第5話
ひとつ連絡事項というか報告があります。先月からほぼそうなるだろうと言われていたのですが、私、来年度、異動と相成りました。そのため色々と準備のため投稿が遅れることが予想されます。また4月からの更新も遅れる可能性があります。私事で申し訳ありませんがご了承下さい。
  
この作戦はマッカーサーのば……、もといマッカーサーの意図した、第10軍が鴨緑江に先行した後に、第8軍で一大包囲網を完成させ包囲殲滅するというものであったが、その作戦計画はすでに机上の空論でしかなった。
知ってのとおりだと思うが中朝国境付近は山岳地帯であり、進軍は非常に困難な上、半島が北に広がり、軍は広範囲に分散すると共に、中国軍の目論見通り、第8軍と第10軍の間隔が、指揮権や補給の面で混乱が既にあるのにもかかわらず、更に広がり、第8軍が危険となっていた。
その右翼には中国軍の攻撃で大損害を被った韓国第2軍団が配置されていたが、補充も補給も完全でなく、指揮統制や士気すら非常に怪しいもので、もっともあてにならないと思われていた。そんなところに配置したアホは何処のどいつだろうか?
国連軍は遂に、鴨緑江付近で中国人民解放軍に対する攻撃を開始するが、翌日には中国軍の方が第二次総攻撃を開始してしまった。韓国軍第2軍団は全力でその持ちうる総力を発揮したものの、当初の、あてにならない、との評価通りに、中国軍の最初の攻撃で殆どの戦力が消耗、ほぼ完全に撃破されてしまった。
韓国軍を撃破した中国軍は返す刀で国連軍に襲い掛かった。
山岳地帯から夥しい数の中国軍兵士が姿を現し、その数は国連軍の4倍にも達した。
米軍のとある連隊は10倍もの数の中国軍と戦う破目に陥ったし、第8軍の第24師団は清川江の南まで押し戻され、第2師団は右翼が包囲され大損害を被った。
中国軍の大攻勢が開始されたのは明らかであったのにマッカーサーはその事実を未だにこれっぽっちも認めようとせず、逆に第10軍に更なる前進を命じている。
そろそろこの男どうにかした方がいいだろうと、皆思い始めていたとか、いなかったとか。
マッカーサーを尊敬する第10軍司令官のアーモンドはその命令に従い、配下の部隊に突進を命じた。
想像した通り結果は惨憺たるものになる。てか既に命令するまでもなく幅広く分散していた第10軍は中朝軍の餌食になっている。
この当時の連合国軍最高司令官総司令部はいったいどんな様子だったのだろうか?
中堅将校であったビル・マカフリーは以下のように証言している。そのころ、司令部内は完全に狂っていた。連合軍は無数の部隊によって何回も攻撃されていた。唯一の実質的問題は、いかに兵士を脱出させるかどうか、ということだったのに。それでも発せられる命令は前進しろ、と言っていたのだ。我々は特にマッカーサーは仁川の後、完全にいかれていた、と。
第10軍の第1海兵師団は7個師団規模に包囲され、人海戦術による正面攻撃、両翼からの潜入、背後からの攻撃、退路の待ち伏せ、等考える限りの攻撃をされながらも何とか耐えていた。しかし同軍、第7師団は中国軍の圧倒的な人海戦術の前に壊滅一歩手前であった。
ようやく、しぶしぶながら、大きくプライドを傷つけられたマッカーサーは状況の深刻さを認識する。トルーマンと統合参謀本部に向けて我々はまったく新しい事態に直面した、中国兵は我が軍の全滅を狙っている、これまで当司令部はできる限りのことをしてきたが、いまや事態はその権限と力を超えるとこまで来ていると報告した。
さらに悪いことにこの男は自分の杜撰な作戦による敗北を誤魔化すために、今まで共産軍を撃滅する為に鴨緑江目がけて突進を命じていたのに、これを攻勢ではなく敵軍の戦力と意図を確定させる為の威力偵察であったとの明らかな虚偽の説明を行った。
