十:魔王の娘、今は奴隷
「ねえ、クライズ。クライズは……私に事実を話すのが、怖くなかったの?」
それは傍目に見れば、とても奇妙で不格好な逢瀬だっただろう。
ふたりは屋敷の居間、床に座り込んでいた。
クライズがエメを背中から抱き締め、エメはクライズの胸に背を預けている。
エメの手にはまだ短刀が握られていた。彼の仕事道具——エメの父を、いや、父だけではなくおそらくはたくさんの命を——エメにとっての同族を——奪ってきた刃だ。
だがその柄を握る両手に込められるのは、さっきまでのような激情ではない。
クライズの歩んできた七年間に対する切なる想いだ。
己の呪われた出自と、まるで呪詛みたいな祝福を、エメの奪還のために使うことを選択したクライズ。
その道は凄惨で残酷で、血塗られた荊の園を裸足で進むような行為だ。
もし自分とクライズの立場が逆だったら、とエメは想像する。
クライズが攫われて、彼を取り戻すために、彼の肉親をその手にかけろと言われたら。
果たして、自分にできるだろうか。
あまつさえ——それをしたことを、相手に告白できるだろうか。
かつての、内気で気弱で引っ込み思案で、エメの後ろを遠慮がちについてくることしかできなかった男の子の姿を思い浮かべる。ああ——あの彼が、どれほど壮絶な勇気と覚悟でそれを選択し、実行したのだろう。
そして当事者に、最愛の人に——その行為を告白してきたのだろう?
「黙っていようとは思わなかったの? だって、恨まれるかもしれない。憎まれるかもしれない。実際私は、さっき一度、あなたを憎んで恨んだ。今だって……納得はできても、感情で割り切れないところがあるよ」
父のしてきたことを知らされた。
村のみんなの、母の仇であることを知った。クライズが彼の犠牲者であることを知った。
それでもやっぱりエメの脳裏には、あの優しかった父の姿がちらつく。ちらついてしまう。
理屈ではないのだ。頭でわかっていても、感情の処理がうまくできない。
勇者のせいにしておけばよかったのではないか。
魔王を討伐したのは勇者ハイトで、クライズは『七英雄』とはなんの関係もない、と。
そして真実をエメに秘密にしておけば、それで丸く収まったのではないか——。
「怖かったよ。でも、黙っていようとは思わなかった」
けれどクライズは少しだけ笑いながら、否定する。
「すべて秘密にしたまま、真実を隠したまま、笑って暮らす……ねえ、エメ。それって、テレサ村で暮らしていた頃みたいだよね」
「あ……」
言われ、はっとする。
「テレサかあさんたちは僕らに、いろんなことを秘密にしていた。エメは魔王の娘であることを知らなくて、僕も作られた混血種であることを知らなくて。もちろん、それでも僕らは幸せだった。そのことに嘘はなかったし、テレサかあさんの選択が間違いだったとも思わない。実際、僕らの事情は子供が知るには重すぎる。テレサかあさんもルルゥも、たぶん折を見て打ち明けるつもりだったんだろうね」
でも、と。
クライズは続けた。
「でも……すべてが壊れた後。知らなかったってことを知った後。僕を襲ったのは後悔だった……もし知っていればなにか手が打てたかもしれない、って。まあ、僕らはたった十歳かそこらで、たとえ知っててもなにもできなかったとは思うけど、それでもやっぱり、もしもを考えた。そして、後悔した」
「……うん」
エメも同じだ。
今は後悔している。
知っていれば——もし今の記憶を持ったまま過去に戻れるなら、と、そんな詮無いことを想像してしまうほどに。
「テレサかあさんが……当時の大人たちが真実を黙っていたのは、僕らが子供だったからだ。今は違う。僕らはもう、子供じゃない。なにも知らないままのきみと、なにも知らせないままの僕がいたとして……そんなふうに、知らないままで過ごせる幸せは、七年前、とうに終わっている」
無知であることと、無知によって引き起こされることを、他人のせいにはもはやできない。
残酷な事実があったとして、潰れてしまいそうな重さだったとして、それらから守ってくれる人はもういない。
