六:蒙昧なるフーリエナ
王国史に曰く、『七英雄』がひとり——聖騎士、ジュリエ=キシュリ=フーリエナについて。
フーリエナ子爵分家キシュリが当主、ガイズス=キシュリ=フーリエナの長女として生まれる。
女だてらに幼い頃より剣術に強い興と才を示し、更には『祝福』——『誇りの盾』を得るにあたり、長じては王立騎士団に名を連ねるほどの女傑となる。そして齢二十二のみぎり、神託により魔王討伐の勅命を受け、『聖騎士』として七英雄のひとりに。
だが三年の後、魔王討伐を成し遂げて帰還した『七英雄』の中に、彼女の姿はなかった。
魔王との戦いの際、尊くも勝利の礎となり殉ず。七英雄たちは彼女の死に様を黙して語らず、それは彼らの弔意を示すがごとくであった。
王国は彼女の偉業と誇りに報い、誉を諡し、『帰らざる聖騎士』と称す——。
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また、王国諜報部の資料に曰く。フーリエナ家について。
血筋としてはおよそ五百年の歴史を持つ。五百年前、祖であるクレイナード=フーリエナが身を呈して暗君の悪政を弾劾したことで聖人に列せられ、遺族たるフーリエナ家は爵位を賜る。
以来五百年、子爵家として王国に仕えてきたが、先年——『帰らざる聖騎士』ジュリエを分家から輩出するにあたり、その功績により伯爵へと陞爵した。
現在の当主はドルトデルタ=ズン=フーリエナ。
齢三十三。三年前、両親と兄が相次いで身罷り、当主の座へとついた。妻がひとり、子はない。趣味は狩猟。生活は現在のところ派手であり、平民からの評価はあまり芳しくはない。
王都北の外縁に荘園を持つ他、クレイナード広場の管理管轄も慣習的に行なっている。
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「まさか貴様、エーミルではないか?」
ドルトデルタ伯爵がそう言うと、クライズの背後でエメが大きく怯えた。喉から「ひ」と悲鳴が洩れ、外套がぐいと引っ張られる。
クライズはそれだけで、エメと伯爵の関係を理解した。
なるほど——こいつか、と。
魔王が斃れてからの三年間エメがどこでどうしていたのかについて、クライズから積極的に尋ねるようなことはしていない。が、それでも断片的に、話は聞いている。
捕まってすぐ、貴族の家に買われたこと。
主人から欲望の視線を向けられたこと。
自ら顔を焼くことで貞操を守ったこと。
ただそれが気に食わなかったのか、扱いは露骨に悪くなったこと。
苦役の中、日常的に折檻を受けていたこと。
やがて心身を摩耗させていき、売り払われたこと——。
復讐を考えなかったわけではない。はっきり言うならば、憎い。殺してやりたいとすら思っていた。が、当のエメがそれを望んでいるようには見えなかった。昔のことを忘れてしまいたいのか滅多に語らず、前の主人の名前も口に出そうとしない。クライズが暗殺者だと知ってからは、尚更。
或いはそれは、クライズの身を案じて敢えて語らなかったのかもしれない。教えてしまえば間違いなく相手を殺しに行ってしまう、だからそんな危険なことはさせられない、と。
だが、まさにその相手が奇しくも目の前に現れるに至り。
エメはがくがくと震え、そうしてドルトデルタはにやりと笑みを浮かべる。
「おい平民。貴様、素性が怪しいな……背中にいる奴隷の顔を私に見せろ。これは伯爵としての命令だ」
いかにも貴族的な、有無を言わさぬ口調。
「は、……っ」
エメは呼吸浅く唇を震わせる。外套を握る力は強く、もはや抱き縋るようだ。
「どうした、命令が聞けんのか? 私は貴族として、このクレイナード広場を管理する者として、怪しい者を取り締まる義務がある。いいから名乗れ、そして奴隷を私に見せろ。もしできないのであれば……疚しいところありとして、然るべき対応をせねばならんな」
無論、方便である。単にこいつはエメの顔を確認したいだけだ。
ただ面倒なことに、その言には理があった。伯爵の私兵たち三人が地面で苦しみもがいていて、クライズはあからさまに彼らと対峙していたのだから。
