八:私の彼は過保護です
それは月のない静かな夜だった。
王都、ミギナ地区。
中央部からほど近いものの、復興再開発がまだ進んでいないせいでやや寂れたこの一帯は、夜間ともなるとほとんど人通りも途絶えてしまう。
故に、その人影たちを見咎める者はいなかった。
もっとも、もし誰かが彼らと遭遇したとしても、果たして行き遭ったことに気付けたかどうか。
黒尽くめの外套を着込み冠帽を目深に被った、五人組である。
年齢も性別も推察できないその佇まいは無論のこと、なによりも奇異なのは気配だ。霞のように薄く、綿菓子のように淡く、闇夜に溶け込んで存在をまるで感じさせない。五人という大人数でありながら呼吸音も衣摺れも足音もなく路地を進んでいく様は、幽鬼のごとくであった。
彼らの名を『宵の兇状』という。
今、王都において活躍著しい暗殺者集団だった。
『宵の兇状』たちはとある屋敷まで辿り着くと、曲がり角の影からそっと玄関を伺う。
ミギナ地区の中央、四番地。あばら家や廃墟が目立つ一画にあって、不釣り合いなほど立派に建った屋敷。小さいながらも堅牢そうで、手間と金がかかっていることがわかる。百人に尋ねたら百人が「どこぞの貴族の別邸ではないか」と言うだろう。よもや平民の少年と魔族の奴隷がふたりだけで暮らしているとは、誰も思うまい。
待つこと四半刻ほど。
屋敷の玄関が開き、人影がひとつ出てくる。
彼らと同じような格好だ。冠帽付きの外套で全身を覆っていた。だが彼らとは違い、気配はしっかりしている。呼吸音も衣摺れも足音も耳を少し澄ませるだけで聞こえてくるようだ。それも当然だろう。人の気配というのは、専門の訓練を受けなければ消すことは叶わない——まさにこの五人組のように。
「半刻くらいで戻るよ」
玄関先でそいつは言った。中で見送る何者かに。少年の声だった。
「うん、わかった、行ってらっしゃい」
内側から応える声があった。少女の声だった。
そうして玄関は閉まり——『宵の兇状』たちは更にそこから念のために四半刻を待つ。
やがて侵入する直前、五人のうちのひとりがぼそりと洩らした。
「つまらん仕事だな」
呟きに返事はない。が、その場にいる全員が同じ感想であることは明白だった。
標的は、屋敷の中にひとりでいる魔族の奴隷。
まずはそいつを攫う。それから屋敷の主人であるさっきの少年宛に手紙を残しておびき出す。あとはのこのこやってきたのを拘束し、雇い主が魔族の少女を犯しているのを見せつけながら拷問して殺す——それだけ。
困難なことなどなにもなく、それでいて下衆な、まるでただ泥を飲むだけのような仕事だ。
もちろん、泥を飲むことに対して彼らにはなんの感慨もない。何故ならこの手の依頼はありふれているからだ。むしろ泥を飲むことこそが自分たち暗殺者の役割なのだろう。
ただやはり、つまらない。
命を賭して磨いた技術をたまには存分に発揮してみたい。近付くことすら困難な標的の喉首を掻っ切って、依頼主に賞賛されてみたい。徒党を組んでの誘拐や拷問などではなく、単身で敵地へと忍び入って鮮やかにひと息に敵を殺害せしめてみたい。そう、泥を飲むのではなく、泥の中で紅い蓮の花を咲かせるような、そんな。
彼らは不満だった。それ故に、理解できていなかった。
自分たちが何故、泥を飲まされてばかりいるのか。そうした仕事ばかりが回ってくるのか、その理由に。
彼らの考える——『暗殺者の本懐』を請け負うことが可能な人間など、ほんの一部しかいない。だいたい暗殺行為など今の王都において滅多にない。故に暗殺者を名乗る者たちに与えられるのはこうした汚れ仕事となる。
そもそも大半の人間は、命を賭して磨いた技術をもってしても蓮を咲かせることすらできない。故に、泥を飲んで生きていくしかないのだ。
飲み過ぎれば死ぬ泥を。
※※※
屋敷へ侵入するのは容易かった。
二階の窓硝子を音もなく切り裂いて終わり。五人連れ立って気配を殺し、廊下を進む。気配を探索していると、一室から楽しげな鼻歌が聞こえてきた。あの奴隷の少女に間違いないだろう。
鼻歌を聞いたひとりから思わず舌打ちが洩れる。魔族に対して悪感情があるのは後ろ暗い職業の人間であっても変わらない。斯様な様を見せられるとどうにも苛立たしさがくる。周囲に目配せすると全員が揃って頷いた——無言でそのまま拘束するつもりだったが予定変更だ、少しばかり脅してやろう。
消していた気配をわざと露にしつつ扉を開ける。化粧台の前に座って髪を梳かしていた少女が驚いてこちらを見る。奴隷のくせに高級そうな寝間着を身に纏い、石鹸の匂いを漂わせていた。充てがわれた部屋もまるで細君の寝室のよう。
「冗談ではない。薄汚い魔族が何故こんな貴族のような生活をしている?」
五人のうちのひとりが吐き捨て、得物を抜いて見せ付ける。刃渡りの広い短刀が燭台の明かりに反射して鈍く光る。魔族の少女はぽかりと口を開け、ややあって状況を理解し目を見開き、それから唇を震わせ悲鳴を——あげるその前にこいつの口を塞いでやろうと一歩を踏み出した、その時。
「動くな」
短いひと言とともに。
喉元に冷たい刃物の感触が添えられていることを、そいつは自覚する。
「な……っ!?」
愕然とした。
愕然としながら、ぽかりと口を開ける。それはまるでつい数秒前の、奴隷の少女のように。
どういうことだ。なにが起きている。壊れた機織り機に巻かれた糸のように疑問がこんがらがっている。
後ろのこいつは誰だ?
