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太陽系興亡史  作者: 双頭龍
第3章目的のためには教育だ
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第13話

 あはは、やってしまった。最初の会話以外全部解説。しかもドクトリンの話には入れたけど、まだマクナマラのPPBSの話に入れてないし。これはもうなんと言えばいいのか、文章力ゼロの作者確定ですね。

 解説もコウジの考えなのか、作者の考えなのか、表現が甘い気がします。そのうちこっそり訂正するかもしれません。

 しかも字数1万超えてるし、5千なら火曜に投稿できたかも、でもきりが悪いし、悩むところですね。

 加えて内容に私の勘違いが有る可能性があります、その場合その箇所を指摘してあげてください、訂正します。

 「そうだな。ドクトリンは基本的には軍事のみの概念ではない。元々はアレッポ(現在のシリアにあるアレッポと同じ位置)より西にある海の周辺に住んでいる人達の1言語であるラテン語に由来したはずだ。教義、主義、方針、学説、理論、色々な意味があるが、この場合は軍事ドクトリンを指し示すな」

 他にも政治ドクトリンや外交ドクトリンなんていうのもある、もっとも外交も戦争も政治の一部であるから結局は政治用語でもある。


 例えば歴史的に有名なトルーマンドクトリン。

 これは旧共産国圏封じ込めのための諸政策であり、内容はギリシャとトルコの経済、軍事援助であった。 

 ギリシャの中道右派政権と共産党の内戦であるギリシャ内戦の政権側に対する支援と、ボスポラス・ダーダネルス両海峡の管理を定めたモントルー条約、現在でも有効、航空母艦、ならびに8インチ(20,3cm)以上の口径の艦砲を搭載する主力艦は通過できない、の改定を求めていたソ連、黒海沿岸諸国の軍艦の自由航行やソ連の軍事基地建設を前提とするソ連・トルコの海峡共同防衛などを提案していた、との間に緊張関係が走っていたトルコの支援である。

 これはこの問題に対処できなかったパクスブリタニカ(やっぱりラテン語のPaxに由来する。パクスは平和と秩序の女神)の終焉と、パクスアメリカーナの到来を明確に提示するものであった。もちろんこれは西側においてであり、東側の旧東欧共産諸国ではパクスソビエティカということにはなるが。


 もちろん、この概念は歴史に関する事柄であるからには、お決まりともいえる問題が絡んでくる。そう、異論、または異なる見方である。この場合は第一次世界大戦の終結時にはすでにパクスブリタニカは終焉を迎えているという考え方である。

 まあ、これの背景はそれほど国家間の議論をよぶものではない。負けた陣営、勝った陣営、その周囲も含め、一致団結しなければ国家存亡の危機であったのだから。

 私見ではあるが国家とは自らの国益を最重視し、そしてその国益の為にしうることすべてをする権利だけでなく義務がある。だからこそ国家が歴史に対し求めることは真実ではなく、自国の国益に最も合致した事実になるのである。(当然ここでいう事実は真実とは意味を別にする。辞書、この文章を書いているページの横に辞書のリンクが張ってある、で調べると事実は現実に起こり,または存在する事柄。本当のこと。とあり、真実はうそいつわりのないこと。ほんとうのこと。また,そのさま。とある。)

 逆にいうと、あくまで歴史は手段であり目的は別にあるということを理解しておけば対処は不可能ではない。



 話がそれたので元に戻す。


 もっと最近ではブッシュドクトリンが有名だろうか。

 このドクトリンは別名先制攻撃ドクトリンとも揶揄された。先制的自衛権行使をいかに国際法上考えるのか、を考えさせられるドクトリンでもある。

 先制的自衛権とは他国からの武力攻撃が発生していない段階において、すでに自国に差し迫った危険が存在するとして、これら危険を予防するために自衛措置を行うことができるとされる国家の権利のことであり、当然国際法上また国連憲章上の様々な厄介な議論があることも事実である。つまりその攻撃は本当に自衛のためのものなのか? 侵略ではないのか? と証明しなければならないのである。


 このように9・11以後のアメリカの閉塞感を吹っ切ろうとした途方も無く攻撃的なドクトリンである。


 (筆者の学生時代の英語の先生のお兄さんがペンタゴンで犠牲になっていたりする。次の日の授業ではすぐに帰りたいけど飛行機が離発着していないからどうしようもない、と言っていたことを今でも覚えている)


 このドクトリンの骨格は世界の秩序は米国によって維持されなければならないず、米国は必要とあらば単独でも行動する。しかも大量破壊兵器の製造及び使用、若しくはその恐れのある国家に対しては先制攻撃も辞さない。特にならず者国家、とりわけ悪の枢軸としてブッシュ大統領が名指ししたイラン、イラク、北朝鮮の脅威に対する対処は急務である、等であると言われている。