伯爵が片手を挙げると、背後に控えた数名の兵士たちが腰の剣に手をかける。
誰もが皮鎧を身にまとっている。先ほど倒した冒険者風の三人とは違う、彼の護衛、或いは憲兵。
クライズは伯爵から背を向け、振り返り、エメの頭を撫でながら笑った。
「エメ。大丈夫だ。なにも怖がることはないし、心配することもない」
そうして背中を押し、促し、横に立たせる。
「堂々としていて」
エメは背筋を伸ばし顔を上げた——怯懦が全身を支配しているだろうに、気丈に。クライズを信じてくれた。
「クライズ=テレサだ。住居はミギナ地区中央の四番地」
名乗る。丁寧に、住所も添えて。
実のところその行為には、一抹の期待が込められていた。
クライズの姓名と住居の番地。もしこの伯爵が国の中枢にいるのならば——ジュリエの血縁に相応しく王国を真に担う者であれば——そのふたつの情報で、気付く。すべて理解する。
逆に、もし気付かないのであれば。
見当違いなことを口にするのであれば。
「やはりエーミルか! しかしその顔はどうした……火傷が消えているぞ!」
案の定というべきか、期待はずれというべきか——クライズの言葉は、最初から聞かれてすらいなかった。彼はただエメの顔を確認したいがため、こちらへ命令という名の欺瞞を突きつけただけだった。
ドルトデルタ伯爵は嬉しそうに、下衆な視線でエメの顔をまじまじと睨めつける。
「よもや私の屋敷にいた時の火傷痕は化粧だったか? それとも治癒士に大金を積んだのか? いやしかし……これはよもやとんだ紛幸だな。まさか興を失って捨てたはずの傷物が修繕されて戻ってくるとは。あの時も気にはなっていたが……三年経って育ってみれば予想を遥かに超えている。まさに極上の宝璧ではないか! ははっ、もう小間使いなどともったいないことはさせんぞ。存分に夜伽として可愛がってやろう」
おまけに好き勝手な論理でもって、ずけずけと前に出てエメへと手を伸ばした。
彼女の腕が無遠慮に掴まれようとする寸前、しかしクライズはふたりの間に割って入る。
「なんだ平民、邪魔だぞ」
「エメに触るな。彼女の主人は僕だ」
端的に告げる。が、伯爵はきょとんとし、それから目と唇を嘲りの形に歪めた。
「お前、なにを言っている? さては奴隷身請法を知らんのか? まったく……これだから無学な平民は困る」
賢しらに口にした単語に、クライズは目を見開く。
「いいか? 奴隷身請法とはな……貴族は平民の所持する奴隷を一方的に買い上げることができる、というものだ。つまり私はお前の同意など必要とせず、私の意思のみでエーミルを徴収することができる。わかったか? わかったのならそこをどけ。今ならば無礼を許す。打擲程度で済ませてやろう」
ただしそれは驚きなどではなく、呆れによって、である。
確かに『奴隷身請法』は存在する法律だ。奴隷制度が成立した数年後に制定され、今を以っても有効である。だが、彼の言っていることはなにもかもが——条文の本義から、ずれていた。
そもそもこれは本来、高貴なる責務の一環、富の再分配を目的とした法なのだ。
奴隷は維持に金がかかり、それは時として平民の収入で賄いきれなくなる額にのぼる。するとどうなるかというと、奴隷を手放したくないばかりに、当の奴隷に契約外の労働を要求する者が出てくる。奴隷本人もまた、自分が食っていくためだからとそれを受け入れてしまう。そして結果、奴隷と主人との関係が狂っていく。奴隷の正しい運用が成されなくなっていくのだ。
これを防ぐため、貴族には義務が課せられている。契約外の労働を強制されている奴隷を見かけたら、適切な値段で買い上げるべし——という。
そうすることで元の主人は分相応の生活に戻れる。奴隷は貴族の元で正しく運用される。この場合、損をするのは貴族である。買いたくもない奴隷を買い上げ、おまけに維持していかなくてはならないのだから。
もっとも、損をするからこその高貴なる義務。伯爵がこの法を持ち出すのは、貴族たるの矜持を忘れた厚顔無恥な行為に他ならない。
クライズは大きく溜息を吐いた。
