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後編が始まるよ。

 結論から言うと、M君の新しい手綱は効果覿面だった。電話にもきちんと出るし、留守電サービスに切り替わったときでも、用件を残しておけばアクションがあった。一般公開用の連絡先とやり取りしていたときとは、ストレスも必要時間も雲泥の差で圧縮された。あのM君を手懐けた(という表現はもちろんされていない)ということで、僕の社内での評判も右肩上がりだった。

 ガタが来たのは、何ヶ月か経った頃だった。

「お前さあ」

 都心で喫煙者は肩が狭い。辛うじて残されたような小さな喫煙コーナーで煙を燻らせていると、先輩の薬師やくしが不機嫌そうに声をかけてきた。先輩と言っても年は同じで、どうも僕と同じ邪気眼の餌食となりこの事務所に所属してしまったらしく、そういうわけでかつてM君のマネージャーをしていたとのことで、僕に目をかけてくれる可哀想な人だ。同じ被害者だし、年も同じだし気さくにして欲しいと本気めの顔で言われたので、僕は素直に甘えている。それに、そこそこウマも合う。

「あのガキ、だいぶまともになってきてんな」

 不機嫌さとも文脈とも繋がりかねる一言だった。僕が黙っていると、薬師は僕の胸ポケットから勝手に煙草を引き抜いた。手を出される前にライターを差し出した。

 薬師がなにを言い出すのか、想像はついていた。僕はまたも無言で煙を吐き出した。

「で、最近はなんなんだ? 反抗期か?」

「そうなんじゃない? 普通の家庭なら親をシカトし通したりする時期だし」

「シカトする親がいなくて、友達じゃなく保護者的ポジションで年上のお前だけに教えてる秘密のツールがあるなら、そりゃ矛先はお前に向くわな。さっさと辞退して正解だったな、ガキのお守り」

 言い方は汚いけど、僕への労いが滲んでいた。僕以外には伝わらない慰労である。

 頭痛がする思いだった。何度も確認したスマートフォンの着信履歴に、もう一度目を滑らせた。今日の夕方からの仕事でどうしても打ち合わせたいことがあるのに、昼3時を過ぎた今もまだM君と連絡がつかなかった。家にも当然いなかった。

「SNSは? なんか更新してねーの」

「やってないよ。どうにかして始めさせろってお達しだけど、面倒だからやりたくないの一点張り。いちいち写真撮ったりもしないし、パズルのほうが好きだって」

「あらゆる意味合いで天然記念物級のガキだな」

「やることだけはやってるのに」

「なんて?」

「なんでもない」

 そんなことより、どうにかしてM君を捕まえなければ。僕への影響はともかく仕事に支障を来したことはないので、時間になればひょっこり現れるのだと思う。前みたいに連絡が取りづらくなっただけで、あからさまに態度で示されたり、不要な嫌味を言われたりといったことはまったくない。会えばいつでもいつもと同じで、軽い口調でまたあのパフェが食べたいなどと言うくらいである。

 そのパフェが出てくる場所で、もう一度話そうか。とりあえずスケジュールは問題なくこなすのだから、その前後に提案でも。

「煙草」

 打算していたところに横槍だった。胸ポケットから抜いて箱ごと差し出すと、薬師は違うと言って受け取らなかった。

「あのガキ、最近煙草始めたか?」

「は?」

「俺が担当してた頃はしてなかったけど。俺もガキの前では一応吸わないようにしてたし」

「なにそれ。なんで急にそんなこと訊くんだよ」

「誰かと話してるの見た。目がありすぎて簡単には無理だって。でも自分の部屋では臭いがどうのこうの。これ煙草だろ」

「そんなこと昨日言ってなかった」

「言うわけねーだろ。あれだって周りに誰もいないと思ったから話してたんだろ」

「どこで?」

「何日か前に事務所のほうで。なんか用事があったんだろ。面白味のないつまらんスマホで話してた」

 つまり一般公開用のスマホである。いても立ってもいられなくなり、また僕はM君のもうひとつの番号を鳴らした。やっぱり出なかった。反抗期の高校生が煙草を吸うことは間々あるとしても、M君はまずい。しかもたまたま誰もいなかったからと言って、まあ実際には薬師の目があったわけだけど、不用意にそんなことを喋る危機感のなさが実にM君らしい。