 これらはネオコンと言われる人々の考え、というか主義・主張が大きく影響を及ぼしたものでもあった。

 彼らネオコン(Neoconservatism、Neoで新 conservatismで保守主義、つまり新保守主義である)はもとをたどれば社会主義などを信奉している左翼かつ自由主義者が紆余曲折、ベトナム戦争と黒人の公民権運動や独裁政権ですら国益のためなら同盟関係を結ぶ外交姿勢等、を経て保守に鞍替えした人々であり、案外というか、予想通りというか元来からの保守派と対立もしていたりする。


 彼らの目的は自由主義・民主主義・グローバル化を広めることであり、これらを具現化した自由民主主義体制の啓蒙と拡大を目指すものである。もちろんその地域の伝統的政治体制や宗教的または地政学的条件を無視してまで押し付けたいと思っているかどうかはネオコン内部でも議論の分かれるところであろう。


 そして彼らは自分達の主義、主張を実現するためにあらゆる活動をしている。

 アメリカ国内では政府に働きかけることによって、国外では色々な団体を資金面や思想面によって支援している。

 例えば2000年以降の中・東欧諸国、中央アジアの旧共産諸国でのいわゆるカラー革命や2010年以降のアラブ諸国のアラブの春といった反体制勢力を支援、場合によっては主導した可能性すらある。

 当然、反体制運動が発生する下地には、それら国々が強権的な独裁政権であり、その政権の下では貧富の格差等の諸問題が山積している、ということがあるのは言うまでも無い事実ではある。


 当初この流れは成功裏のうちに、更に波及するものと思われた。つまり強権的な独裁国家はこの地球上から消え去るのではないかと。


 確かにこうした流れはアメリカ1強の元では誰も抵抗できるものでは無かったであろう。強大な軍事力と他国の追随を許さない経済力、この2つを併せ持つ唯一の超大国アメリカに、誰が、どのように立ち向かえると愚考したであろうか。


 しかし現実には今の世界はアメリカとはいえ、手に余るのが実情である。


 (つまり今我々はパクスアメリカーナの終焉に立ち会っているのかもしれないのだ。もっとも壮大な勘違いの途中である可能性もあるが)

 

 当初チュニジア、エジプト、リビア、イエメンにおいて政権を打倒し、そのほかの湾岸諸国、大半の国々が強権的な王政または独裁制である、にすら影響を与えたこの運動は一見成功していると思われた。しかしアラブの春はシリアにおいて内戦となり、政権の打倒に成功したエジプト、リビア、イエメンですら結局は軍のクーデタによる民主政権の打倒、親イスラム勢力・親カザフィ勢力による混乱の長期化、シーア派武装勢力によるクーデターからのスンニ派湾岸諸国の支援の下内戦、更に悪いことにシリア内戦を隠れ蓑にしたISISの台頭へとつながるのである。結局成功したと思われるのはチュニジアのみなのが実情である。


 アラブの春の延長線であり、終わりの見えないシリア紛争に関する演説において、オバマ大統領自身がアメリカは世界の警察官ではないとの意見に同意すると発言してしまったのだ。最も同時にアメリカは70年にわたって世界の安全保障を支えてきたという歴史的貢献も強調してはいたが。

 

 同様にカラー革命も旧共産圏の最大勢力であるロシアとの対立につながり、結局は2014年のクリミアの武力併合という結果に終わり、さらにはロシアに間接的にまた直接的に支援された東部ロシア系住民をはじめとする分離派によりウクライナ内戦となってしまう。まさしく今世紀のフラッシュポイントとなりうる土地である。テレビを見て感慨にふけったものだ。まさか21世紀にもなって謎の武装おじさん、ロシアで言うところの礼儀正しい人々、を目撃しようとは、しかも武力併合って、あんた、今は19世紀か! と。

 外形が馬に見えるうえ、走り方も馬と似ているならば、普通に考えればそれは馬だとオランダ外相に言われた謎の武装おじさんことロシア軍部隊であるが、同時にアメリカ側も民間軍事会社を派遣しているとも言われている。


 それ以降はこっちに来た為によく分からないが、おそらくまともなことにはなっていないだろう。このように政治ドクトリンとは国家を、いや世界すら左右してしまう存在なのである。


 

 翻って軍事ドクトリンはどうであろうか? 軍事ドクトリンとは基本的活普遍的な戦術の中において、さらに部隊編制、装備体系、仮想敵の特性、予想される戦場の環境等々様々な条件を考慮しながら、いったい何を重視するべきかを定めるものである。


 元々はプロイセンのヘルムート・カール・ベルンハルト・グラーフ・フォン・モルトケ、以下大モルトケとする、いやー爵位まで書くと長すぎ、参謀総長を中心とした参謀本部が当時の産業革命の大いなる功績でも有る鉄道と電信を有効に活用したところから始まる。


