山南敬助
京の町は民家が密集しており、雅な琴の音色がいつも空を舞い、涼し気な鳥の声が庭から聞こえるような、まさにこの世の極楽だろうと勝手に思い込んでいた。しかし京にもピンキリがあるらしく、あたりには小さな建物しかない。少なくともここ、壬生村は極楽ではないようだ。
そんな村で一軒だけのんびりと足を延ばしている家屋がある。八木源之丞と呼ばれる男の屋敷である。
その八木家の屋敷は、このところ朝から夜まで騒がしい。
朝は若者たちが大声で剣術の稽古をし、夜はその疲れを癒すように月が沈むまで飲み明かし、また日が昇って大声で稽古をする。源之丞は「迷惑千万」といささか腹を立てていたのを覚えている。以前、山南さんと金を払って謝ったのだ。
「悪いのは我ら壬生浪士組だ。どれ、私が謝りに行って来よう」
そう近藤局長が言い出したのだが、隣に座っていた土方副長が「だめだ」と跳ね返した。
「近藤さん、そりゃ大将のする仕事じゃない。山南さん、他に隊士を二、三人連れて行ってくれないか」
要するに貧乏くじを押し付けたのだが、山南さんはこういう役でも常に笑みを浮かべて「承知しました」と頭を下げる。その度、隣に座っている親友の大男と「山南総長は仏だな」と笑いあうのだ。
「では……誰か、私について来てくれるかな」
と、山南さんが隊士の顔を見渡した。
隊士たちはみな面倒ごとにはかかわりたくないらしく、山南さんと視線を合わせないように床板を必死に見つめている。
仕方なく山南さんが幹部の皆様に目を向けると、流石幹部、やることが違う。
無視するのではなく、口答えを始めた。
「俺はいかん。そういうのは本人がやってこそ、相手に誠意が伝わる」
「そうだ。どうして芹沢たちのどんちゃん騒ぎの謝罪を、俺たちがやらなきゃならねえんだ」
と、永倉さんと原田さんが顔を見合わせて「なあ」と言い合った。微妙に意見が食い違っている。
永倉さんはともかく、原田さんはどんちゃん騒ぎに参加していたではないかと思うのだが、むしろその方が面と向かって謝るのが気まずいのだろう。
すると俺よりも小柄で年下の先生方が口を開いた。
「芹沢さんたちに行かせましょうよー。なんで私たちが謝らなきゃいけないんですか?」
沖田総司先生は、この中でもとびっきり子供っぽい。皆おとなしく正座しているのが礼儀だというのに、この人はいつも五分もすれば、いつの間にかあぐらをかいてぼんやり近藤局長や土方副長の話を聞いている。しかしそれで誰も叱らないのは、やはり彼がこの中で最も腕が経つ剣士であるからだ。
「沖田さん、一応は浪士組である僕らの不手際ですから、謝るのも大事な務めですよ」
「あ、山南さん。平助がこう言ってるから、こいつ連れて行ってくださいよ」
藤堂先生が「やらかした」と口を「い」の形にする。なんだ、自分も嫌なんじゃないか。
とはいえ藤堂先生は、沖田先生より年下だが、言うことやることが大人びている。しかも彼だって先生だ、俺より何倍も刀だって扱える。将来はこういう人が、国を変えていくのだろう。
「……私、行きましょうか」
と、今度はやけに顔の老けた先生が手を上げた。井上先生だ。最年少の藤堂さんに対して、井上先生は最年長である。浪士組は“若者の集まり”といった感じの集団なのだが、その中でほうれい線の目立つ井上先生はやはり浮いている。
「皆名乗り出ませんし……何なら山南さんの代わりに私が行っても……」
「げ、源三郎さん、結構です、私が行きますから」
山南三の言葉に、井上先生が心細い笑みを浮かべる。
「そうですか……それなら、いいんですが……」
井上先生は気は優しいんだが、自分で背負い込もうとする気が強すぎて、結果的に周りから更に浮いてしまうことがある。今日もそれだ。
「では、せめてお金ぐらいは私が払いますよ……! 財布の中を空にしてでも……!」
「源さん。これから近藤さんは市中の見回りに出られる。お供をしてあげてください」
土方副長はこういうのがお上手だ。井上先生も黙ってうなずいている。
