこる汚職と収賄の一切を駆逐し、不当な人身売買のない真っ白な市場へ変えた女傑。噂によれば、厚布で隠された左半身は足の先から顔までが醜く灼け爛れているという。先代を殺したその日に自ら酸をかぶったという。入り混じる逸話と巷談、功績と蜚語、それらのすべてがおぞましく恐ろしい、稀代の毒婦にして奴隷の女王。
「おはようございます。ご機嫌よう、閣下」
フランチェスカはにやりと唇を歪めた。
表情は不自然に引きつっていた。面紗の奥が不具であることがわかる笑みだった。
——どういうことだ。
ドルトデルタはそう問おうとする。
疑問は山のようにある。あれからなにが起きていかなる経緯があって自分はここにいるのか。あのクライズ=テレサはどこへ消えたのか。そもそもどうして生かされているのか。そして、何故こんな檻に入れられているのか。心臓が早鐘を打つ。伯爵である自分にこんな扱いをしていいと思っているのか——そんな不遜な思いもないではなかったが、それ以上に不安と焦燥があった。
——どういうことだ。
ドルトデルタは問おうとする。
そこで、気付いた。
「お……、……ぐぇ……、……あ?!」
言葉が、喋れないことに。
どんなに喉を震わせても、息を吐いても、意味のある単語の連なりが発声できない。檻の中に響くのは動物のような唸り声のみ。舌を必死で動かしてみる。自分の名を口にしようと試みる。あいうえおと子供のように文字列を暗唱してみる。すべてが駄目だった。なにをどうしても、ああとかぐうとかしか出てこない。
狼狽するドルトデルタに、フランチェスカが溜息をひとつ落とした。
「私に説明責任まではないのですけれど……まあこのままというのもなんですし、事実だけは教えて差し上げますわ。まず、あなたのその喉について。とてもとても丁寧に、お舌も含めて焼かれております。あなたはこの先二度と、言葉を喋ることはできません」
目の前の女が浮かべる引き攣った笑みに、侮蔑の色が混じる。その侮蔑が自分へと向けられている事実に、怒りよりも戦慄が先だった。
「次に、フーリエナ伯爵家について。なにも心配はいりませんわ。ドルトデルタ=ズン=フーリエナという人物はこれまでもこれからも、ズン本家の当主として在り続けるそうです。ただ、それがあなたではなくなったというだけ」
いや——戦慄などではない。
それは、絶望だった。
「怖いですわね、貴族の世界って。奥方も家令も使用人も、当主が名前だけ同じまったくの別人になったというのに、今まで通りなにも変わらずドルトデルタさまとして接しなければいけないなんて。まあ『この方はドルトデルタではありません』なんて口にしたら首が飛んでしまうんですもの、仕方ないことですわね」
フランチェスカの口にする内容は、貴族社会においてままあることだ。
家名を汚し面子を潰すようなどうしようもない輩が、ある日突然、品行方正で無害な人物になる。改心したとか洗脳魔術を施されたとかではない。地位と名前はそのままに、中身が入れ替えられるのだ。
おそらく今頃、フーリエナ本家の屋敷では、どこかから連れてきた奴隷かなにかが『ドルトデルタ=ズン=フーリエナ』として扱われているのだろう。たとえ別人であっても——極端な話、たとえ木でできた人形であろうとも——周囲が『それ』をドルトデルタと呼ぶのなら、『それ』はドルトデルタ本人となる。無論、当主としては傀儡であり、求められるのはただそこに存在することだけだとしても。
本来こうした処置は、放蕩な三男坊とか不貞の過ぎた妻とか、そういう立場の者に対して行われるものだ。これが伯爵家の当主にとなれば——自分などよりも遥かに上の地位、つまりは、
「ええ、政府からの指示ですわ」
「……っ!!」
ドルトデルタの目の前が、真っ暗になった。
「閣下の所業、元から目をつけられていたそうです。ですから今回のことは渡りに船でした。あの坊やの思惑と国の思惑が一致した、ということ。かくして密かに悪事を行なっていた当主さまはご改心し、領民たちが謎の行方不明になることもなくなり、フーリエナ伯爵家領地は祖たる聖人クレイナードと血族たる聖騎士ジュリエの御名に相応しい善政によりますます栄えるのでしたあ! めでたしめでたし!」
