九:きっと連理のための比翼
停滞病の症状とともに、意識が薄れていくのを自覚した。
寒気も熱も呼吸困難も、視界の揺れも胸の痛みも、すべてが最悪だった。
だからこそ、このまま気を失って、二度と目覚めなければいいのにと思った。
せめてそれが罰になりますように。
だってお母さんや村のみんなが殺されたのは、全部私のせいだから。
こんな罪深い存在は、苦しんで死んでいくのが相応しい——。
——けれど、エメの意識が失われることはなかった。
胸の痛みが消えていく。視界が輪郭をくっきりとさせていく。
呼吸が落ち着いて楽になる。全身の熱がひいていくのを感じる。寒気が治まって全身に力まで満ちていく。
最初は単に発作が終わっただけかと思った。
が、違った。
そう——違うのだ。
いつもの、一過性のものがただ去っただけで根本の原因がまだ底に淀んでいるとわかる、あのすっきりしない感じとは。
全身を蝕んでいた魔力の不調が綺麗に消えている。
身体の奥底にこびりついた落ちない汚れのような澱が、すべて洗い流されている。これは——片角が折れておらず背中の魔力翼根も封印されていなかった頃の、健やかだった頃の感覚と同じ。
焦点の定まった視線に映ったのはクライズだった。
彼の腕に抱きかかえられ、下から見上げる彼の顔——そしてその背後に見えるものに、エメは目を見開く。
「そ、れ……」
クライズの背に、羽が生えていた。
ただし一枚だけ——つまりは、比翼。
それはまるで、骨を砕いたように白い。
ちりちりと外気に溶けながら縒れ合っては浮かぶ、煙にも砂にも似た細かな粒の集合体。
翼状に細長く広がる、背から発露する魔力の塊。
色こそ違えど、エメのよく見知ったものとよく似ている。
三年前まで自分も生やすことができた——魔族の、魔力翼に。
「エメのせいじゃない」
クライズは言った。
毅然と、それでいて優しく。
倒れる前に口にしたエメの言葉——「わたしのせいなの」という自責への、強い否定だった。
「十七年前。魔王の元から逃げた時、テレサかあさんはふたりの子供を連れていたんだって」
「ふた、り?」
「ひとりは自分の娘。父親と同じ『祝福』を持った、エメリルアという名前の赤ちゃん。それからもうひとり……あいつが行わせていた実験の結果生まれた、エメリルアのひとつ歳上の男の子」
「実験……?」
「僕は、魔族と只人族の、混血種だ」
「そん、な」
信じられない、と思った。
違う種族の間に子供はできない。それは常識で、だからこそそれぞれの人類種は血を混じり合わせることなく、種族の特質を連綿と子孫に繋げてきた。
でも、彼の言葉が事実だとしたら。
「ごく稀に子供が生まれることがあるらしい。そしてその合いの子は、両親の種族形質をごちゃごちゃにした特異な能力を持つ。……まるで『祝福』みたいな」
クライズの頭に角はない。髪だって白い。外見はどこからどう見ても只人族だ。
ただ、その背中。
今まさに広がっているこれは、間違いなく魔力翼——白い、比翼の、只人族にはもちろんのこと、魔族にだってあり得ない色の、魔力翼。
「ごく稀に? ……でも、実験って、さっき」
「生まれるまで試した。そう聞いてる」
「……っ!!」
言葉の意味を理解し、呼吸が止まりそうになる。
試した。
孕むまで、生まれるまで。何度も試した。
きっといろんな組み合わせを、無理やり、成果が出るまで。
「僕は親の顔を知らない。たぶん母親が只人族で父親が魔族だとは思うけど……どんな人かも知らない。生まれてからは城のどこかで餌を与えられていたそうだ。それをテレサかあさんが逃げる時に、エメと一緒に連れ出してくれた」
「いつ、知ったの? クライズは、それを」
「村が焼かれたあと。エメたちとはぐれて、襲ってきた魔物からなんとか逃げて……逃げた先でルルゥと再会して、その時にあいつから聞かされた」
「そん、な……わたし」
自分の境遇を、生い立ちを知って、クライズはどんな気持ちになったのだろう。
魔族と只人の混血種。本来なら生まれるはずのない存在。