さすがの仏・山南さんも疲れたのか、今度は隊士一同の方を見た。
皆再び視線を逸らすが、その中で一人突然手を上げた人物がいる。
「俺、行きますよ! 山南さん!!」
大親友の大男・島田だ。正義感の人一倍強いこの男は「町の皆さんを守りたい」と浪士組に入隊した男であり、なぜこの男と自分が仲がいいのか自分でもよくわからない。
しかし島田が手を上げてくれたのは一同安心したらしく、「では」と山南さんもニコニコしている。
「これは助かるなあ。島田君、尾関君を連れて、あとで私の部屋に来てくれ」
「うっす!! わっかりましたァ!!」
…………俺の名前は尾関雅次郎。壬生浪士組の隊士である。
山南さんの部屋は、幹部のみなさんの中でも一番狭い。幹部にはそれぞれ一人一部屋が与えられているのだが、山南さんは開口一番「ここにしてください」と一番狭い部屋を指さしたんだとか。
島田は俺の肩をたたきながら豪快に笑っている。
「いやあ、よく意地をみせたな! さすが、おめぇには人にねえもんがあるよ!」
「剣術もろくにできないのにか」
「俺だって出来ねえよ! 沖田さんや永倉さんと比べるのは野暮ってもんだぜ!!」
いや、こいつは違う。こいつは剣が無くても戦える。
この前、昼間から女を襲っていた男を取り押さえたとき、俺がその辺の石やらを投げている隣で、こいつは男三人を次々と投げ飛ばし、踏みつけて、あっという間に捕えてしまったのだ。
それにこいつは斬り合いをするときも、他の隊士では動けなくなるような大きな重い鎧を着こんで、その鎧を鈍器代わりに殴ったり蹴ったり暴れるので、実質こいつに剣術はいらないと言ってもいい。
比べて俺は、まったくできない。
初めて木刀を握ったのは、ここに入隊するときの審査として山南さん審査の元、永倉さんと模擬試合を行った時である。
剣術はとんでもない人が集まったと聞いていたので、すぐに頭に木刀を叩きつけられると思っていた俺は、始まるや否やそれを警戒して永倉さんの動きをじっと観察していた。
しかし、これは永倉さんが特異なのか上手い人間は皆そうなのか知らないが、永倉さんは岩のように固まったまま、じっと動かなかった。
だがこれにつられてはいけない、俺の油断を誘っているのだ。これは我慢比べと同じだ。
同じくジッとしていると、立会人の山南さんが「くぁあ」とあくびをする声が右耳に入った。
と、次の瞬間。
永倉さんの右足が、スッと前へ出た。
おそらく山南さんのあくびで「早く倒さねば」という気になったのだろう。ならば俺は永倉さんが来ないところによければいい。そして隙あらば頭に木刀をくらわせてやる。
左足で地面を蹴り、避けようとしたその時だった。
永倉さんのギロッとした目を見つめていたと思ったら、いつの間にか視界が空色に代わっていた。
はて、どこかで昼寝でもしていたのだろうか。遠くの方で誰かの話声が聞こえる。
すると視界に山南さんがひょっこり現れ、俺を起こしてくれた。
「あーあー、大丈夫かい? 永倉君、素人の頭をこんなに強く打って、下手をすると木刀でも死んでしまうよ」
そうか、俺は高速で永倉さんに面を取られたのだ。
慌てて起き上がると、すでに永倉さんは山南さんの座っていた縁側に腰を下ろして茶を飲んでいる。
「弱すぎる。ここに入るのは無理だ」
「おいおい永倉君、決めるのは君じゃないだろう?」
「じゃあこれが近藤さん、芹沢さん、新見さんの総意だ」
茶を飲み終わった永倉さんは、部屋に戻ろうと立ち上がり、ふとこちらを向いて俺の顔にまたギロリと視線を送る。
「何故そうまで言われるんだ、という顔だ」
「……い、いえ別に」
と、ここまで言ったところで永倉さんが勝手に話し始める。思えばあの時から、自分が「こう」と思えば意見を全く変えようとしない人だった。
「剣の強さは、相手の初手でだいたいわかる。それを見極めるために、俺はわざと隙を作ってお前が動くのを待っていた。するとどうだ、お前は一切動こうとせず、とうとう山南さんがあくびをしてしまったじゃないか」
