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短編集 いろいろ

堕天使の転職

作者: 鉛風船

 とある未来のお話である。

 産婦人科にある夫婦が来ていた。彼らは仲睦まじげに互いの手を取りながら、四ヶ月後に生まれてくる天使の話を、さも楽しげに話している。

 名前は何にしよう……どちらに似ているだろうか……と幸福に包まれた彼らの周りには、周囲まで幸福にしてしまうかのような不思議なオーラが出ていた。

 丁度そこへ医者がやって来た。医者は天使を写したエコー写真を何枚かと、クリップボードに留められたカルテを持っていた。


「お腹の天使の様子はどうでしょうか?」


 満面の笑みの夫妻はエコー写真を早く見たい一心で医者に尋ねた。しかし、夫妻とは裏腹に医者は、口元を引き結び、じっと何かを考えている様子だった。


「お医者様?」


「……お腹の天使は大変元気であります。平均的な体重より軽めですが問題はないでしょう。ですが……」


 医者の何か言いたげな表情に夫妻の顔色も曇り始める。取り合う両手に力が入り、医者は居住まいをただした。

 それは無言の詰問であった。医者はそれを理解していた。これから伝えねばならない事実は確実に夫妻の笑みを掻き消す。故にあえて言い淀み、間を作って夫妻に覚悟をする時間を与えたのだ。

 婦人は力みすぎて真っ白になった唇を、更にキッとすぼめた。夫の方は少しばかり覚悟が出来ていると見え、じっと医者の口から何が宣言されるのかと目線を離さない。


「……ですが、何でしょうか? 何か不味いことでもあるのでしょうか?」


 痺れを切らした夫がその続きを促す。


「いえ、不味いなんてとんでも御座いません。新しく生まれる命はどれも尊く、崇高なものです」


「だとしたらどうして……?」


「ええ、非常に言いにくいのですが――お腹の天使には堕天の兆候現れています」


「……一緒に暮らすことは……?」


「難しいでしょう――」


 その瞬間、婦人は大きく息を吸ったかと思うと、ふらりと夫の肩に垂れかかった。夫も呆然と婦人の手を握り、しかし多少の覚悟が出来ていた彼は、最後のところで踏み留まると、婦人の背中を優しく撫でた。

 医者は下唇を噛んだ。夫妻の不安は痛いほど理解できた。長年の経験上このようなことは幾度か経験している。その都度、彼は事実を告げてきた。時には冷酷だと罵られもした。だが、それも仕事だと割り切りここまで来た。

 医者は慰めの言葉を掛けなかった。彼は知っている。この不安を乗り越えるのは夫婦の絆しかないことを知っている。静かに瞼を閉じ、婦人の嗚咽をいつまでも聞いていた。

 やがて、その嗚咽の声も落ち着いてきた。夫が婦人の背中を擦る衣擦れの音だけが医者の耳に届いた。頃合いだろう、と医者は判断し目を開けるとカルテとペンを手に取った。


「……私はこれからお二人にとって大変厳しいことを言います。ですが、最後まで聞いてください。そうして判断してください」


「……分かりました。こうなったのも何かの縁なのかもしれません。しっかと聞き留めます」


「ありがとう御座います」


 医者は再び大きく息を吸った。


「お二人はお腹の天使を如何しますか?」


 その言葉が言い終わらないうちに婦人は大粒の涙を落として泣き出した。お腹を擦りながら夫の肩に顔を埋める。愛しい我が子を守る母親は何処までも清浄に見えた。答えを言わずとも彼女の覚悟は伝わった。


「私がこの天使を守ります。ねぇ……あなた?」


 いつの間にか夫は婦人の背中を擦るのを止め、代わりに婦人の肩を抱き寄せている。その手には先程までの愛情とは違う、奇妙な現実感を伴った形容しがたい何かが表れていた。


「とても言いにくいが……僕はその天使を堕胎させたほうがいいと思う」


「……まあ! どうしてそのようなことを……!? 私たちの天使じゃあないの……! ねぇ――あなた? 今の言葉は嘘だと言って?」


「……嘘でこんなことが言えるか……僕は至って真剣だ。よく考えてみろ――堕天した天使を育てるのに幾ら掛かると思っている? 入院代だけじゃあない。もしかしたらずっと外に出られないかもしれない……何回も手術をしなければならないのかもしれない……! 僕たちにそこまで出来る余裕があるか!?」


「そんなこと後で考えればいいのよ。命を殺すことなんて私には出来ないわ! 仮に今回堕胎したとして、私はどんな顔をして次の天使を迎えればいいの? ねぇ……教えてください、あなた――」