「あ……あ、あ」
意味をなさない嗚咽の声が喉から洩れた。声は出る。が、やはり口が回らない、言葉を紡げない。
「さて、元伯爵さま。閣下がこうなり果ててしまった原因、理解してくださいましたか? つまりは閣下の自業自得なのです。無辜の民を虐げ、好きに犯し、殺し……その報いを受ける時がきたというだけですの。ただ、ひとつだけ救いを。実はあなたのようなお方、それほど珍しくはないんですのよ」
フランチェスカの唇が、今までより一層、歪な三日月を描いた。
実に楽しげに、それでいて、忌々しげに。
「魔族による大陸支配……あの問答無用の暴力による暴虐の時代、彼らの気まぐれで虐げられ犯され殺されることに、私たちがみな怯えていた時代。あの頃の怯懦がそうさせるのでしょうか? 平和になった今、まるで反動のように、領民たちへかつての魔族のような振る舞いをする貴族が時折でてくるそうですの。誑かして虐げ、攫って犯し、拐かして殺し、それに愉悦を覚える。……つまりですね、閣下。あなたのそのご趣味は、なんら珍しくはない、ただのご病気なのです」
そう告げた直後。
彼女の態度と口調が豹変した。
「貴様のような輩がいるから、私もあの坊やも、未だくだらないことに手を染めなければならない。血と謀に身を浸さなければならない。ああ、ああ! まったくもって反吐が出ますこと!」
がぁん! と。
鉄格子が蹴飛ばされる。長外套から覗いた蹴り脚は噂の通り、酸で灼かれ引き攣れて爛れた赤い肌。
「閣下……いいえ、クズ野郎。お前はどこにでもいる有り触れた心の病気で、国が手を下さなくてもいずれ誰かの手によってこうなっていたでしょう。ですが思い知っておきなさい。私はともかく、あの坊やとあの娘のこと……お前は、噛み付く相手を間違えた。手を出してはいけない相手に手を出した。その一点においてのみ、お前は決定的に間違えた」
ここまで言われればもう、ドルトデルタにも理解できていた。
あの少年——自分が平民と侮り、身請法を盾にして害そうとした、クライズ=テレサのこと。
何故、平民にしては豪華すぎる屋敷に住んでいたのか。
何故、王都に名高い『宵の兇状』たちを返り討ちにできたのか。
何故、その背中に魔族の魔力翼を展開していたのか。
何故、ドルトデルタをこうして奴隷商組合のところに送りつけられたのか。
何故、組合長である稀代の悪女フランチェスカに、坊やなどと親しげに呼ばれているのか。
あいつは殺し屋だ。
しかも国家子飼いの、とっておきだ——。
「もうわかっているとは思いますけれど。お前はこれから、最下級奴隷として売られます。扱いは魔族のそれと同じ。優しい主人に買われるといいですわね……まあ、あなたが奴隷たちにしてきたのと同じくらいの扱いで済むなら僥倖というもの。あ、当然ながらあなたがもはやなにを主張しようともすべて無駄なことです。言葉は喋れないし、筆をしたためたとしても焼かれて終わり」
たとえ、自分は元伯爵で、陥れられて奴隷にされたのだと訴えても。
たとえ、政府は魔族を奴隷にせぬまま子飼いの暗殺者として使っているのだと弾劾しても。
そんなもの、誰も信じない。信じた者が仮にいたとすれば、信じるほど頭の回る輩なら、絶対に関わってはならぬ案件だと理解するだけだ。
「さて、ひと通りの説明を終えたところで御機嫌よう、閣下。お前は貴族にしては色が黒くて元気そうだから、鉱山主辺りが労働力として買ってくれたらいいですわね。せめて絶息するその日まで……お前が手にかけてきた者たちの顔を、ひとりでも多く思い出せ」
フランチェスカは唾を吐くように言い捨てると、未練の一切を見せずに踵を返す。
遠ざかっていく足音を聞きながら、ドルトデルタは蹲った。
「あ……あ、あ。が、うううううう!」
その心は絶望に染め上げられ、洩らす嗚咽は獣の断末魔のようだった。
だが彼の絶望は未だ河岸でしかなく、本当の断末魔は遠い先のことなのだ。