一応俺の推測は正しかったらしい。この勝負が山南さんのあくびが引き金になったということだけは。
「まあまあ、永倉君。一応は大したものじゃないか、我が試衛館で使われている木刀を簡単に扱えるなんて。木刀を極力真剣の重さに近づけているから、初心者は構えることすら難しいはずだ」
「以前は大工として働いていましたので、力にはちょいとばかし、自身がありまして」
と言っても永倉さんは聞こうともしない。
「知らん。力だけでどうにかなるなら、芹沢さんが天下を取ってる」
日本のために何かしたいと思い、ここへやってきたのだがこうしてコテンパンに言われればどうしようもない。仕方なく、俺は帰ることを決めた。
「待ちなさい」
山南さんの声だ。まさか、俺の気持ちが通じたのだろうか。
「頭を冷やしている手ぬぐい、返してから帰ってください」
痛みで感覚がマヒしていたのだろう。慌てて紺色の手拭いを手渡すと、山南さんはあっさりと「お疲れ様でした」とお辞儀した。
ああ、こりゃ駄目だ。やっぱり俺ごときが日本のために働くなんて、分不相応だったのだ。
するとその時、だんだら模様の羽織を着た若い色白の男が門を意気揚々と入ってきた。パッと見は若くて調子に乗っている新入りの隊士かと思ったのだが、山南さんも永倉さんも彼を見るとパッと顔を明るくする。
「やあ、ご機嫌ですね。完成したのですか?」
男は山南さんに向けて、女ならば一目で惚れてしまいそうな笑みをニッと浮かべてうなずいた。
永倉さんも「お」と声を上げ、はだしのまま男の前に駆けていく。
「さすが、仕事が早い。俺も山南さんも楽しみにしていたんだ」
「おいおい、世辞はよせ」
「俺が世辞を言える男か、素直に褒めているんだ。早く見せてくれ、土方さん」
この男が、壬生浪士組副長・土方歳三だった。
土方副長は抱えた漆塗りの薄い箱を置き、それを開く。すると鮮やかな赤い布がきれいに畳まれていた。
土方副長がそれを持って、勢いよく広げると、そこには金色の字で大きく「誠」と書かれている。
俺が入隊を志願したこの日は、浪士組の旗印が完成した日であったのだ。
思えば土方副長がこうして笑顔を見せることなど大変珍しいことであったのだが、山南さんは先ほどの笑顔というよりは苦笑いに近い顔をして旗を手にしている。
「土方君。……少々、大きすぎないかこの旗」
「あ、いいんだよ。でかい方が立派だろ」
土方副長は組のためならば我を忘れてまで奔走する節がある。そのため、この大の大人が両手両足を広げるよりも大きな旗を、張り切って作らせてしまったのだろう。
「立派だが、これを旗にするとなると相当な力が必要になってしまう。斬りかかられた時に、まともに戦えないよ」
土方副長は山南総長に図星をつかれるのを嫌う。というより、誰かに負けるのが嫌いなのだ。
山南さんが土方副長に理屈で勝てる数少ない人間であるがゆえに「土方さんは山南さんが嫌いなんだ」との噂もあるらしいが、例えば酒の席で原田さんが鯨のように酒を飲んでいた時は、負けじと何杯も酒を頼んで赤鬼のような顔色になっていたし、沖田先生が子供とかけっこをしていた時に通りかかった土方副長に向かって先生が軽口を叩いただけで、ムキになってかけっこの鬼として、沖田先生を追いかけまわしていた。
副長は誰を相手にしても意地になる。
なので今回も、土方副長は音もなく舌打ちのしぐさをした後、すぐに山南さんと言い合いになった。
「はいはい、先生のありがたい理屈はよーくわかりました。この前入った河合にでも持たせておきます」
「待ってくれ土方君、河合君は金銭管理として働いてくれているんだ。体力には自信がないんじゃないかな」
「……じゃあ、佐之助にでも持たせます。いつも槍を振り回してんだから、旗だって扱えるでしょ」
「いや、それとこれとは別だとおもうが……」
「そんなら自分でなんか考えろ!!!」
山南さんの損なところは、善意で言ったことが人によっては嫌味ったらしく聞こえてしまうところだ。
