七:逢瀬を邪魔せぬ限り
「おのれ、あの平民……よくもこの私に無礼な口を! 恥をっ!」
怒りに任せて罵倒をひとりごちながら、ドルトデルタ=ズン=フーリエナは王宮の廊下を歩く。
それほど登城の機会があるわけではない。が、さりとて慣れぬ場所でもない。故にたいした緊張もせず汚い言葉を吐ける。伯爵位に就いてより三年、権力の中枢に食い込もうと日々を過ごす身である。
二十年に及ぶ魔族支配への反抗活動のせいで、ミドガルズ王国の政治体制は歪んでいた。本来であれば爵位の高さがそのまま権力の大きさになるところが、功績に陞爵が追いつかぬまま権力だけが高まったのである。
故に、魔族討伐に貢献した者たちが低い爵位で政の実権を握り、さして戦果を挙げなかった者たちは爵位が高いままに冷遇されている——後者の最たる例のひとつが、フーリエナ伯爵家であった。
『帰らざる聖騎士』ジュリエを血族から輩出したことで子爵から伯爵へとなったもののあくまで縁故による義理に過ぎず、実質的な権力は与えられなかった。今の王宮においてはいてもいなくてもいいような存在となっている。
本来なら多少なりとも政治に口を出すことができたし、多少の無法はまかり通ったはずだ——たかが奴隷ひとりを平民から徴収する程度のことは。
この場合の『まかり通る』とは、国からお目こぼしをもらえることである。
己の管轄地であれば、無法を通そうと思えば幾らでも通せる。ただそれは、証拠をすべて握り潰すことが容易だからというだけであって、万がいち露見してしまえば罰せられるのはこちらである。要するにフーリエナ家には、悪いことをした時に国が味方してくれるほどの権力がないのだ。
あの平民がそれを理解していたのかどうかはわからない。が、衆人環視の前で正当な手続きを踏めと言われれば今のフーリエナ家にはどうしようもない。王都内の出来事であることも災いした。
とはいえ、ドルトデルタはまったく諦めていなかった。それどころか己の勝利を確信してさえいた。何故なら、あの平民が得意げにのたまっていた理屈には致命的な穴が開いている。理はあっても空、つまりこちらの都合で幾らでも埋められる理なのだ。
屋敷に帰って身請法のことを調べてみれば、ああ、なんてことはない。
空理とは即ち、法の執行に必要な手続きについて。
そう、強制買い上げに必要な『奴隷が正しい雇用形態に置かれているかどうかの調査と、報告書』——この作成は、執行する貴族側に一任されているのだ。
つまりは調査報告書など、都合がいいものをどうとでも書けるのである。
「くく……く! あの平民が! 我が青い血を侮りおって! エーミルを徴収するだけでは済まさんぞ。素っ首刎ねて獣に食わせてくれる!」
今ドルトデルタの手許には、まさにそのでっち上げの報告書がある。あの日から一週間、家令に調査を命じ、作成させたものだ。
最初は奴隷へ日常的に暴行を振るっているという内容にするつもりだったのだが、魔族の奴隷はすべての権利を持たず、暴行も過度な労働も違法ではない。おまけにあの平民のことを調べてみれば付け入る隙がぼろぼろと出てくる。
そこで、もっと説得力のある罪を捏造することにした。
即ち——。
※※※
「ふむ。逃亡魔族たちへの扇動、ひいては国家反逆罪の疑い……か」
「ええ。ですから、私の手でこの奴隷の強制買い上げをと」
王城内、宰相の執務室。
まさに王国の政における中枢とも言える部屋。
ドルトデルタ伯爵は、持ち込んだ書類を眺める老人に、毅然とした貴族らしい態度で頷いてみせた。
執務机に腰掛けて書類を眺める老人——宰相の名は、サーマイト=ケラ=パーシヴァル。