実験と呼ぶにもおぞましい、ひたすら繰り返される強姦の結果作られた子供——。
そして、それを指示したのは。
「エメのせいじゃない。さっき言ったけど、何度でも言うよ。エメのせいじゃない。エメに責任はない……きみは、なにも悪いことはしていない。きみのせいだなんてこの世の誰にも絶対に言わせない。エメにもだ」
クライズの視線は眩しいくらいに真っ直ぐだった。
村で一緒に育っていた時の、弱気で内気なおどおどとした彼ではなく。
再会した時に感じた、昏く濁った泥水の底みたいな眼ではなく。
ただエメだけを見て、エメのことだけを考えて、エメのことだけを愛して、エメのすべてを受け入れて受け止める——そんな決意と覚悟に魂を焼べた、少年の顔をしていた。
「それに、僕がこんなふうに生まれてきたのも、悪いことだけじゃなかった」
彼は笑う。
エメの身体を優しく抱きかかえながら。
「身体の調子はどう? もう大丈夫だよ。エメの魔力を整えて、淀みを全部取り去ったから。これからも定期的に処置するから『停滞病』の発作は二度と起きない」
そっと、頬に手を添えながら。
背中の白い比翼を、わずかに揺らしながら。
「『魔力同調』。僕の持っている『祝福』だ……無理やり作られたものだから、本当に『祝福』と言っていいかはわからないけど」
「同調……?」
「僕は、自分の魔力波長を自由に調整できる。外界魔力と一体化させることも、他人の体内魔力に溶け込ませることも。……僕の魔力波長をエメと同調させて、僕の側から循環を正常化させたんだ。要するに、折れた角の代わりをした」
驚きで、思わず目を見開く。
魔力にはそれぞれ固有の波長があって、それはある程度なら自分の意思で変えられるものだ。だが、他人のものと完全に同調させるなんてこと——いや、だからこそ『祝福』に等しいのか。
或いはそれは、混血だからこそできることなのかもしれない。
ふたつの種族の血を混じらせるのと、自分と他人との魔力を同調させる行為はどこか似ている。
——たとえそれが、おぞましい試みの結果生まれたものであっても。
「どんな経緯で生まれてきたかは関係ない。僕の存在には意味があるんだ。僕の力はエメ、きみのためにある。きみがいなきゃ、僕の存在に意味なんてない。だから同じだ、同じなんだよ」
「くらい、ず」
名を呼ぶと、唇が震える。
声にならない、言葉にならない。
彼がなにを言いたいのか、なにを伝えたいのかがわかる。
体温と一緒に、同調した魔力と一緒に、想いが伝わってくる——。
「きみがどんな生まれだろうと、きみの存在には意味がある。僕の隣にはずっときみがいた。テレサかあさんに救ってもらった時からずっと、きみがいた。エメ、きみは僕の……こんな僕の、生きる理由なんだ」
ああ、やめて。
おねがいだから、やめて。
「『私のせい』なんかじゃない。『きみのおかげ』なんだ。エメ……ありがとう、生まれてきてくれて。僕と一緒に育ってくれて」
私に、死ぬことを諦めさせるのは。
私に、生きたいって思わせるのは。
「生きていてくれて、ありがとう」
私の罪を包み込んでくれるのは。
私の欲しい言葉を——くれるのは。
「ごめんね、遅くなって……村が燃えたあの日から、七年もかかった」
再会したあの日、同じことを彼は言った。
—— 七年もかかった。やっと見付けた、と。
「おそくなんて……ないよ」
エメは泣きじゃくりながらクライズの胸にすがりつき、赤ん坊のようにいやいやをしながら言った。
いいのだろうか。
こんなにも罪深い自分が。
魔王の娘に生まれ、魔王と同じ才覚を持っていたばかりに、母をはじめとしたたくさんの人を巻き込んで。あまつさえ一時とはいえ、父を慕い魔王になろうとまでした自分が。
こんなふうに、愛しい人の胸に抱かれてもいいのだろうか。
嬉しくて泣いても、いいのかな——。
「エメ、大好きだよ。もう二度と離さない」
クライズは言う。
エメは嗚咽のあまり返事ができない。
けれど同調した魔力と抱き合う体温は、言葉を交わすよりも強く、ふたりの気持ちを通じ合わせる。