 どこか行きそうなところ、と考えかけたときだった。薬師にまたストップをかけられた。

「お前さ、もうアレに関わるのやめたら?」

 心底面倒臭そうに、薬師は煙草の火を消した。

「何日か黙ってたのも、すぐに言うより遅れて発覚したほうが騒ぎになって、巻き込まれてお前のほうから嫌になるだろと思ったからなんだけど。そうなったら、この事務所もちょっとめんどいけどな。でも、よく考えたら、名前通りくっそ純情なお前がアレを放置するとも思えなくなってきた」

「関わるのやめるって、ここを辞めるってこと?」

「そうじゃなくて、俺みたいに部署を変えてもらうんだよ。どこも人手不足なんだから、嫌だと言われてすぐさようならってことにはならない。それは保障できる。だから騒ぎになる前にやめとけ。なにがそうさせてんのかわかんねーけど、あいつどうしようもねーよ。一時だけど近くにいたから、なんとなくわかる」

「言うこと聞いてくれるようになってたんだよ」

「そこだよ。そこがまさにどうしようもない。完全に自己中心的ってわけじゃないところ」

「意味わかんないよ。だから正せるんじゃない? 間違ってることは間違ってるって教えてあげないと」

 薄く空気を濁らせ、薬師は口を噤んだ。

 再びスマートフォンに目を落とした。時間はどんどん過ぎ去り、相変わらず折り返しはなかった。

 M君が行きそうなところ、と考えてひとつ閃いた。漠然としているけど、思いつくのはひとまずそこしかなかった。もし本当にM君が煙草を吸い始めたとしたら、尚更説明がつく場所が。

「ごめん、薬師。行くとこあるから」

「正常な判断しろよ、尽」

 薬師の声を背中で聞き流した。喫煙所を離れ、僕はすぐに車のエンジンをかけた。

 


 残念ながら、僕の収入ではカーナビを導入することは叶わなかった。スマートフォンで地道に検索し、やっとそれらしき建造物を見つけ出した。有楽町の廃ビル。近くの有料駐車場に車を置いて、僕はそのビルを見上げた。高さは目視で10階くらい。灰色に薄汚れた壁面やゴシック調の黒字が半分消えかかった看板から、意図的に世界から置き捨てられたような、陽が高いというのになんとも言えない異質なオーラを纏ったビルだった。

 如何にもやんちゃな若者が入り浸りそうな雰囲気だけど、特に気配がないのはまだ明るいからだろうか。念のため、僕はもう一度M君の番号を呼び出した。

「尽だけど。有楽町の廃ビルの前に来てるんだけど、もしかしてここにいたりしない?」

 留守電サービスに切り替わったので、とりあえず言ってみた。ちょっと迷ったけど、結局通話状態を維持したままビルの観音扉に手をかけた。鍵が壊れているらしく、すんなりと開いた。

 一気に外の陽気と隔離された。薄暗く、心なしか肌寒く、アットホームさを演出したかったのか、木目をわざと模様化させている内装が一層埃と黴の臭いを引き立たせていた。

「入ってみた。もしこれを聞いたら」

『ピンポンピンポーン! 大正解! 第一関門クリアー!』

 いきなり甲高く響き、反射で耳から手を遠ざけた。が、すぐにまた近づけた。

「M君、やっぱここにいる? ていうかなにしてるの? ずっと連絡してたのに」

 通話口の向こうで、M君は楽しそうな声をあげていた。凄まじくミスマッチな感情に、唐突に背筋が冷えた。足が止まった。ここまで手間をかけさせておいて、悪意の欠片も感じられなかった。