この時が、その典型だったのだろう。
俺にとっては、二人ともこの日が初対面だったが、早くも近寄りがたい空気が漂っていた。
止めるべきである永倉さんは二人がじゃれているように見えるのか、ほほえましそうに腕を組んで笑っている。明らかにそういう場面ではない。そういう場面だとしたら、土方副長はあんなに声を荒げてない。
山南さんはハッとしたように目を開くと「失礼」と屋敷の中へ入って行った。
「……どうしたんだ、山南さんは」
「武士のくせに逃げやがって。……切腹でもさせるか」
「はは、うちの副長は厳しいな」
土方副長と永倉さんが二人して笑っていると、山南さんは大男を連れていやってきた。
この時、俺はその大男に面識があった。いや、面識という以前に、俺の大親友の男・島田魁だ。
「彼はどうだい、土方君。島田君は力もあるし、旗持ちにはもってこいだ」
「…………先生のお好きにどうぞ」
土方副長がすねて山南さんに背を向けている。
「なんだい、君がこんな大きな旗をこさえたくせに、私任せかい」
「俺だってね、島田に頼もうと思ってたんだ。あんたに任せるわけじゃない」
しかしその時、とうの島田は顔を真っ青にして目を泳がせていた。
そして大声を上げて、山南さんと土方副長に土下座した。
はっきりと覚えている、この時土方副長が、まるで突如美女から結婚を迫られた時のように、笑みを含んだ驚きの表情をしていたことを。山南さんの策も駄目になったのがちょっと嬉しいのだろう。
いつも厳しげな顔をしているが、案外人間味がある人だ。
「すんません……!! 俺、この前局長から「監察」を任されまして……!!」
監察とは、浪士組内の風紀を取り締まるために隊士を監視したり、また町の平和を守るために不逞の輩を監視する役目である。
それを聞いたときは俺も驚いた。明らかに島田は戦闘要員だ、監察に向いているようには思わない。
だがその理由を聞いた途端、のどに引っかかった小骨が無くなるようにしっくりきた。
「実は、局長から「一番顔が怖い」と言われちまって……!! だから、俺が見張ってりゃ、誰も組の中から逃げはしねえだろうって……!!」
先生方も納得したのだろう、顔を見合わせてうなずいている。
するとここで、島田が俺に気付いた。彼は熊のような手をあげて「あ」と馬鹿でかい声を上げる。
「雅次郎!! お前、雅次郎じゃねえか!!」
土方副長が「知り合いか」と始めて俺の方を見た。
島田は縁側から飛び降りて、俺の肩を何度も何度も叩いてくる。見なくてもわかる、絶対腫れた。
「いやぁ、まさかお前も浪士組に入るのか!! お、でもなんだその頭のこぶ、あーわかった!! 永倉さんにやられたんだろ!? そうだろ!! そりゃあそうだって、お前が永倉さんに勝てるわけねえよ!!」
島田が子供のように飛び跳ねている。同郷の親友と出会ったのがよほどうれしいのだろう。
すると山南さんが「そうだ」と声を上げた。
「雅次郎君。君がこの旗を持ってみないかい?」
「え」
あまりに大きな声で驚いたので、土方副長が軽く俺の足を蹴った。
「やかましいな。おい山南さん、こいつは誰だ」
「先ほど来てくれたのですが、剣の腕が素人以下でして。ですが細身ながら、力は申し分ない。旗持ちにはもってこいですよ。どうですか、土方君、永倉君」
二人は顔を見合わせた後、同時に俺の方を見て、こくりとうなずく。
こうして、俺は旗持ちとして組に入った。その初仕事は、八木家の方への謝罪である。
謝罪に向かったのは、山南さんを筆頭に全部で四人。
河合耆三郎。島田魁。そして俺、尾関雅次郎だ。
実質、本気で謝罪の意を表しているのは山南さんと島田だけ。俺は連れてこられただけで、沖田先生の言うように芹沢局長らが行けばいいことだと思っているし、河合は、というと。
「河合君、芹沢さんたちの食事代と酒代、そして破いた障子代、あとは……割った壺代。ちゃんと持ったかい」
「持ちましたよ……全部で十七両……。こんなのに隊費を払っていいんですか……駄目だとおもうなぁ……土方さんに怒られないかなぁ……」