「それにね、エメ」
と。
クライズの笑う気配が、背後でした。
エメの頭が優しくゆっくりと撫でられる。
「僕はきみを愛してる。エメを愛してる。だから嘘はつかない。たとえ憎まれても、恨まれても、嫌われたとしても……大好きな人を騙すよりは、ずっといい。そう思ったんだ」
「クライズ。私も……大好きな人に騙されたまま幸せでいるのは、嫌だよ。今はそう思える」
撫でる手に自分から頭をすり付けて。
もっとして、と無言でせがみながら、エメは同意した。
この先きっと、エメとクライズの身には困難が待ち受けている。
だってエメは、魔王の娘で。おまけに魔王と同じ祝福を持っていて。
だってクライズは、魔王暗殺の実行者で。おまけに只人と魔族の混血種という存在で。
エメが知っていようが知るまいが、クライズが内緒にしていようがいまいが。
これらの事実は厳然としてそこにある。
そして、そこにある以上——事実を起因としたなんらかの困難は、この先、絶対に訪れるだろう。
『知らなかった』では、きっと乗り越えられない。
だからすべてを知り、受け止めて、前に進もう。
クライズと一緒に、ふたりで——。
決意とともに、エメはクライズの手を取って、そっとその胸から身体を起こした。
そうして彼を促してふたりで立ちあがり、振り返って向き合う。
向き合って——告げる。
「……なにも知らなかった過去の私と、私は今から決別します」
あなたが、七年前にそうしたように。
「すべてを知った現在の私は、現在のすべてを受け止めて、先に進みます」
あなたが今、そうしているように。
「未来のことはわからない。でも、私には時間がある。あなたが時間をくれました。だから……」
だから。
「ふたりで、今を見据えましょう。ご主人さま」
丁寧な言葉遣いを、意識的にした。
「私はもう、あの村にいた頃のエメじゃない。あなたも、あの幼くて弱気だったクライズじゃない。七年間でいろんなことが変わってしまって、変わらなくちゃいけなくて。再会できたけど、あの頃とはなにもかもが違っていて。そして知らなかったことを知って……そういう全部を、私たちは受け入れて、呑み込んで、新しく始めなきゃいけないんだと思う……思います」
これは、儀式だから。
受け入れて呑み込んで、新しく始めるための儀式だから。
「今、魔族は虐げられていて、私の身分は奴隷です。角を折られて背中を封印されて、なんの力も持たない奴隷です。私は奴隷としてじゃないと、あなたの傍にいられません。たとえ私たちがお互いのことをどう考えていようと、どんな想いを持っていようと……それは、絶対に変えらない事実です」
短刀を、宝物を捧げ持つように両手で、そっと彼の前に差し出した。
「だから奴隷は、私の心にある刃を、あなたに託すよ。私の秘めた想いはあなたとともに。あなたが振るう刃の罪も、私とともに」
クライズは——エメの幼馴染、大切な人、大好きな人、そして主人は。
その刃を受け取って、頷き、そのままエメを抱き締めた。
「いつかきみを奴隷から解放する。簡単なことじゃないだろうけど、きっとやってみせる」
※※※
エメリルア=ディス=テレサ=ジキタリス。
愛称、エメ。
テレサ村で幼馴染のクライズとともに育った、
魔王の娘、今は奴隷。
将来の夢は、クライズの——。
「はい、ご主人さま。その時は……私を、お嫁さんにしてね」
第一章はこれにて終わりです。
お読みいただきましてありがとうございます!
本章は全体の物語におけるプロローグ的な立ち位置で、クライズとエメの関係性が「新しく始まる」話でした。
次章からはふたりを取り巻く外の状況、また『七英雄』をはじめとした他のキャラクターの事情や内面も描かれていく予定です。
また、一章ではエメの視点を中心として話が進みましたが、次からはクライズの視点も入ってきます。
作者としては「男主人公か女主人公か」みたいな括りではなく、エメとクライズのふたりともが主人公だと考えています。
引き続き本作をよろしくお願いいたします!