『想太君なら来てくれるんじゃないかと思ってたよ。だって真剣に俺の話聞いてくれてたの、想太君だけなんだもんね』

「どこにいるの? ちょっと話さない? パフェ、今度はちゃんと奢るから」

『階段わかる? 前まで来て』

 一方的な話し口に、腹が少し煮えた。一旦堪えて階段を探し、四角く螺旋を描いたようなそれを僕は見上げた。

「来たけど」

『上がって』

「何階?」

『7階』

「7階!?」

 スマートフォンを眼前に持ってきた。夕方4時を少し過ぎていた。

「遊んでる時間ないよ。ていうか7階まで階段なんてきついよ。エレベーターじゃダメ?」

『ここ廃墟と同じだよ。都会の廃墟。電気なんか使えない』

「じゃあM君が下りてきて。煙草のことはとりあえず黙っとくから、心を入れ替えて前みたいないい子に」

『あー、それ。ちゃんと引っかかってくれたんだ。まあヒントのつもりだったし、無駄になんなくてよかったよ』

「……え?」

 聞き返すしかなかった。電子がかったM君の声がまた笑った。

『ねえねえ気になる? 攻める気になった?』

 正常な判断しろよ、と薬師の声が耳の奥で鳴った。もしかして今のこれが、薬師がM君から嗅ぎ取った「どうしようもない」なのだろうか。

「行く」

 いや、M君にだっていいところはある。わざとらしい木造りの一段目に足をかけ、僕は言っていた。

「次の現場に入らないといけないし。どんなに横着でも、M君は仕事に支障は来さない主義だよね。ってことは、待ってたら下りてくるのかもしれないけど、そしたら僕はM君の話を真剣に受け止めなかったってことになりそうだから」

『想太君って、本当に名前通りだよね。そういうとこ好き。じゃあ行こうか。電話切らないでね』

 よくわからないけど、とりあえず従っておくことにした。どっちにしても仕事には間に合わせるつもりみたいだから、ひとまずそれでいける。

『じゃあ最初の質問。俺のこの前のテストの平均点は?』

 1階を超えて狭い踊り場に出たとき、無言だった通話口から声がした。僕は驚き、答えるより先に周囲を見渡した。周りには誰もいなかった。次の階へと持ち上げていた足を一度下げた。

「M君、どこから見てる?」

『そんなことどうでもいいから答えてよ。テストの平均点』

「81点」

 テストのことが話に出る度に、M君のよくできた頭を僕は羨んでいた。そのちょっとした嫉妬心から、悪びれなく聞かされた平均点はしばらく記憶に残り続けている。

 M君は大仰に歓声を上げた。

『よくできました! じゃあ先に進もっか』

「これなんの遊び? 僕の記憶力を確かめてる?」

 2段目を踏んだとき、かちりと音がして踵が少し沈んだ。板が軋んだ音でも、まして割れた音でもなかった。振り返った頃、また声がした。

『違和感あっても確かめないで。とりあえず7階目指して。そしたら全部教えるから』

 なにか変な気がする。このまま進んでもいいものか、と疑念が胸に差した。それは正常な判断なのだろうか。

『やめる? 別にやめてもいいよ。想太君の意思を尊重する』

「……いや、やめない」

『そうこなくっちゃねー』

 正しい判断じゃない気がする。そう思ったからこそ、やめないことにした。M君は正せる。少し付き合う必要があるだけだ。その少しの必要を、大抵の人は阻むのだろう。薬師もきっとそのタイプだった。僕は違う。

『質問その2。終電までに帰って、俺が家でじっくり考えてたことは?』

「……人間関係の整理?」

『大正解! 覚えててくれて嬉しい!』

 3階へ続く踊り場を超えた。2段目にまた違和感があった。見るなと言うので、僕は足早に次の踊り場に出た。

『質問その3。俺が適当に遊んできたお姉さんたちの共通点とは?』

「え」

 そんな話はしていない。記憶を遡ってみたけど、絶対にしていなかった。というか、そういう経験論自体が未成年のM君には不適切なのだ。あってはいけないことだったと言ってもいい。