いや、これを説明しないと俺がわからなくなるので説明する。


 もちろんそれまでにも軍事ドクトリンといわれる概念が無かったわけではないが、近代的な軍事ドクトリンはここから始まったことは、まあ疑いが無いであろう。


 プロイセン軍は第1次シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争において戦線後方のオーストリア帝国との緊張が高まった際、鉄道による大規模動員演習を実施したことがあった。もちろんこの演習は49万もの兵力を動員することによる威嚇効果を狙ったものである。当時としてはシュレスヴィヒがデンマークに奪還され、しかもイギリス・フランス・ロシアと小ドイツ主義、オーストリアに居住するドイツ人を含めてドイツ統一を推進しようとする考えが大ドイツ主義で、一方オーストリアに居住するドイツ人を除外したドイツ統一を図るのが小ドイツ主義、の下のドイツ統一の最大障壁であるオーストリア帝国の干渉に直面していた。まあ結局、この大規模動員演習は動員計画や展開計画の不備、いや、それらを所管する機関や部署すらなかった、から完了までに2ヶ月もの期間を要してしまった。

 しかし動員された部隊の鉄道での輸送には軍隊と戦争のあり方そのものに対する大いなる期待をもはらんでいた。つまり一般的に特別な行軍訓練をしていない予備役兵を大量に戦場へ移送することを可能とした事、鉄道は補給能力を大きく上昇させ、後方から兵員と補給が絶え間なく送られてくる、それゆえ国力が続く限りいつまでも戦えるようになる事、等の期待である。

 これらは後に総力戦への道を開くのではあるが、その当時は誰もまだそう考えてはいなかった。まあその当時の国際状況や戦争の流れから考えるに当然かもしれない。

 鉄道の技術だけでなく通信や信号、それらのインフラ、さらにそれらを有機的に組み合わせた計画等々、まだ課題は山済みでもあったからだ。

 例えばこの大規模動員演習の際、動員下令の5日後に命令を受領したとか、下車後の展開を考慮せずバラバラに部隊の兵士や装備を乗車させたり積載したため、目的地に到着後、部隊の兵士や物資が全然違う駅に行ってしまっていたとか、まあ散々な結果に終わったりしていた。


 ちなみにシュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争とは現在のデンマークのユトランド半島南部とドイツのユトランド半島南部にあったシュレスヴィヒ公国、ユトランド半島の付け根にある神聖ローマ帝国最北端の土地でもあったホルシュタイン公国をめぐるデンマークとドイツの民族紛争であり、デンマーク王家の支配下にある一方、国民はドイツ人が多数派という情勢のもと、ここの帰属を1848年のフランス2月革命以後の各地の民族意識高揚によって自国民の民族感情に火のついたデンマーク、プロイセンが壮絶に戦う戦争である。第1次シュレスヴィヒホルシュタイン戦争はデンマークがプロイセンの侵攻を阻止、第2次はプロイセン首相オットー・エドゥアルト・レオポルト・フュルスト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン、これも長いので以下ビスマルク、が自身が信奉する小ドイツ主義の最大の敵であるはずのオーストリア帝国と同盟を組み、さらに他の欧州列強諸国の中立を引き出す等、圧倒的軍備と卓越した外交能力を発揮してデンマークを圧倒した戦争である。まさしくビスマルクはリアルチートである。世界史の教科書にはデンマーク戦争と書いてある、たしかにデンマーク側から見れば自国であるシュレスヴィヒホルシュタイン両公国を失った戦争であるだろう、しかしドイツ側から見ると両公国に住む多数派のドイツ系住民を保護するために行った戦争でもある。

 第1次世界大戦のドイツの敗北により一部地域をデンマークは取り返したものの、最終的には同じEU内に居ることにより、民族問題がそれまでほど激化することはなくなった地域でも有るのだ。

 

 この第1次シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争の後、参謀総長に就任した大モルトケ以下参謀本部は鉄道に関する動員計画の策定や通信や輸送に関する戦時計画、それらを統合した動員計画などを策定していった。


 ナポレオン戦争以降、一連のナポレオン戦争の解説者でもあり、参加者でもあったアントワーヌ=アンリ・ジョミニという人物がいた。そう、有名な戦争概論の著者でもあるジェミニである。彼はもともとスイスで銀行職員であったが、スイス革命を契機に陸軍大臣の秘書として大尉から軍歴を開始したものの、紆余曲折を経て、いつの間にかフランス軍にてミシェル・ネイの私設副官になり、アウステルリッツの戦闘の後、ナポレオン自らが彼の著書を読み、大佐昇進させた上、元帥に昇進していたネイの上級副官に任命した。ナポレオンの幕僚を兼任するものの、ベルティエに妬まれ、ベルティエに禁固刑に処された後、結局ロシア軍に中将で移籍している。ロシア軍時代、露土戦争とその後に起こるクリミア戦争に参加、ロシア軍の近代化にも尽力している。


