九:少女は刃を手にとった
呆気なく止めは刺された。
刃は先ほどまで宛てがわれていた喉元ではなく、背中から心臓を抉った。刺突に適したごく細身の短刀は霊銀と古代金の合金製で、たとえ鉄を貫こうとも折れ曲がりもせず刃毀れもしない。いわんや人体、心臓はあっさりその機能を停止させる。
首ではなく心臓にしたのは、派手な出血を避けたためだ。エメの寝室を汚すなどあってはならなかった。
侵入者は五人組。うち四人は既に息がない——というより、ひとりだけ生かしてある。依頼の詳細を聞きださねばならない。もっとも、誰からの依頼なのかどんな目的なのかは明白であって、正確にはその裏を取る必要がある、というだけのことなのだが。
クライズは死体を廊下に押しやった後、短刀を鞘に納め、エメに視線を向けた。
自分でも気付かぬうちいつの間にか指先が震えていた。足元もどこか覚束ない。今まで何度も何度もしてきた行為のはずなのに、初めて魔族を暗殺した時もこんなふうにはならなかったのに、どうしてだろうと思った——ああ、そうか。
怖いのか、僕は。
愛しい人に、自分の醜い部分を見られてしまったことが。
「……エメ」
今まで考えないようにしていたことを、改めて思う。
自分に、彼女の名を呼ぶ資格が果たしてあるのだろうか。暗殺者として手を汚し、殺すことで進み続け、あまつさえ彼女の父親さえもをこの手にかけて、今もまたこうして、命を殺めることでしか彼女を守れていない。両手どころか全身が血まみれの汚いこの身で、彼女を抱き締める資格があるのだろうか。
資格なんてなくたって構わないと、ずっと思っていた。たとえ嫌われても憎まれてもいい、エメが笑っていられるなら、無事で平穏に暮らせるのなら、僕は躊躇いなく手を汚そうと。たとえその結果として隣に自分がいられなくなってもいいのだと。
七年間ずっと、そんな決意と覚悟を抱いていたはずなのに。
再会の日、エメを実際に抱き締めたあのぬくもりが、柔らかな匂いが、いつの間にかクライズの冷徹な意志を砕いていたのだ。
「僕は、その……」
どんな顔で、どんな態度で、どんな言葉をかければいいのだろう。
答えはわかっている。すべきことは明白であり、たったひとつしかない。胸を張ることだ。
きみのために殺した、きみを守るために殺した、これからも必要があれば殺し続ける、それに僕の心はなんら悖ることはないと——ああ、それができるんなら、とうにそうしている!
かつて魔王を前にしても怯まなかった暗殺者は立ちすくむ。
年頃の少年のように。在りし日の、気弱で内気だった子供のように。
だから。
少年の代わりに動いたのは、少女だった。
※※※
エメは部屋にほんのわずかだけ残る血の匂いを吹き飛ばすように、一歩を踏み出した。
そうして、弱々しく立つ少年を抱き締める。
力の限り強く。まるで魂までをも縛るように。
「私、言ったよね、クライズ」
ふたりには頭ひとつ分の身長差があって、だから立ったまま抱き合うと、エメがクライズの肩口に顔を埋める格好になる。けれどこの時の抱擁は、頬と頬が触れ合っていた。
エメは背伸びをし、クライズは俯いていた。
少女の唇が耳許に寄せられる。
呪うように祝うように。詛うように祈るように。
エメは囁く。
「……私は、私の心にある刃を、あなたに託す、って」
それはかつて、彼に告げた言葉。
彼のしてきたことを知り、新しい関係を始める時に行った、宣誓。
「私の秘めた想いはあなたとともに。あなたが振るう刃の罪も、私とともに——あなたが誰かを殺すなら、私も一緒にその血を浴びる。私は怯まない。恐れない。後悔もしない」
抱き締める両腕にあらん限りの力を込める。優しくなんてしてやるものか。せいぜい身動きが取れなくなればいい。だって——そのくらい全力を尽くさないと、私の想いはきっと伝わらない。
「私はあなたが好き。大好き。愛してる。そしてあなたもそれは一緒だって信じてる。私のことを愛してくれてるって信じてる。だからそんな顔をしないで。私のために人を殺しておいて——後悔なんてしないで」
そうだ、後悔などさせるものか。
こんなにも悲壮な顔で、壊れそうになるほど傷付きながら、私の父親さえもを私のために殺した優しいあなたを、後悔と罪悪感の泥沼へなど、落としてなるものか。
「だから胸を張ってよ。堂々としていてよ。私のためにあなたが手を汚してくれた、そのことに、私の心はなんら悖ることはない!」
——やがて。
クライズの手が、エメの背にそっと添えられる。
ついさっき人を殺したその手が、まるで縋るように撫でてくる。
なんとなく、ふと思う。
テレサ村で、気弱なクライズとおてんばなエメがあのまま育っていたら、こんなふうに抱き合うのが当たり前になっていたのかな。私が固くぎゅっとして、あなたが優しくそっとして。
でも、たとえそうだとしても、今の抱擁は、意味が違う。
クライズがエメの肩を掴み、身体をそっと引き離し、真っ直ぐにこちらを見据え、言った。
「これから、ドルトデルタ伯爵……きみの前の主人のところへ行く」
その名に、三年間の昏い記憶が抉られる。
鞭で叩かれた記憶。刃物で斬られた記憶。棒で打たれた記憶。あいつは使用人にやらせるのではなく、自分の手で暴力を振るうことを好んだ。些細な失敗でも容赦なく咎められた。きっと気に入らないことがあった時の八つ当たりなんて時もあったのだろう。背を丸めてうずくまるエメに投げつけられる罵倒と息ができなくなりそうなほどの痛み。日に焼けた精悍な顔は折檻の最中、いつも喜悦で醜く歪んでいた。思い出すだけで、エメの全身は恐怖で硬直し、声が出なくなる——あの日、クレイナード広場で再会した時のように。
だけどもう身体を強張らせたりはしない。喉を震わせたりもしない。
そんな無様な真似、できるものか。
何故なら、私はもう刃を持っているのだから。
「かつてきみを傷つけたあいつを、今また傷つけようとしたあいつを、僕は許さない。だから罰を与えてやる。二度ときみがあいつに害されないように。きみの平穏が破られないように」
エメは両の足でしかと立ち、笑って応えた。
「だったら、私も一緒に行く。だってあなたの刃を振るうのは、私なんだから」
※※※
さあ、少年よ。
無力な少女を連れて敵地に飛び込み、みごと戦ってみせろ。
こちらに毛筋ほどの傷もなく、あちらを血の海にしてみせろ。
私はその有様を睥睨し、あなたとともに過去を乗り越える。