『文章問題みたいなもんだよ。直接話題にはしてなくても、話したことから読み取り可能』

 と言ってくるということは、話したことがあるけど僕が忘れているというわけでもないのだろう。M君と話してきたこと。質問の答えを導き出せそうな部分。

 気が付いた。今手にしている、まさにこれだ。一言答えるだけなのに、緊張して喉が渇いてきた。

「一般公開用で繋がった人」

 間があった。胸で急速に不安が膨れた。一般公開用とそうじゃない用で携帯電話を使い分けるということは、足る人かどうかを分類していたということではないのか。2つめとリンクした質問だと思ったのに。

『進んで』

 当たりともはずれとも言わず、M君は普通に言った。楽しそうでも悲しそうでもなかった。

 4階への階段2段目に足を置いたとき、突然無数の針が突き抜けたみたいな衝撃が全身に走った。情けない声を漏らして飛びのいた。その拍子に危うく階下に転落しそうになり、寸でのところで僕は手すりを掴んでいた。

 心臓がうるさく低く鳴っていた。嫌な汗が毛穴から浮かび、喉の奥が塩辛かった。真下の冷たく硬い床から、しばらく目を離せなかった。

 手からスマートフォンを落としていたことに、やっと気が付いた。踊り場の隅で、小さな画面が発光していた。

『ちゃんと持ってなきゃダメだよ。せっかく通話に影響出ないようにしてるのに、落として壊れたりしたら意味ないじゃん』

「ねえなに? 今のやつ。なんかすごく、階段上ろうとしたら、足から身体が」

 頭の悪い言い回しに、我ながら苛立った。でもほかに上手い言い方が見つからなかった。

「なんかびりって、痺れたみたいな」

『通電するようになってるからね。こっちから遠隔操作で信号をオンにしてる状態で、そっちでスイッチが入ればだけど』

 M君がなにを言っているのかわからなくて、僕はまた吹き抜けになっている真下に目をやった。文字通り風が抜き抜けるみたいに、すうっと地上1階が遠のいた。ふらりと足が退がり、力が抜けた。

『で、さっきの答えなんだけど、ちょっと迷ったけど×かなあ。結局どうでもいい奴のどうでもいい連れだったりして、連絡取りようのない人もいたし。ってことで正解は、俺にとってどうでもいい奴ってことで。ちょっと限定しすぎちゃったね、もっと柔軟に行こ』

「ねえちょっと待ってよ。なに言ってるの? 正解の定義が曖昧すぎるし、落ちるとこだったよ。こんな高さから落ちたら死んじゃうよ」

『んー、まあ、そうなったら残念だけどね』

 動揺を嘲るような軽々しい言い口が鼓膜をすり抜けた頃、ある想像が頭を擡げていた。絶対当たっていて欲しくない想像だった。でももう僕には、それが正解としか思えなかった。

「M君」

 階下に一目散の貫く穴と、壁しかない四方。不快な湿気と連動した臭気。どこを見漁っても、この位置を監視できそうなスペースは見当たらなかった。

「M君、どこから見てるの」

 鼓動がどんどん早くなる。低く大きく波打ち、リズムを乱して息を詰まらせた。電波を介した先で、M君はのんびりと綻んだ。

『落ち着いてよ。最初、階段の前に来てもらったでしょ。段の数は全部同じなんだから、見てなくても数えてればいいだけじゃん。踊り場に出たらクイズって基準で。ついでに言うと、俺と想太君は歩幅がほぼ同じだから、それも参考に。身長近いもんね』