これは無謀な北部侵攻が、何度も警告され、再三無視した、中国の本格介入を呼び込むだけでなく、アメリカの威信に傷をつけ、アメリカが一時的に敗北を喫した事に対する、さらに言うと自分のプライドに対しても、また自分の部下に対して、さらに自分の軍歴の汚点となるこの事態に対して、の責任逃れであったと思う。
中国軍の攻勢が始まって数日後、東京で、夜に、ようやく主要な司令官を召集し、作戦会議が開かれた。
一人で4時間以上も発言した、どっかの男のせいで中々結論が出なかったものの、翌日に前進命令を撤回、退却の許可が下された。
前線の遥か後方である東京の司令部で議論がなされている、議論と言っていいのかわからないが、間にも、国連軍の状況は悪化の一途をたどり、既に包囲され、前線が崩壊していた第8軍、第2師団は中国軍の有力なる6個師団に追い詰められ、もうほとんど脱出路が残っていない切迫した状況であった。
例を挙げるとするなら第10軍第1海兵師団が一番有名だろうか。
包囲されている米第1海兵師団は絶対的制空権や機甲力を中心とした火力、機動力を前面に押し出してはいたものの、中共軍は周囲の山岳地帯の特性を十二分に活用して、昼夜別なく、またあらゆる方向から攻撃していた。この包囲を突破したところで次の包囲、さらに次の包囲と、多重的に包囲されているのだが、師団の目標は海岸線への、正確に言うと興南港への脱出であった。
師団司令官は幅広く展開していた師団隷下の第5、第7連隊に合流を命じた。両連隊は多数の負傷者(千以上)とともに、22キロを77時間かけて後方の兵站基地に到着する。
しかしまだ撤退戦は始まったばかりである。今度はこの兵站基地からの撤退である。兵站基地には滑走路があり空路脱出も不可能ではなかったのだが、そのためには残置部隊が必要である。
もちろんほとんど残置部隊は生き残れる見込みはないものになるだろう、ビルマ戦線の日本軍残置部隊のように。
当然司令官は悩んだと思うが結局は徒歩行軍での陸路からの脱出を決断する。このとき師団司令官は撤退ではなく敵への攻撃と言って部下を率いたようだ。
ここから部隊を3つに分け、各部隊はT字の戦闘隊形を組み、迫り来る中共軍と戦いながら後退する。負傷者は先に空輸し、歩ける者は司令自ら歩き、車両に乗っている者は負傷者と戦死者、運転手だけだったそうだ。この撤退先も危険になったので、さらに撤退、山岳地帯を抜けるまで非常に厳しい戦闘を続け、ようやく平地に達することができた。
この200キロの撤退の間第1海兵師団は消耗は戦死、負傷、行方不明、凍傷、等、約8千、率にして50%の消耗であった。
最後の方には実は中共軍も消耗により撤退している。
なんとかこの第1海兵師団のように、国連軍は第8軍に遅滞行動を取らせている間に、第10軍を敵中突破させ撤退させることに成功する。各部隊は中国軍の大軍との間でまさに死に物狂いの戦いを繰り広げながらアメリカ陸戦史上最大の敗走を行うはめになった。退却した距離は10日で200㎞にもなり、1940年の欧州での仏軍や、シンガポールでの英軍の崩壊に似たとも評された。
もっとも結果的に撤退は成功し、国連軍は壊滅を逃れている。受けた損害は大きく、国連軍の死傷者数は12975名にも上った。もっとも中国軍の人的損害はその数倍に及んではいるが。
ソ連の極秘裏の参戦は既になされて入るが、本格的に最新の兵器を供給し始めた。スターリンは中華人民共和国を参戦させる事で、米中が朝鮮半島に足止めされる状況を作るとの意図の基ソ連参戦を避けていた。早い話が二虎競食の計みたいな物である。まあ、仲間内で何してるのかな、アホなの? 死ぬの?と言う疑問はさておき、ヨーロッパに戦力を集中したかったとも言われている。