全然、乗り気ではない。いつも以上にげっそりとした顔で、包んだ七両を見つめている。
河合は勘定方という役割で組の金銭管理を行う役職なので、最近粗暴なふるまいの多い浪士組のもめごとには毎日のように駆り出されていた。そのため今回も「面倒なことに巻き込まれた」としか考えてないのだろう。
そして昼が来る前に、俺たちは源之丞に頭を下げた。
源之丞は俺たちの顔を見るまでは不機嫌そうだったが、山南さんの顔を見るとほっとしたように笑顔を見せた。
「この度は、隊士たちが迷惑をおかけいたしました。申し訳ございません」
「申し訳ございません!!!」
俺と河合は後から遅れて頭を下げた。
「いやいや、まあ別にええんどす。ただ、あんまりはしゃがれると、うちにまでしわ寄せがきますさかい、そこだけは気ぃ付けとくれやす」
山南さんが河合の目の前にあった包みを手に取り、それを源之丞に差し出す。
「今回の件、その場にいた源之丞さんが金を払ってくれたと聞きました。それにつきましても、申し訳ありません」
不思議と山南さんが話す度に、源之丞さんは笑顔になっていく気がする。
それからは謝罪というより、山南さんと源之丞さんの世間話のような流れになっていった。
「庭の梅が、綺麗に咲きましたね。見惚れてしまいました」
「近藤局長はいつも、八木家のみなさんのことを気にかけていますよ」
ちょっとした世間話の中でも、こうして浪士組の、特に自分たち試衛館のことを擁護するようなことを織り交ぜながら話すのだから、流石山南さんだ。
しかも山南さんの言葉は誰も疑わない。もし謝りに来て、同じことを言っているのが土方局長ならば、源之丞さんは「世事はええから帰れ」と言ったことだろう。
しばらくぼんやりと聞いているうちに、山南さんが「それでは」と頭を下げた。どうやら終わったようだ。
山南さんはパッと頭を上げると、すぐに部屋を出て行ってしまった。
「いやあ、やっぱり浪士組の親切者は、あん人やね」
後になって、このあたりで「親切者は山南、松原」と言われているのを知る。それもそのはず、山南さんは剣の腕も立つし、何より博識だ。
浪士組を陰から支えていたのは、間違いなくあの人だろう。
しかし如何せん、近頃の山南さんは忙しい。
浪士組の名を高めるために、土方副長が躍起になって仕事に取り組んでいるため、一緒になって山南さんの仕事も山積みになっていく。
源之丞に頭を下げてからすぐ、また外へ出向くことになっていた。
目的は、八木亭からほど遠くない場所にある商家・瀬戸屋を破落戸が襲っているらしく、その取り締まりである。
山南さんは俺と島田を連れ、足早に土方副長の部屋に向かった。河合は来なくていい、勘定方だもの。
副長の部屋に行くと、近藤局長を除く他の先生方が集まっていた。皆、土方副長や山南さんと同じく「試衛館」の門人である。
違うのは俺と島田と、壁にもたれかかって眠そうな顔をしている男だけだ。
土方副長は俺たち一同に目を通すと、右手の刀をドンと突いて注目を集める。
「聞いているとは思うが、近くの瀬戸屋をゆすりまがいの方法で金を出させているという、不逞の輩がいる。今日はそれを取り締まるぞ」
と、ここでまた沖田先生が土方副長に軽口をたたいた。
「そんなの私と平助ぐらいに任せてくれればいいじゃないですか。土方さん、最近妙にみんなと一緒にいたがりますよね、江戸の家が恋しいんですか?」
「あ、てめえちょっとこっち来い」
山南さんと井上先生が二人がかりで副長をなだめる。沖田先生はこの時もキャッキャと笑っていた。
「あのな、今俺たちがバラバラに行動したら、芹沢たちの思うつぼだ」
「ほら、土方さんは寂しんぼなんですよ」
二度目は、土方副長も沖田先生のことは放っておいた。
「そこでだ。俺たちが揃って行くことで、近藤一派と芹沢一派では、俺たちの方が上だってことを教えてやるんだ」
「なんだ、芹沢先生たちより人気が欲しいなんて、やっぱり寂しんぼですね」