「どこにいる?」

『7階だって』

「M君もしかして、僕をテストしてるの?」

 ――ちゃんと見極めしてきたつもりだけど、本当に俺と友達になってくれてもいいって思ってくれてて、俺が自分でもそう思える人がいるかもしれないし。

 一般公開用の連絡先を対象にM君がそう言ったことを、僕は前向きに解釈していた。前後は高校生らしくないにしろ、省みることができたのだから、これはいい傾向なのだと。

 一方的ではダメなのだ。M君自身が、その当人と繋がることを望まなければ。そう思った人間がいたとして、既に一般公開用のアドレスから昇格しているとして、その選択が見誤りでなかったかはわからない。正しい判断を下すには、試してみなければならない。

『俺ね、国語と社会も別に嫌いじゃないけど、概念とか感じ方とかじゃなく、常にはっきりした答えがある数学と理科のほうがとっつきやすいんだよね』

 パフェを突きながらM君が言いかけたことを、僕が遮った。彼がそのことを怒っている節はなかった。

『前のテストは物理がよかったんだよ。電気のあれこれなんだけど、前日に教科書読んでたら、なんとなく興味出てきてさ。専門書買ってきて眺めたりしてるうちに、電源って俺にも作れるんじゃないかと思って。ていうか作ってみたくて』

 黙考したところで知れている。名のあるM君になら、その名だけを目的に猫を被る人間もいる。そこをきっちり見分けるには、相手をできるだけ追い詰める必要がある。絵がどんどん組み上がる。

『なかなか合理的じゃない? やってみたいこともできたし、それをこうやってちゃんと目的のために応用できてるんだから』

 テスト前日に教科書を捲った程度で、教科平均80点超えをマークできるM君なら、僕なんかでは逆立ちしたって扱えない計算式を組み立てることだって可能だろう。じゃあ、この前突然秋葉原に行きたいと言い出したのは、実は突然でもなんでもなく、通電装置製作における材料調達の下見のためとでもいうのだろうか。その時点でもう、M君の中に、僕を試した成功例と失敗例が構築されていたとでも。

「M君」

『なに?』

 有楽町で見つけたというこの廃ビルも、あのとき話に出た時点で入ったことがあったのかもしれない。少し立ち入っただけなら期待がかった文脈でも筋は通るし、そうでなかったら薬師に煙草ネタを仕掛ける道理がない。M君は、僕に「話題になったことのある廃ビル」を連想させなければならなかったのだから。M君としては本当はそらで行き着いて欲しかったけれど、それだとあまりにも難易度が高いから、自分が人目から隠れる場所を探しているという設定を追加したとすればヒント発言も説明できる。

 脳が四肢への命令回路を放棄したかのように、僕は動けなくなっていた。パズルは読解された。その配色に、頭が追いついていなかった。

『次に進む? 1回くらいの間違いはどうってことないよ。完全に理解してもらえないとやだなんて思ってないし、そこまでナルシーでもないし。俺だって想太君の知らないこと多いもん。気にしないで』

「なにしてるかわかってる? さっき、ちょっと足つく場所違ってたら、僕、死んでたんだよ」

『うん』

「事故死じゃないよ。M君が殺したことになる。それもわかってる?』

『わかってるよ。そうなったら残念だよね。言わなかったっけ』

 互いにまったく帳尻の合っていない会話をしているようだった。僕はなにも言えなくなり、返事がなくなりM君も黙った。7階のどこかで、暇を持て余して前髪をいじるM君の姿が容易に想像できた。

「僕の意思を尊重してくれるんだよね」

 声が震えそうになるのを、懸命に押し込めた。M君は通話口の先で頷いた。

『もちろん。定期テストじゃないからね。受けるか受けないかは自分で選べる』

「じゃあ、ここで棄権させてもらう」

 M君はなにも言わなかった。僕は必死に普通のトーンを意識した。

「訊くけど、これ、ほかに誰か試した?」

 やっぱりなにも言わないので、僕は勝手に続けた。

「はっきり言うよ。M君、おかしいよ。どうかしてる。上手く7階に辿り着けたとして、その人が本当に友達になってくれると思う? お手製の通電装置の上を歩かされて、否応なく命懸けさせられて。騙しておびき出した上にそんなことさせる人、M君は友達になりたい? 繋がってたいと思える?」

