三:まるで首飾りのような
ミドガルズ王国の奴隷制度とは、元来、犯罪率低下を目的とした貧民救済措置の一環であった。
人は貧によって窮し、窮するにあまれば社会に背く。つまりは生きるために盗むこと、奪うこと、殺すことを選択せざるを得なくなる。そして偸盗匪賊の類が増えれば、必然、国は荒れていく。
これを防ぐため、貧困に喘ぐ者たちに衣食住を与える必要がある。その方法のひとつが奴隷である。
まずは人が奴隷商へ売られてくる——理由は主に貧困、口減らしなど。すると売られた者は奴隷商組合と契約を交わす。すなわち、どこまでを主人に委ねるか、をだ。委ねる範囲、できることにより買値は変わっていく。そしてその範囲は、あくまで奴隷本人や家族の意思によって決められる。
たとえばある碩学の徒がなんらかの理由により落ちぶれて、やむなく己を売るとする。彼は「頭脳のみを提供する」という契約を交わす。すると主人はその奴隷に肉体労働を強いてはならない。閨の相手などはもっての外で、規約を破れば主人には法的な処罰が与えられる。
或いは逆に教養も取り柄もない者が口減らしのため売られたとする。容姿はそこそこ優れていたため閨のみを提供するという契約を交わす。買った主人はその奴隷を好きに抱くことができる。が、その他の肉体労働は、それこそただの皿洗いであっても契約外の行為であり、強いることはできない。
主人との契約業務が滞りなく行われていれば副業をすることもできる。個人資産を持つことも許される。主人が許可すれば結婚もできる。つまるところ奴隷というのは人権の一部を売って衣食住を得る者のことであり、あくまで一部であるからして、売っていない部分の人権はたとえ主人が相手とはいえ侵害される謂れはないのだ。
——では。
才も技も教養も容姿も、なにひとつとして持ち得ない最下層の人間が、仕方なく人権のすべてを売ることになったとしたらどうか。
存在そのものを主人に委ねる。そんな奴隷となった場合、どうなるか。
主人はこの者を好きに扱える。苦役だろうが閨の相手だろうが魔術の実験台だろうが。鞭で打とうが棒で打擲しようが刃物で刻もうが。手足を潰そうが舌を切り落とそうが内臓を引き摺り出そうが。
すべて、すべてお好きなように。結果死んだとしても法には触れず文句も言われない。
普通の奴隷を管理の必要な人的資源とするなら、この手のものは使い捨ての消耗品だ。本来であればあり得ない。奴隷商ギルドの長い歴史にあっても、権利のすべてを売り払った奴隷の記録は——少なくとも公的書類の上では——数えるほどしかない。
だが三年前、とある事情により、人権を考慮する必要のない、いや、むしろ人権などあってはならない者たちが大量に王都へ送られてくるようになり、そのあり得ない奴隷が飛躍的に増えることとなった。
そう、魔族である。
※※※
そんな魔族の奴隷に、こんな首輪を着けるなんてどうかしている、と。
登録を受け持った組合の受付嬢、フィア=ハーウェイは唖然とした。
王都の中央部にある、奴隷商ギルドの本部である。
質実的な建物は細部まで掃除が行き届いており、奴隷商という単語の持つ悪い印象からはほど遠い。後期ジオーキ様式で統一された意匠は訪れたものを穏やかな気持ちにさえする。
本部にあるのは奴隷登録場、それから相談窓口。もちろんこの相談は主人と奴隷、双方から区別なく受け付けている。
未契約の奴隷たちが保管されている建物はここから少し離れた場所に別棟としてあり、牢屋のようなものではなく、集合住宅といった趣である。彼らはそこで、さすがに贅沢はできないまでも、過分ない食事と清潔な衣服を与えられて主人に買われるのを待っているのだ。
奴隷商というと、ひと昔前まではどうしても人身売買の総元締めみたいな胡乱で怪しい印象があったが——近年、組合長が代替わりしたことで、違法な売買に手を染め商品を横流しするような不逞の輩は根絶やしにされた。
今となっては元来の制定思想に基づいた、清廉潔白に奴隷たちの権利と安全を守り、貧しい人間を救う社会組織である。フィアはその一員として働けていることを誇りに思っていた。
だからこそ、だろうか。
彼女は魔族の奴隷に対してどうしても苦手意識がある。
魔族に人権はない。奴隷としてすべてを主人に委ねられ、死ぬまで使い潰される。
それはまるで、かつてこのギルドが根絶させたはずの——汚職と収賄、横流しの末に生まれる、人権を無視して非道な行為を強要される非合法奴隷のようだった。
奴隷商ギルドの本部へ魔族の奴隷を連れてくる者はそれ自体が珍しい。
すべての権利を持たない最下級奴隷は、売値も他の種族と比べてひと桁ほど安い。売買もギルドの商館ではなく広場での競りで行われる。奴隷登録すら買ったその場、ありものの首輪を使った簡易手続きだけで済ませることが常であった。
本部にわざわざ来て、おまけに新しい首輪を登録するなど——この仕事を始めて二年になるが、見たこともない。
いやまあ、見たこともないといえば、この奴隷も、この首輪だってそうなんだけど。
受付台の向こうに立った奴隷を、フィアは改めてまじまじと見詰める。
主人の背後に隠れ、おっかなびっくりしている少女である。だが、その気弱そうな態度ではまるで隠しきれていない絶世の美貌がそこにあった。