「お前さっきからうるせえんだよ!!」
浪士組の中でも屈指の剣豪二人のじゃれあいは、はたから見れば鬼と龍の喧嘩にしか見えない。
試衛館の先生方が微笑ましく二人のやり取りを見ている中、俺と島田だけは冷や汗を流していた。
「土方君に総司。新入りの隊士の前で喧嘩はよしたらどうだい」
山南さんの言葉に、沖田さんは「はーい」と返事する。そして山南さんに注意されてバツが悪い顔をしている土方副長をにやにやと見て笑っている。
その頃、壁にもたれかかっていた男だけは、笑ったり汗を流したりはせず、ぼへーと天井を見上げていた。
藤堂先生がそれに気づいて、隣に座っている山南さんの肩をつんつんとつっついた。
「あの、知らない人が三人いるんですけど、どちら様ですか?」
山南さんは「ああ」とにっこり笑う。
「向かって左から、島田君、尾関君、そして斎藤君だ」
「ああ、沖田さんと同じくらい強い人ですね。修練の時に見てました」
おそらく島田の話だろう。俺は昨日ここに入ったばかりだし、この斎藤とかいうぼんやりした男が強いとは思えない。どうせ監察方だろう。
と、こんな時に助かるのが原田さんである。俺たちが思っても言いにくいことをすぐに口に出してくれる。
「え、それってこの相撲取りみてえなやつだろ!! えーっと、今田!!」
「島田君ですよ、左之助さん」
「そっかそっか!! で、島田だろ、一番強いのって!!」
しかし沖田先生や永倉さん、藤堂先生の視線は、左側のぼんやりに向けられている。
「いや、斎藤君だ」
皆の視線が向いているのに、斎藤は相変わらずぼへーっと天井を見つめている。
気の短い土方副長が、刀で畳をドンと叩いた。
「おい斎藤、話を聞け」
「む」
斎藤が初めて口を開き、慌ててように正座をし直して、ぺこりとお辞儀した。
「……山口一改め、斎藤一。これより近藤先生にお仕えいたします」
「そんな話はしてねえ。さっきまでの話は聞いてたのか」
「む。…………私は島田ではなく、斎藤です」
まるっきり聞いてなかったらしい。
こんな男が本当に強いのか。先生方に袖の下でも渡したのだろう。
いや、やっぱりそれはない。そこまでして入りたい場所じゃないし。
身分が低く、居場所のない者たちが集まったところだと、俺は勝手に思っている。
ということはやはり、この男は強いのだろうか。とてもそうは見えないが。
土方副長はこの辺で疲れたのだろう、頭をぼりぼり掻いて、正座の体勢を崩した。
「……山南さん、皆にわかるよう説明してやってくれ」
「これより、人を斬ります。ここの皆で行くので支度を」
皆が笑みを浮かべてこくりとうなずいた。斎藤も「承知」と立ち上がり、どこかへふらっと出て行く。右隣の島田も気合十分「ぃえいやぁあ」と独特な雄たけびを上げて出て行った。
だが、ここで俺は思わず口を開いた。
「あの、山南先生」
「ん、どうしました尾関くん」
「俺は剣術へたくそですよね?」
「ああ、へたくそだね」
沖田先生がぷっと吹き出して、土方副長の袖を引っ張る。
「聞きました?土方さん、あの山南さんが「へたくそ」ですって」
「……総司、少しは黙れ」
「あの山南さんがへたくそって言うんだから、よっぽどへたくそ何ですよこの人。どうしてこんな所にいるんでしょうね、帰ればいいのに」
「いや、総司、別に私はそういうつもりでいったわけじゃなくてだね……」
「ねえ土方さん、この人どうしてこんな所に呼んだんです? ねえ」
この時、土方副長は、むすっとして黙り込んでしまっていた。沖田先生が癪に障ったのだろう。
むしろよく、今まで殴られなかったと不思議に思う。仮に沖田先生が島田や俺なら、すぐに喉を短刀で突き刺されそうだ。
「ねえねえ、土方さん? 土方歳三さん? なんで無視するんですか? トシさん?」
後から聞いたが、土方副長は昔のあだ名で呼ばれるのを嫌う。
「総司、てめえはいつまでガキなんだ」
「わー怒ってる、源さん、土方さん怒ってますよ、気が短いですね。そんなだからみんなに「壬生狼」って呼ばれてるんですよ」