 M君はまだ無言だった。今どんな表情なのか、少し気になった。が、僕はまだ大事なことを言っていなかった。

「度を越しすぎてる。それなりの対処させてもらうから。夕方からの収録はなんとかする」

『なんとかって?』

「なしでいいってこと」

『俺に代われる?』

「そうじゃないよ。本当にわからないの?」

『わかんなくはないよ。こういうことだろうな、って想像はできる』

「じゃあ今すぐ下りてきて」

『でも、一緒に思うこともあってね。想太君って、やっぱり名前通りピュアなんだなって。和んじゃう』

 これ以上どうしようもない。いきなり警察に連絡するより、まずは事務所に。そう思ってプッシュしかけた直前、場違いに楽しげな口調で言い放たれたそれが気になった。通話口を再び耳に押しつけた。

『テストは棄権ってことだから、これは別物と考えてね。ピュアってつまりどういうこと?』

「え? なに?」

『ピュアと言ったら子どもだよね。じゃあ、なんで子どもはピュアだって感じるのかな。例えば、クリスマスにプレゼントをくれるのはサンタさんだって信じてたり、鬼を豆で撃退できると思ってたりするからじゃない?』

「なんの話? それと今とどんな関係があるの?」

『関係はないよ。あるのは共通点』

「だからなんの……」

 強めた語調から息が抜けた。冷静に考えてみれば、おかしいことがあった。各階段の2段目で鳴らしたあの音。通電の起動スイッチ。あれはどうやら、僕が質問に正確に答えられなかったときのペナルティらしい。それがどうしてペナルティになり得ると思ったのだろう。一度は踏んだとしても、正解としても不正解としても、2段目だけを飛ばして進めばなんの妨げにもならない。しかもその通電装置は、M君が仕掛けたものだ。僕がM君だったら、規則性に従って配置したりしない。いや、もっと大事なことがあった。配置なんてこの際どうでもいいと思えるくらい、重大なことが。

 急激に口の中の水分が飛んでいくようだった。通電装置そのものも、M君が自作したということは。

『物事を額面通りに受け取っちゃうっていう、可愛い共通点。ここまでの間に、想太君、きっといろんなこと考えたよね。じゃあこれは考えた? 板の下に仕掛けてあるスイッチなんだけど、どうしてそんなあからさまなスイッチの体を取ってるのか。ま、単なる思いつきなんだけどね。遊び心というか』

 当たっている気がする。もう声は出ず、まともな呼吸もできなかった。M君の笑った声が、じっとりと耳の奥に浸っていった。

『スイッチの体じゃないスイッチが、いっぱい仕掛けてあるってことだよ。具体的に言うと、常にオンの状態で固定してあるやつが』

 体内を巡る物質が、一挙に逆流した。汗でスマートフォンが滑り落ちるのを持ち堪えた。

『大丈夫、安心して。今こっちで信号オフにしてるからさ。テストは棄権ってことだし、早く引き返しなよ』

「そこにいて」

『なんで? 下りるよ。だってもう行かなきゃ』

「仕事に? だからいいって。君はどこにも出るべきじゃない」

『いやだからなんで? 俺は仕事には支障来さない主義なの。だから』

 通話を切った。表示された時刻が視界のど真ん中にきた。24時計測、秒数単位で現れる時列は、僕がここに来てまだ20分程度と示していた。

 M君からの着信で、スマートフォンが震えていた。これが鳴っている間は、通電装置の信号をオンにされることはないはずだ。切れないうちにと立ち上がった。勢い余ってつんのめり、横の手すりに掌をついた。指が一拍ずれて曲がった。一度遠のいた真下の床が、目元にすうっと引き寄せられた。


お疲れさまでした。

どうもありがとうございました。


初期プロットでは遊びながらやっちゃったので、他意がないだけこっちのほうが怖いかと。

あくまで事故なんですよ。


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