屋敷には奴隷ひとりしかいなかったのではないか?
暗殺者の自分がどうして背後の気配に気付かなかった?
何故こいつは本職の俺に対してこんな振る舞いができているのだ?
そもそも他の四人はなにをしている——?
「クライズ!」
奴隷女が嬉しそうに叫んだ。忌々しくも絶世の美貌を輝かせながら。
呼んだその名。クライズ——クライズだと?
それは、標的の片割れ。四半刻前、確かに屋敷を出て行ったはずの。
「エメ、ごめん。怖い思いをさせた」
「ううん。戻ってきてくれるってわかってたから」
「言ったろ、それがあれば大丈夫、って」
愛おしそうに首元を撫でる娘。
貴族でさえ身に着けることが叶わないような豪奢そうな首飾りがそこにあった。よもやこれは奴隷の首輪か? こんな、たくさんの宝玉が金属糸に編み込まれたようなものが?
「どういう、ことだ」
「答えてやる義理があるのか?」
無機質な背後の声に背筋が震えた。
もっとも、もし彼がことの詳細を知らされていたら、混乱がいや増していただろう。異変があればすぐさま駆けつけられるよう奴隷の首輪に転移術式が仕込まれているなど、理解の埒外にある所業である——転移魔術からして喪われた霊族の秘奥、実際に見たことのある人間などほとんどいないのだから。
ちなみに、もし拘束するため触れようとしていたら簡易結界術式が発動していた。毒物や睡眠薬も耐毒魔術により無効。催眠や魅了などの精神干渉魔術も無効。病すらも無効。
術式を依頼されたさる賢者は「さすがに過保護じゃないか」と呆れたという——。
震える男に話を戻す。
彼は己の状況を鑑み、腹を括った。
どのみちこうして首筋に刃が添えられている時点で己の運命は決まっているのだ。ならばせめて尋きたいことを尋き、願わくば知りたいことを知ってから死にたい、と。
「……仲間たちはどうした」
「後ろで寝ている。よほど疲れてたんだろうな」
「なぜ俺が無様に背後を取られている」
「そんなに腕に自信があったのか?」
「これでも王都で名の通った暗殺者だぞ、俺は……いや、俺たち『宵の兇状』は」
これまで山ほどの仕事を完遂させてきた。功績を積んで評判と信頼を重ねてきた。だからこそ今回のように、貴族からの指名ももらえる。なのに。
背後のそいつは、『宵の兇状』の名を聞いても声音をまったく変えなかった。
まるで興味がなさそうに、告げる。
「少なくとも僕は知らない。一応、同業者なんだけどな」
「同業者、だと? ……っ!?」
そこで男はあることに気付く。ようやく、気付く。
「貴様、なんだこれは……なんなのだ!? どうして気配がない? ここまで近くにいてなお、気配がしない!?」
集団や闇に紛れることで気配を消すのとは根本的に違う。
こいつは今まさに自分の背後にいる。
首筋に短刀を突きつけている。
それほどまで近くで、ほとんど密着しているはずだ。
なのに、気配がない。体温がない。息遣いがない。それらすべてが、どこにもない。
ただ押し当てられた刃の冷たさが知覚できるのみ。
「さあね」
答える声は虚空から泡のようにぽん、と湧く。それでもなお、背後に人がいるとは思えない。
——かの男には知り得ないことだが。
正確には『ない』のではない。『感じられなくなった』のだ。
クライズの祝福『魔力同調』は——己の魔力を他者の体内魔力、更には周囲の外界魔力とまで同調させ一体化、すべてを完全に溶け合わせることで、気配と存在感すらも消失させることができる。
魔力とは、生物の体内を巡り大気に満ちる不可視の波だ。遍くすべてに流れている万物の根源だ。その波長を完全に同調させるということは、すなわち、魔術的概念として同じものになったということ。
そうなると身体も錯覚する。五感すらも騙される。水の中に水を垂らした時のように、溶け合って判別できなくなる。クライズのことを己の一部だと勘違いしてしまう。だから彼我の区別がつかなくなる。気配すらもわからなくなる。
「クライズ=テレサ、だったか」
男はほんの少し前まで標的だった者の名を、悔悟と畏怖の元に反芻した。
気配を消したまま刃を突きつけられるなど、人間業ではない。
格が違う。次元が違う。自分の歩んできた道程など、ただの児戯だ。
「お前の名を、俺は知らなかった。後ろで倒れているという仲間たちも知るまい。この界隈に身を置いてもう十年近くになるのにな……まったく、世界は広い」
※※※
クライズは、怯えて震える暗殺者の男になんの感慨もなく告げた。
「そういうの、よくわからないけど。暗殺者ってのは、名が知られちゃまずいんじゃないか?」
男は最期に「確かにな」と自嘲した。