「……それは……非常に難しい質問だ……僕には、時間が癒すとはとてもじゃないが言えない……だが、生まれてきた子がずっと病院で暮らすのでは……と考えてしまうと怖くて堪らないんだ……! この先に待っているのは破滅だよ……お金が幾らあっても足りない……沼だ」


「酷い! まるで私の天使が既に堕天使みたいなことを言うのねっ! 天使よ! この子は天使よ! どんな子であろうと私の子は天使なのよ!」


 婦人が肩に添えられた夫の手を振りほどいた。


「そんなことは言われずとも知っている! 君のお腹の中にい子は天使だ!」


「だったら尚更よ――!」


「これだけは言いたくなかった……言いたくなかったんだ……この言葉だけは……だが、言うしかあるまい……『現実を見ろ』! 望んだものが簡単に手に入らないことは君だって知っているだろう――! 何度も望んで……足掻いて……ようやく手に入るものだと知っているはずだろう……堕天の兆候が出たら……もう駄目なんだ……」


「望んだもの……って、それはあなたが望んだものでしょう!? 私の望みにはあなたのおぞましい考えなんてないわ! 私はただ、私たちの天使を抱きたいだけよ……母親の愛情を注ぎたいだけなの!」


「――ずっと病院にいたら愛情を注げるのか? 天使は愛情を必要としている……それを入院費や手術代を稼ぎながら注げるのか? 僕はそうは思えない。きっと悲しいはずだ……寂しいはずだ。外の鮮やかな景色を見ることしか出来ない人生に愛情があるとは思えない……! 僕は絵画の中の人物の心境を今理解した……!」


 夫妻の議論は白熱していった。両方の目には大粒の涙が浮かんでいる。その声は大変響くものだったが、医者はあえてそれを止めようとせずに、ままにさせていた。

 心を打たれたのだ。医者は夫妻の天使への方向性が違うものの深い愛情に、うっすらと涙すら浮かべていた。聞く人が聞けば、婦人の愛情こそ真の愛情だと言う人もいるだろう。宿った命の重みを身を以て感じている婦人に励ましの言葉を送り、夫へ心ない言葉を浴びせるかもしれない。

 しかし、それは違う。医者は断言できた。命は尊い。それは前提として揺らぐことはない。だが、その尊さを存分に享受し提供出来る環境を整えてあげ、そしてそれが出来ないなら見送ることも愛情とは言えないだろうか。

 涙ぐむ目頭を裾で拭い、医者はカルテを一枚捲った。その下には『天使に転職』という団体への紹介状があった。


「お二人とも――! 一度お席にご着席ください。お二人の愛情は痛いほど伝わりました。ですので、一度、ご着席ください」


「どうしてよ!?」


「これは僕らの問題だから口を挟まないでもらえると助かる!」


「――ですから、その問題の解決策を提示しようとしているのです」


「何?」


「なんですって?」


 二人は豆鉄砲でも喰らったかのような顔をして呆けていた。むべなるかな、二つに一つの選択肢に、もう一つの選択肢を加えようとしているのだ。夫妻は互いに顔を見合わせて、何事かを見交わすと着席した。


「まずはこちらを――」


 医者はカルテの下にある紹介状を夫妻に見せた。


「『天使に転職』? 何ですかこれは?」


「一言で言ってしまうと『デザインエンジェル』をしてくれる業者への紹介状です」


「『デザインエンジェル』……ですか」


「認可されたのはほんのつい最近です。安心してください。これでお腹のお子さんを救えます。こちらの業者は国が許可した特別な業者でして、更にこの病院とも密な提携を結んでいるので――」


「ちょっと待ってくれ……」


「はい?」


「ならば、どうして僕らを争わせるようなことをしたんだ?」


「そうよ――! 主人とこんな争いまでして――」


 何をさせたいんだ……夫妻の顔にはありありとそう書かれている。


「それは、お二人のお子さんへの愛情を確かめるためです。こればっかりは仕方がありません。国が決めていることですので……」


 医者はそう言うと紹介状の更に下に挟まれている一枚の紙を取り出し、それを夫妻に渡した。

 それには、


『あなた方夫妻は、天使に完璧な愛情を示し、見事テストに合格しました。

 天使は親の愛情を必要としています。十全な愛情を注げる準備をしましょう

 これからの未来、堕天使はもう存在しません。明るい明日へ進んでいきましょう』


 と書かれていた。


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