齢七十。ミドガルズ王国の公爵にして、現国王の義理の叔父にあたる人物である。
痩せこけた頬に鷲鼻、おまけにぎょろりとした目、猛禽類を連想させる佇まい。四十年前から宰相として国政を司り、魔族との戦時下においても王国を内側から支え抜いた男。
その傑物は、目だけで伯爵に説明を促す。
伯爵は続けた。
「平民——クライズ=テレサが所持する奴隷エーミルは、眉目秀麗で知られる魔族の中にあってもたいへんな美貌を持つ女です。クライズ=テレサはそれを利用し、逃亡中の魔族たちへの餌として奴らを扇動し、愚かにも王国への叛逆を目論んでいる疑いがあるのですよ」
宰相は書類ではなく伯爵を見ている。
国家の中枢が己の言葉を傾聴してくれていることにドルトデルタは興奮を覚え、唇が湿った。
「調べてみたところ、彼奴の住まいは平民が所持できるはずもない、身分に不相応な屋敷でありました。また、時折怪しげな者が出入りするのも確認しております。これは背後の繋がり……王国に混乱をもたらさんとする何者かの存在を示唆していると見てよいかと思われます」
住まいが立派すぎるのも、妙な人物の出入りがあるのも事実。ただそこからの推論は証拠などひとつもないでっち上げである。
「私としては、この身請法を適用し奴隷エーミルを買い上げることで、その背後関係を洗い出せないかと考えております。クライズ=テレサを捕縛して尋問するもよし、エーミルを囮にして支援者を誘いだすもよし。上手くすれば大魚が釣れるでしょう」
得意げに顎を上げる。
無論、海中にいもしない大魚を釣るつもりは微塵もない。
反抗したのでやむなくという名目でクライズを殺し、伯爵家で保護拘束するという名分でエーミルを組み敷く。するとどうだろう——なんと表向きには、「聖騎士ジュリエを輩出したかのフーリエナ家が正義のために動いた」という令聞が、市井と社交界、ひいては国家を駆け巡るのだ。
「なるほど、卿は義心によりて、前の主人として、この奴隷を守るべく買い上げたいと、そう仰るか」
「ええ、まさしく!」
大鷹のごとき宰相の目がわずかに見開かれる。それを感服と受け取ったドルトデルタは、目論見が上手くいったことを確信した。
「ふむ、まことに殊勝……ところで伯爵殿、奴隷の名前はなんと言ったかな?」
「はい、エーミルでございます」
「ミギナ地区中央の四番地、クライズ=テレサの奴隷、『エーミル』、か。なるほどのう」
——故に。
ドルトデルタ伯爵は、気付かない。
宰相が、奴隷の名前をわざわざ尋き返したことの意味に。
奴隷の主人クライズの名前と住所を、わざわざ反芻したことの不穏さに。
「ふむ。しかしまあ……大魚を釣る、か。皮肉なものよ。こちらとしては尸虫で小魚を釣るようなものであるが、まあ問題なかろう」
「宰相殿? 今なんと」
「いや、なんでもない。こちらの話だ」
そして——呟かれたことの、胡乱さに。
ドルトデルタはこの時、浮かれていた。
勝利への確信。自分に恥辱を与えた平民への復讐心。美しく変貌を遂げたエーミルに己が劣情を注ぎ入れることへの期待と、嗜虐心。そしてこの計画を上手く使って機を掴んでやろうという功名心。それらを綯い交ぜにした高揚は、ただでさえ低かった判断力と推察力を更に鈍らせ、元より濁っていた眼をいっそう曇らせる。
「よかろう、フーリエナ伯爵家当主、ドルトデルタ=ズン=フーリエナ殿。強制買い上げの許可証を出そう」
彼は差し出された書類を、クライズへの死刑宣告として恭しく受け取った——なるほどそれは確かに、死刑宣告には違いない。
※※※
そうしてドルトデルタ伯爵の浮かれた足音が、扉の向こうへ遠ざかっていった後。