土方副長の顔色を見た山南さんが、慌てて沖田先生の頭をペシッと叩く。
「いい加減にしないか総司。尾関君はいてもらわなくては困るんだ」
「山南さんまでそんなこと言うなんて。……あ、あれですか、もしかして袖の下でも貰ったのでは?」
「総司」
「はいはい。で、どうしてこの人が必要なんです?」
ようやく土方副長が笑みを浮かべて、こっちに歩いてきたかと思ったら、俺の肩を掴んできた。
「こいつには旗持ちをやってもらう」
井上先生が「あ」と声を上げて手のひらを打って鳴らす。
「私も見せていただきました……良い旗ですよ、私たち試衛館の“試”の字が、きんきら~っと光ってました……」
「源さん、ありゃ“誠”だ」
井上先生が「あ」と真っ青な顔になる。
土方副長が慌てて立ち上がり「行くぞ」とその場をごまかした。
「申し訳ありません……!! 誠だったなんて……!!」
「源さん、もう行くからそんなこと気にすんな。尾関、旗取ってこい!」
「はいッ!!」
せっかくの初仕事だ、俺は肩に力を入れて障子戸から外へ飛び出した。
その背後で。
「申し訳ありません……!!」
井上先生はまだ謝っていた。
そして使用人がほうきがけをしている八木家の門の前に、後に新選組の中でも大きな活躍をすることになる九人が揃った。
土方歳三、山南敬助、沖田総司、永倉新八、斎藤一、井上源三郎、藤堂平助、原田左之助、島田魁。
「二列に並んでいく。隊列をそろえていた方が、見栄えがいいからな。先頭に俺と山南さんが並ぶ、その後ろに総司と永倉君、源さんと左之助、平助と斎藤だ。島田は最後尾で、俺たちの荷物を運んでくれ」
八人が「承知」と声を上げる。
聞き違いだろうか、俺の名前がない。
「……副長、俺は……?」
「お前はこれを持って歩け」
土方副長が、先ほどの布を竹の棒に取り付けた、いかにも急ごしらえの旗を俺に手渡す。
切ったばかりの竹はしっとりしていて、そのうえ土方副長が張り切ったものだから、腕にどっしりとその重さがかかる。まるで大きな魚を釣ったかのようだ。
しかし、それを立てると風になびいて、誠の文字が輝いた。
一同それに見入っているようで、井上先生に至っては少し涙ぐんでいる。そしてなぜか島田も目を真っ赤にして泣きそうになっている。
土方副長と山南さんとが顔を見合わせ、うなずいた。
「我ら壬生浪士組、近藤局長の命により、不逞の輩を取り締まりに参る!!」
その号令を合図に、皆が門から出て行った。かと思いきや、なぜかその列は動かない。
土方副長と山南さんが立ったままなので、後ろの皆も顔を見合わせて首をかしげている。
山南さんがこちらを見た。
「尾関君、何してるんだい」
「え」
「君は旗持ちだろう。はやく先頭に来ないか」
「……私が、先頭ですか!?」
「当り前じゃないか。何のために呼んだと思っているんだい」
こうして、俺は偉くもないし剣術もできない、さらには学もないというのに、壬生浪士組の先頭を歩く旗持ちになった。
皆で歩いていると、京の人々が玄関口から顔を出してこちらを見ている。
「浪士組が、たいそうな旗をこさえとる」
「旗は立派やなぁ、旗は」
俺の後ろで、山南さんの声がする。
「土方君、気持ちはわかるが君が暴れるのはよくない」
これだけで何が起こったのか、だいたい予想がついた。土方副長が京の人々に食って掛かろうとしたのだろう。
「……見てろ。今に言わせてやるさ「浪士組のおかげです」ってな」
「ふふ、楽しみですね」
「ああ。…………尾関、怠けんな、旗が下がってんぞ」
慌てて旗を持つ腕に力を入れた。
この日はまだ、芹沢筆頭局長の下に、新見局長と近藤局長がいる“壬生浪士組”の頃の話だ。
そのうち俺は、浅葱色の羽織を着て、京の町でこの旗をなびかせることになる。
この時の俺はまさかこの旗と生涯を共にするなんて思ってなかったし、この旗を生涯かけて守ろうとも思っていなかった。
俺が“新選組”の旗持ちになるのは、もう少し先の話だ。