エメにあんな傷を負わせたことは——個人的にはとても許せないが——この国の魔族に対する悪感情を考慮すれば、無理からぬ行為とすることはまだできる。そも、王国が繁栄する礎となった『七英雄』こそ、魔族たちを殺して回った急先鋒であるのだ。七英雄の仲間だったクライズもまた例外ではない。
けれど——ああ、けれど。
「よりにもよって、ジュリエ……きみの血族が、か」
魔族に対して欲望に満ちた視線を送り、下卑た劣情を隠そうともせず。おまけに平民を芥のごとくに見下し、誤った解釈で賢しらに法を盾にする。
その好色、その横暴、その蒙昧。
そのどれもが、あの『聖騎士』とは程遠い。
叶わぬ想いに身を焦がし、使命との狭間で悩み、その果てにひとつの尊い決断をした彼女を。
大陸に生きるすべての命を、身分や種族の区別などなく、全霊を以って護ろうとした荘厳な盾を。
いかなる時も冷静怜悧に、理性の中で正しくあろうとしたあの美しい後ろ姿を。
こいつは——この男の欲は、態度は、思考は——ジュリエのすべてを、侮辱している。
「身請法に則って奴隷を買い上げるには、然るべき手順が必要となる」
三年前、ジュリエと別れた時のことを思い出しながら。彼女を見送る仲間たちの顔を思い浮かべながら。
クライズは怒りではなくむしろ悲しみでもって、伯爵に淡々と告げた。
「……なんだと?」
「奴隷が正しい雇用形態に置かれているかどうかの調査と、報告書の作成。それを政府へ提出し、買い上げの許可が降りて初めて身請法は執行できる。確かに奴隷本人や主人の同意は必要ないから、そういう意味で一方的に買い上げることができるというのは嘘ではない。だけどな……あれはむしろ、買い上げる側の器量と資格が問われる法なんだよ」
教えてやりつつ、睨め付ける。
たとえこいつがジュリエの誇りを穢すような男でも、エメを傷付けた唾棄すべき相手でも。この衆人環視の中にあっては、あくまで正しいやり方で退けなければならない——そう、今この場においては。
「伯爵さま、あんたはいつ僕たちの調査をした? いつ報告書を政府に出した? 出しているのなら、政府発行の強制買い上げ許可証があるはずだ。もし許可証なく無理やり彼女を連れていこうとするならば、私有財産の不当な略取となる。……伯爵さまともあろうお方が、こんな衆人の前で、おまけに自分の管理管轄区域でそれをやるのか?」
「貴様……!」
クレイナード伯爵は、見る間に顔を赤くする。日に焼けた肌が羞恥と怒りで染まっていく様は、腐った肉が焦げていくのを連想させた——つまり醜い。
本当に血縁なのか。比べることすら気が引ける。だけどクライズは、最後のひと押しに——心の中で詫びながら、知己の名を利用した。
「かの偉大なる『七英雄』が一、高潔公明で世に名を残す『帰らざる聖騎士』ジュリエさま……その尊い血を持つ伯爵さまであれば、正道と大義の元、然るべき手順において法が執行されるはずだ。ましてや苟も卿の祖たる聖人クレイナードの名を戴くこの場所において。……僕のような平民は、それを信じている」
いいから退け、と視線に意を込める。
ここまで理を説き道義を説いてなお無理を通そうとするならば、それはもはやもののわからぬ暗愚だ。ならばもはや否やはない。魔力を乱して転がしてやろう。
そもそも、本人が出てくるべきではなかったのだ。後ろ穢い横暴を行いたいのなら、手下に任せて引っ込んでいるべきだったのだ。そうすれば「下が勝手にやったこと」と責任逃れができたものを、偉ぶってしゃしゃり出てくるから、理を無視できなくなる。建前に背けなくなる。
クレイナード伯爵はまるで死に際の火焔鳥のような目でこちらを睨みつける。だが同時に、まるで罠にかかった火焔鳥を眺める猟師のような笑みを浮かべた——つまりは道義に屈しながらもなお己の権力を頼みに、クライズに吐き捨てた。
「いいだろう、正式な手続きを取ってやる。名を言え平民。それから住まいもだ」
「クライズ=テレサ。ミギナ地区中央の四番地」
「……ふん、その場凌ぎで理屈を捏ねて得意になっているその顔が、我が貴族の青い血により今に白く染まるだろう。エーミルが私の腹の下で甘えて喘ぐのを、白くなったその顔でせいぜい眺めるといい」