フィアはほとんどの王国民がそうであるように、魔族というものに対して忌避感と嫌悪感を抱いていた。なにせ三年前まで大陸中を恐怖で支配していた連中だ。フィア自身は王都育ちのため直接の被害を受けた経験はなかったが——たとえ個人的な恨みはなくとも、その黒髪と角、整った顔立ちを見れば自然と嫌な気持ちになってくる。
しかし、つい数分前。
主人に連れられ本部に入ってきた彼女を目にした瞬間——その忌避感と嫌悪感を、しばし忘れた。
——なんて綺麗な、子。
濡れているかのように艶めく黒髪。切れ長でそれでいてつぶらな瞳。鮮やかに魅惑的な唇。可憐さとあどけなさの中にまだ育ちきれない色香を秘めた目鼻立ち。思わずぞっとした。こんな造形がこの世にあってもいいのか。こんな娘がいてもいいのか。これを前にしては、闇夜に浮かぶ月さえも恥じらって隠れるのではないか、と。
フィアも自分の容姿にはそこそこ自身があった。受付嬢というのはどこのギルドであっても深い知識と看板娘たり得る容姿が求められるので、才色兼備な者が選ばれる。それに対して謙遜はしていない。
だが彼女を前にして、私は美しいだなどと言えるものか。
美しい、という形容詞は、本当に美しいものを前にしてはなんの役にも立たないのだと思い知った。
眺めていると思考が停止してしまうので、いけないいけない、と首を振り、本来の業務——奴隷登録のために預けられた首輪の検分に戻るのだが、これもまたかの少女と同様、果てしない難物であるので頭を抱えた。
それは奴隷の首輪というよりも、まるで恋人から贈られた首飾りのようだった。
首紐は基準ぎりぎりまで細くしてあり、おまけに凝った意匠の綺麗な柄が複雑に織り込まれている。もちろん規定通りに布糸ではなく金属糸で編まれたものだが、フィアにはこの材質が判別できない。目利きはできる方なのに、さっぱりわからない。
自分が見たことのない金属といえば霊銀か神銅、古代金くらいのものだが、どれも砂粒ほどの大きさひとつで家が建つ値段だ。さすがにそれはないだろう——実際にはその三種すべて使われていたのだが。知れば彼女は卒倒していた。
おまけに、首紐の中央部には等間隔で小さな宝玉が並んでいた。よく見ればどれも魔術式の紋様が埋め込まれている。埋め込まれた魔術式は——一緒に出されていた書類を確認し始め、フィアは卒倒しかけた。
「ええと……まずは必須術式の拘束と署名。あとは……耐毒、耐衝撃に……え、精神干渉魔術無効!? それに耐病と、簡易結界も!!? それに……転、って、え、は? はあああっ!?」
読みあげていた途中で、喉から勝手に素っ頓狂な悲鳴があがる。
というよりこの続きは——これ以上は、声に出してはならない。出したら間違いなくフィアの首が飛ぶ。
冗談ではない。ふざけるな。
こんなもの、奴隷の首輪ではない。確かに、法律で定められた術式——反抗行為防止用の『拘束』と、持ち主の名を示す『署名』——はちゃんと刻まれているが、それ以外のものがとんでもなかった。明らかに護身用で、しかも数といい内容といいすべてが常軌を逸している。王族の護身用装具でさえここまでの魔術式は組み込まれていないだろう。
神話の時代の聖遺物かなにかか、これは。
呆然として依頼主を見る。
奴隷の主人——くすんだ銀髪の少年。
正直、危ない目をしていて物騒で、かなり怖い。そのくせ気配はぼんやりしていて、うっかりすると目の前に立っている事実を忘れそうになる。それがまた恐怖を助長する。暗殺でも生業にしてるのかな? と頭の中で冗談を言いたくなる。
とはいえ、只者ではないというのは間違いない。
絶世の美少女ともいえる奴隷を連れて、おまけに訳のわからないほどにやばい首輪を持ってきて。
そもそもこの首輪、審査に通るのだろうか。形状はやや特殊とはいえあくまで規定に沿ったものではあるが、それにしたって美術品みたいに綺麗な意匠に埋め込まれた宝玉の数々——首輪を豪華にしてはならないという規則はないし、埋め込んではならない魔術の一覧に該当があるわけでもないけれど。
「こんなあからさまな訳あり案件、関わってられっか……」
フィアは誰にも聞こえないよう小さく呟くと、うってかわった営業用の笑顔で、小首を傾げながら少年に告げる。
「あの、すいません。こちら、私では判断しかねますので……組合長に案件を上げますが、よろしいですか?」
ギルドマスターへ伺いに行くと、申請書に書かれた名前を見た瞬間に認可が下りた。
やっぱりな、と思った。
※※※
再び受付へと戻り、首輪に認可が降りたこと、登録がなされたことを告げる。
主人である少年は認可証を確認すると頷き、こちらに礼をひと言告げた後、奴隷の少女へ向き直って、首輪をうやうやしく彼女の首へと巻いてやる。
「ごめんな、最初の贈り物がこれで」
「ううん、そんなことないよ。これ、すごく綺麗」
暗殺者じみている、とフィアが思っていた少年は、相手のことを気遣う優しい声をあげていて。
おっかなびっくり彼の背後に隠れていた奴隷は、嬉しそうに顔を綻ばせる。
少女は嬉しそうに愛おしそうに、少年が手ずから首に巻いたそれを、撫でた。
とろけるような微笑みとその仕草は、彼女の可憐さを更に高める。
フィアは思わず舌打ちした。
なんだこれ。なんで奴隷商ギルドの受付で私はこんなものを見せられているんだ。こっちは激務のあまり男日照りだっていうのに——ああ、いいなあ。羨ましいな。
やはりそれは奴隷の首輪というよりも、まるで恋人から贈られた首飾りのようだった。