しかしようやく中国を経由して、つまり隠れ蓑にして、朝鮮上空にMIG-15が投入されたのだ。
MIG-15の先進性は制空権を一時連合軍から奪いかけた。もともとMIG15のエンジンは誰から入手した物であるか、という根本的話はさておき、レシプロ戦闘機を圧倒し、すでに旧式化していた直線翼のF-84やF-80、ミーティアに対しても有利に戦いを進めていた。知れれているように対日戦での活躍と打って変わってB-29はMIG-15の37ミリ機関砲の餌食になり、米軍はF-86の投入を急ぐことになる。
ここにF86とMIG15の戦闘が始まるのである。まあお互い有利な土俵が違うのでなかなか熟練した搭乗員達の勝負は始まらなかったが、いちおう最終的にF-86とMiG-15の撃墜率は7対1、その他も考慮に入れても4対1になるのだそうだ。
制空権の一時的奪還に勢い付いた中朝軍は平壌を奪還、ソウルを再奪取する。その間にも最近韓国で聞いたような汚職事件を国家元首がやって物資、食糧不足で9万人が死ぬ意味不明な事件を起こしているが、まあなんとも言いようがない。この間釜山橋頭堡防衛から中共軍に対する防衛までを指揮していた有能な第8軍司令官が事故死する、丁度彼が執行責任者を勤めたA級戦犯の死刑と同じ日に死んでいるのはたぶん偶然だと思う、後任があくる年の春から反抗作戦を立案する。
結局この反抗作戦、サンダーボルト、キラー両作戦は成功しソウルは再度奪還される。
寸でのところで面目を保ったマッカーサーであった。彼はさらにやめてけばいいのに、この出来る部下だけが脚光を浴びることに不満を持ち、前線に行き作戦開始時期を記者に暴露、さらに中国を1年間で屈服させる新しい構想をでっち上げる。
最終的には10日に短縮されたこの意味不明な計画は戦後自身が語ったところによると原爆を大量に使用して中国の工業地帯を破壊し海から国民党軍と共同で50万の兵力を上陸させて、中国を完全に占領する計画だったそうだ。当然ソ連の参戦待ったなしなこの計画は、ソ連の攻撃も含まれて立案されたものであるらしい。
しかしここで彼に悲報が入る。トルーマンが停戦を模索する用意があるとの声明を発表する準備をしていることをつかんだのだ。
この反抗作戦の後に統合参謀本部が入手した情報は中共が再度の攻勢に向け戦力を終結させつつあるというものであった。さらに今度はソ連の本格的参戦も危ぶまれた。
ここに至って統合参謀本部は原爆の使用の用意を大統領に進言する。当然この時にはソ連も核を持っている、世界は核戦争の危機に実は足を踏み込んでいたのだ。
しかしそんなこととはつゆにもしらないマッカーサーは中華人民共和国を叩きのめすとの最後通牒にも等しい声明を政府の許可を得ずに発表し、38度線以北進撃を命令し、国連軍は東海岸地域から38度線を突破する。ついでに満州への攻撃、国民党軍の朝鮮半島への投入、原爆の使用、等その前から、できる男、マッカーサーは色々と中共を壊すための計画はしていたのだ、当たり前だが独断で。
さすがにトルーマンも怒り、全ての軍の地位からようやく解任した、このアホを。
後任は情勢を立て直した第8軍司令官であるマシュー・リッジウェイであった。
