十:罪を知れ
部屋の鉄扉が誰何されたのは、予定の刻限よりも早かった。
ドルトデルタは口許から溢れる笑みを抑えることなく、「入れ」と鷹揚に応える。
王都の南にある、フーリエナ伯爵本家の別邸である。
元は別の子爵家の持ち物だったのを、戦時の混乱を利用して安く買い上げたものだ。
ドルトデルタが待機していたのはその建物の地下室。無機質な石造りで、家具らしい家具は寝台しかない。あとは棚に並べられた拷問器具、交差型の架柱、おまけに三角木馬——要するに、そういう用途の部屋だった。
鉄の軋む耳障りな音とともに、扉が開けられる。
その向こう。燭台に照らされて浮かび上がった立ち姿は、ぞっとするほどに美しい魔族の女。
「おお、エーミル!」
闇に映える白い肌と赤い瞳に思わず息を呑む。胸元まできっちり覆われた婦人服を身に纏っていた。肌の露出がない分、細く絞った腰と大きく膨らんだ裳裾とが織りなす曲線がたまらなくそそる。今すぐ布地を引き裂いて、その下に隠された肌を思う存分いたぶりたい。
「さあ、入ってこい。お前を見逃していた三年分、とっくりと可愛がってやる」
その命令に目を伏せつつ、エーミルは部屋の中へと歩を進めた。ドルトデルタは大きく両手を広げる。片手には鞭が握られていた。先端の枝分かれした九尾鞭である。打ち据えた傷の浅さに比して著しい苦痛をもたらす。さぞいい声で鳴いてくれるだろう。
「でかしたぞ『宵の兇状』。よし、例の平民も中に寄越せ。そこの磔台に縛りつけろ」
見事に依頼を成し遂げてくれた暗殺者たちへ労いの言葉をかける。
恭しくも部屋の外で控えているのだろう、姿を見せてこないが——きっと彼らの足許には、あの忌々しいクライズ=テレサが縛られて転がっているに違いない。
さあお楽しみの時間だ。貴族の正当な権利を行使する時だ。クライズを拷問にかけながら、エーミルを思う存分貫いてやる。絶望の悲鳴に苦悶の嬌声をかぶせながら、血と臓物の匂いを肴に蜜を絡めて動かしてやる。恋人の前で女を犯すのは久しぶりだが、この高揚は雉撃ちなどでは代えられない、何度やってもたまらない——。
「こっちへ来いエーミル。寝台の前で跪け。俺に裸にされるか自分で脱ぐか選ばせてやろう。自分で脱ぐなら主人への鞭をひとつ減らしてやるが、どうだ?」
だが、エーミルはその命令を聞かなかった。
部屋に入って数歩のところで立ち止まり、衣服に手を掛ける気配もなく、なのに部屋の外で縛られているはずの主人を慮る様子もない。
「……ドルトデルタ伯爵さま」
「なんだ、聞こえていなかったのかエーミル。お前は……」
「私の名前は、エーミルではありません」
その言葉——その声音に。
ドルトデルタの身体が一度、ぶるりと震えた。
その理由を、気温だと思った。少し冷えるな、と。彼は想像だにできなかったのだ——己が意識せず、目の前の少女に対して畏怖していることに。
「は? エーミルではない、だと? それはどういう……」
そして続いた言葉もまた、ドルトデルタには理解が及ばない。
「偽名です。あなたの元にいた三年間、私はずっと偽名を使ってきました。誰があなたのような下賎な者に本当の名を明かすものですか」
「……なんだと?」
「あなたのようなおぞましい生き物の汚らしい口が、私の名を呼ぶなど不遜に過ぎる」
ドルトデルタの体温が、怒りですっと冷える。
『下賎』。
『不遜』。
それは自分たち貴族が平民を見下す時に使う単語であり、平民——いや、魔族の奴隷ごとき存在が、貴族に対して吐いていいものでは断じてない。
「貴様、進退窮まって自棄になったか? 嬲り殺される前にせめて反骨心でも見せようと、そういうつもりか? どうやら傷痕と一緒に私の躾を忘れてしまったらしいな。鞭と刃と棒で刻んでやった忠誠心を思い起こさせてやらねばならんか?」
エーミルは——目の前の少女は、しかしそれでも。
「不思議。この前はあんなに怖かったのに。顔を見ただけで震えが止まらなくて、声を聞いただけで倒れてしまいそうだったのに……」
不敵に尊大に、それでいて妖艶に——、
「今はもう、ちっとも怖くないわ」
——嗤う。
「貴様……いい度胸だ」
ドルトデルタの中で激情が膨れ上がった。
自分の中では憤怒のつもりだった。しかし、もし彼が己の感情を鑑みる余裕があれば、腹の底に氷を落としたような奇妙な感覚の正体を探る冷静さがあれば、或いは気付いたかもしれない——自分が感じているのは憤怒などではない、と。
それは得体の知れないものへの畏怖であり。
『宵の兇状』がいつまで経っても姿を見せないことへの違和感であり。
そして、
「褒美に鞭をくれてやる! 悲鳴をあげて思い出……がっ!?」
ぼきん、と。
耳元、己の右腕から変な音と変な感触がして、振り上げた鞭が床へと落ちた。
「っ、あ……ぐう、ああああ!?」
表情筋が怪訝な顔を作るより前に、激痛が襲ってくる。それは呼吸ができないほどの。膝をついてしゃがみ込む。視界に捉えた右腕の肘があらぬ方向へ曲がっていることを理解し、絶叫は大きくなる。
「……私はあなたに腕を折られた時、そんな無様な悲鳴はあげなかったわ」