執務室の奥からひとりの人影が、まるで霧雨が烟るように姿を現し、サーマイト=パーシヴァルの横へと立った。
ミドガルズ王国の宰相は、その猛禽のような両目を歪めつつ苦笑する。
「賢者殿。唐突に転移してくるのはやめていただきたい。老いぼれの心臓を止める気か」
——『それ』は、人の貌をした混沌だった。
少年のように可愛らしく、少女のように美しい。子供のようにあどけなく、老人のように開悟している。その両目にはなにも映しておらず、故にあらゆる真理が内包されている。表情には慈しみと稚気が滲み、しかし気配から感じられるのは正邪両極を呑み込む虚無。
『七英雄』がひとり——『深淵を掬う賢者』ヴ・トである。
ヴ・トは笑う。
「なにを言う、サーマイト。きみは昔から肝の据わった子だったろう。確かあれは五歳の時だったか? きみの父上が狩ってきた角兎が息を吹き返していきなり飛び跳ねた時も、眉ひとつ動かさず……」
「あなたにとってはついこの前のことなのかもしれないが、私にとってはもはや思い出すのも難儀なほどですよ」
まったく、これだから霊族は、と。
自分が幼少期に出会った頃となにひとつ変わらぬ姿をしている『その存在』に、サーマイトは溜息をひとつ落としながら諦観の視線を向ける。
「それにしても上手く言ったものだね、『尸虫』とは」
先ほどのサーマイトが発したつぶやきのことだった。
「人の体内にあって宿主の罪を罰する役目を負うた虫……土鬼族の伝承か。確かに彼は王国にとっての尸虫だね」
「だが賢者殿。我々はその尸虫を、些か大胆に取り扱い過ぎたのではないかな? あなたの言う通りに許可証を出したが……もはや伯爵との衝突は避けられまい。彼を怒らせてしまうのでは」
サーマイトは元々、ドルトデルタの申請を却下するつもりだった。そこにヴ・トが介入したのである。
正直なところ、こちらとしては藪を突いたのではないかという不安が大きい。
「それは心配ないよ。たぶんあれは、この結果を予期していたはずだ。むしろ感謝してくれるくらいだろうさ。なにせ、堂々と復讐できる理由を作ってあげたのだから」
「貴殿がそう仰るならば信じるほかはないが……それでも私のような蒙昧は、不安でたまらなくなる。なあ賢者殿。どうしてあなたは……いや、あなた方『七英雄』は、あれをそうまで信頼できる? あの少年に、そうまで気安くできる?」
『あの少年』——クライズ=テレサ。
サーマイトの認知する存在となってから五年、そして無視できぬ存在となってからは三年。
七英雄を差し置いて魔王をその手で討ち滅ぼした、稀代の暗殺者。
彼は確かにその腕で大陸を救った。人々を救った。この国を救った。
だが、魔王を暗殺せしめたということは、つまり——彼が暗殺できない者などこの世には存在しないということだ。
たとえ貴族であっても。
王族であろうとも。
おそらくは『七英雄』たちであっても。
「私には理解できない。はっきり言うが、あれは化け物だ。わが国はあの化け物を、あの猛毒を身中に抱えているのだ。正直言って私は怖い。もしあれがこちらに刃を向ければ、国が滅ぶのだぞ」
「なんだ、そんなことか」
懊悩の溜息を深く吐き出した宰相へ、賢者はそれでも笑う。
続いた言葉は、サーマイトにとってはやはり理解しがたいものだ。
「きみたちはクライズのことを見誤っている。あれはね、実のところ尸虫でも埋伏の毒でも滅国の刃でもない。ただの恋する少年だ。恋人との逢瀬を邪魔せぬ限り、微笑ましい存在でしかない」
賢者ヴ・トの顔は楽しげで、目の前にいない相手を慈しむようで。
「——私たちはみな、あれのことが好きなんだよ」
それは賢者ヴ・トだけでなく、『七英雄』たちの総意なのである。