中朝軍も反抗作戦を、その用意していた兵力で開始するものの、国連軍の反抗に遭遇し、ようやっとのこと膠着状態に入る。53年休戦協定締結。3年間続いた戦争は、休戦であるので一時ではあるが終結し、現在も停戦中である。面白いのは調印者が金日成朝鮮人民軍最高司令官、彭徳懐中国人民志願軍司令官、M.W.クラーク国際連合軍司令部総司令官だけである、ということである。北進統一に固執した李承晩大統領はこの停戦協定を不服として調印式に参加しなかったのだ。その間に李承晩ラインの発表し、対馬の領有権の主張、竹島の奪取をしたのは周知の事実である。この時の余波として中国は核開発に邁進し始め、日本においても在日韓国人対在日北朝鮮人、日本共産党や在日韓国人、在日北朝鮮人による騒擾、テロ事件といった不の一面や、朝鮮特需といった儲かったのか儲かってないのか実は判らない事態にも陥っている、俗に朝鮮特需で云々は少し理解できない物がある。もちろん軍需産業は仕事が増えてはいる、技術も習得していると、恩恵を享受しているが、国家予算から市民生活までを総合的に考えると、対中貿易の停止等によって、利益があったのかという問題が出てきてしまう。ともすると日本経済が朝鮮の国連軍の兵站線を維持するための拠点として、国内生産を統制してまで追い込まれたとする資料もある。
ある意味この東アジアの地域はまだ大東亜戦争が終わっていない、と定義してもいいのかもしれない、休戦状態にあるのだし。そしてそれを起こした各国は平和を謳歌していると思うと、まあ、許すつもりも、共感するつもりも、理解するつもりも、無いが反発するのも判らなくはないか、とも思うが。色々と意見はあるし、皆もあると思うが、まあそれはこっちに置いといて、話を元に戻す。
この年に発足したアイゼンハワー政権はダレス国務長官の提唱する巻き返し政策と大量報復戦略によって反共政策を開始する。この構想ではアメリカの対外援助の削減と、同盟者自身の負担の向上により、各地域の防衛力の強化をせしめ、共産圏に対して封じ込めを意図する物であった。そのためにもアメリカ側はこの池田、ロバートソン会談を行なったのだと思う。
一方の日本側は複数の意図があった。とくに訪米したのが大蔵省OBをはじめとする大蔵官僚(大蔵省は現在の財務省に金融庁を足したものである)であったことから防衛問題を優先して話し合う気はあったのかは判らない。
日米相互防衛援助協定を基に経済援助と、保安隊の法的合法性を求めたかったとか、色々と言われてはいる。
日本側がどちらかと言うと経済問題を優先したように、お互いが前提条件を掛け違えていた。で、アメリカ国防総省の試算は50万の共産圏兵士が北海道または韓国経由で北九州から上陸することを想定しているとの内容であった。日本側には10個師団32.5万人を用意するべしと国防次官補が発言してくるが、それほど共産圏の脅威も感じていなかった彼らであったが、対案えお出さないことには始まらないと思い、とりあえず同じく10個師団だが18万人、210隻15.6万トン、作戦機518機と返答した。そして先に費用負担もしっかり、ちゃっかり全体の3割ほどアメリカに要求している。結局経済援助はすっぱり、さっぱり、完全に、にべもなく断られたが、その後20年にわたる防衛整備計画により定員18万を達成している。まあ、兵員充足率はお寒い限りであったが。下手なところだと50%割っていたと言われている。それって戦闘開始前に部隊壊滅してませんかね? って思ったほどである。
それからしばらくして在日米軍が縮小、兵站部門だけになりさらに兵力を分けて作戦部隊を編成する事態に陥り、結局13個師団体制に突入する。さらに沖縄返還で沖縄に第1混成団を、四国に第2混成団を配置して13個師団、2混成団体制が出来上がる。この混成団はのちに旅団と名前を変えることになるし、師団も減少して9個師団、6個旅団15.9万となるのだが、この時期に防衛班にいた人たちはなかなか帰宅できず、床で寝る日々だったらしいぞとコウジに義理の大叔父は話していた。