頭上からエーミルの冷たい声がした。頭上から? 何故だ? 何故貴族の自分が蹲り、奴隷のこいつがそれを見下ろしているのだ? そんな疑問を口にする暇はなかった。顎に衝撃があって頭が跳ね上がる。まるで蹴り上げられたかのように。ドルトデルタの頭部はそのまま弧を描くように石床に打ち付けられた。
「ぐ、か……!」
もはや跪くどころではない。倒れて呻くことしかできない。
ぼやける視界の中、こちらを見下ろして——いや、見下してくるのは——ふたり。
エーミル。それに、あの忌々しい平民。
「きさま、なぜ」
「お前が寄越した……なんていったっけ、あの五人組だけど。殺したよ」
クライズ=テレサは冷然とした顔で、しかし口調だけはとぼけた調子で言い放つ。
「はあ? 殺した? 噓を吐け! あれは王都でも高名な暗殺者どもだ、貴様ごときに……があっ!」
罵倒を言い終わる前に、折れた腕が踏み付けにされる。ドルトデルタの激情は苦痛を耐えるほどの気概を持っていなかった。
「僕は裁判官でも尋問官でもないけど……この先、お前は裁判を受けることも尋問されることもない。だからせめて僕が、お前の犯した罪を教えてやろうと思う」
「罪……だと? ふざけるな、私は貴族だ、伯爵だぞ!」
けれど続いたクライズの言葉に、
「お前の薄汚いお楽しみを、政府は知っているぞ」
「——え?」
ドルトデルタの思考は、止まった。
「自領地における誘拐と掠取、そして不当な拷問に強姦、殺害。三年前までは魔族の仕業に見せかけることでごまかしていたようだが、平和になってからも続けたのは失策だったな。この部屋も血の匂いが染み付いている……まあ、僕にとって不幸中の幸いは、お前がとびきりの下種だったことだ。領民を手にかけるのを我慢しなかったことだ。……お前にとって、魔族は人間じゃなかった。欲求を本当に満たすには足りなかった。奴隷をいたぶるのはせいぜい雉撃ちよりも少しだけマシ、程度の感覚だったんだろう? だから殺さなかった。殺してしまえば、本当のお楽しみを前に腹が膨れてしまうから」
確かにその通りだ。上等な料理が目の前にあるのにクズ野菜を山盛り喰らう阿呆はいない。だから殺しまではせず、折檻するに留めた。勝手に壊れて死んでいくのは勝手だったし、使えなくなったら売り払ってもいたが。
もちろんエーミルほどに美しければ話は別だ。この三年間でも何匹か、ドルトデルタの眼鏡に適う魔族はいた。エーミルは彼女たちと比べても——いや、魔族であることを差し引いてなお、領民どもを上回るほどに素晴らしかった。だから楽しみにしていたのに。なのに。
「ともあれ、お前はやりすぎた。しかもお前は曲がりなりにも聖人クレイナードの血を継ぎ、七英雄ジュリエを輩出したフーリエナの本家当主……王国にとっては醜聞に過ぎる」
それのなにがいけないというのだ。
たかが平民——しかも領民なのだから、領主の役に立って当然だ。自分には領民どもを好きにできる権利がある。所持する山で好きに雉撃ちしても誰にも咎められないように、所持する魔族をいたぶっても誰にも文句を言われないように。
——本当にそうか?
頭の片隅で静かに、ひどく冷静な声がする。
発しているのはドルトデルタにわずかに残った理性か、
——お前は本当は、わかっていただろう。
或いは、今まで殺してきた者の、怨念か。
「まあ、それについては、王国が認めるお前の罪だ。正直なところ、それに関しては僕に私心はない。……でもな、ドルトデルタ=フーリエナ」
「が、っ!?」
右腕を踏むクライズの足に力が込められる。
痛みで鮮明になった視界に映ったその顔に、ドルトデルタは絶句した。
「ひとつ。お前はその血の繋がりで、ジュリエの名を汚した。彼女の生き様に唾を吐いた。……僕のともだちを、侮辱した」
その顔——その目、その瞳。
「ふたつ。これが僕にとって一番許せない。お前は……エメに悪意と暴力を向けた。僕の大事な人を、傷付けた」
なんだこれは。
なんなんだ、この、こいつの目は。
まるで星のない闇、焦げ付いた炭、泥の満ちた井戸の底。
あらゆるすべてを塗り潰して併呑する、色彩も温度も気配すらない、圧倒的な殺意——。
「ひ、まて。まって。たすけて、くれ」
全身が震える。身体が縮こまる。涙が溢れる。
怖い。恐ろしい。おぞましい。『宵の兇状』が殺されたのは本当のことなのだと理解した。理解せざるを得なかった。そして後悔した。こんな目をした存在を敵に回してしまったことを。虎の尾を踏んだことを、竜の逆鱗に触れたことを。
「私が悪かった。あやまる。賠償する、だから……」
けれどその謝罪はあまりにも貴族的で、どこまでいっても救いようがなく。
ドルトデルタという人間の底の浅さを露呈する効果しかなく。
「殺しはしない。お前の犯した罪の重さは、お前の薄っぺらい命なんかでは軽すぎる」
クライズ=テレサはしゃがみ込み、ドルトデルタの喉へと手を伸ばす。
「ひ、やめ……ゆるし」
「一生涯をかけて苦しみ続け、償い続けろ」
彼の背中から、なにかが伸びたのが見えた。
魔力の奔流、純白の比翼。
魔族と只人の混血が身に宿した、祝福にして呪詛にして力の発露。
けれどその正体を理解する前に、ドルトデルタは意識を失った。