 彼は戦争にはこれを成功に導くための原理が必ず存在し、これにもとづく原則を明らかに出来るとの考えのもと、軍事学の研究に邁進した。彼は軍事学を、つまり複雑な戦闘と言うものを、技術であって純粋な科学でないとも考えていたようでもある。


 彼が最も重視したのは集中であった。彼は著書の中でこう書き残している。軍の主力を戦略機動により戦域の決定的な要所、および敵の後方連絡線に対して、徹底して差し向けろ。さらにはわが主力を以って、敵部隊の一部と交戦するように戦術機動すべし。加えて戦場機動においては部隊主力を決定的な緊要地形、または戦局を決する最重要な敵部隊に向け、集中すべし。集中に当たっては、部隊主力を緊要地形に集中するだけでなく、適時にかつ最大限の戦闘力も集中発揮せよ。

 このように彼の理論は集中を徹底的に提唱している内線作戦的概念である。内線作戦とは味方部隊を一点に集中させている内線側の部隊が、外線側の数箇所に分散している敵部隊を各個撃破しうる、ということである。

 まあだからといって彼は外線作戦を完全に否定しているわけではもちろん無い、せいぜい不利だ、と言っているだけである。


 そしてこの内線作戦信奉者の多いこの時代の欧州の軍関係者に大モルトケ率いる参謀本部は、鉄道を使っての動員と展開を活用して挑戦する。

 つまりこの時代の兵士の装備であるライフルマスケットの火力と、前装式青銅砲の火力を組み合わせ、更に塹壕等の防御施設を組み合わせると、徹底的に戦術面において防御側に有利な時代背景を、ボルト・アクション式ライフルでも有るドライゼニードルガンを正式採用し、さらに新型の後装式鋼鉄製施条砲であるクルップ社製の砲等の最新兵器を背景とする火力の増強と、よく計画された鉄道を利用した動員と展開によって、すなわち迅速に動員した大兵力を、所要の数地点に急速に展開させ、決戦場の一点に向け進撃させると言う外線作戦によって、戦略次元で優位な状況で打ち勝つことに成功させようとする物である。

 もちろんこれまでの軍事学の常識を覆す戦略であり、大モルトケはビスマルクを始とする強力な鉄道電信網の敷設等の政治的支援、イタリアを同盟に引き入れる等の外交的支援、を得つつ、そして同時にビスマルクの指揮権もないのに軍の命令系統に介入してくる横槍をなんとか抑えながら、ついにこの戦略は普墺戦争にて結実する。プロイセン軍の約7分の6にあたる第1、第2、エルベ軍の計三軍をオーストリア北西部ベーメン(現在はチェコ領フラデツ・クラーロヴェーです)の外線の位置に当たる約400キロの広範囲に展開、ベーメンに向けて求心的に進撃させた。


 ナポレオン時代の軍事的常識を引きずる欧州の軍事常識の終わりの始まりであった。


 ベーメン、現在のボヘミア地方に通じる鉄道はプロイセン側が5本に対し、オーストリア側1本。さきにオーストリア軍が動員を始めていたのにもかかわらず、プロイセン軍側が展開を先に開始させることが出来た。

 ケーニヒグレーツ北西サドワ村の近郊の高地に布陣していたオーストリア北部軍の主力を、まず中央の第1軍が、ついで右翼のエルベ軍、さらに北方の窪地から第2軍で攻撃した。当初第2軍の到着が遅れ、本営では度重なる救援要請の伝令に観戦していたビスマルクが焦り出したが、葉巻のケースを差し出された大モルトケが、良い葉巻を選り好みしている様を見て「作戦を立てた人間がこれだけ落ち着いておれば大丈夫だ」と安心したり、ヴィルヘルム1世も自ら総攻撃を命じようとしたが、大モルトケに諫められたりしていたという。

 第2軍到着後は包囲殲滅される危険にさらされたオーストリア軍が後退を開始、総崩れになり、エルベ川へ追い落とされて全滅する危機にあったが、砲兵200門と騎兵師団1万が殿軍となって抵抗し、犠牲になることで退却を助けた。

 この戦いによりオーストリアは首都から60キロの地点にまで攻め込まれ、イタリア戦線から兵力を割いて首都防衛の準備を始めたが、見通しは暗く、完全に継戦意欲を失った。プロイセン参謀本部では首都入城を望む声が大きかったものの、ビスマルクの政治的配慮により禍根を残さずに次の戦争に備えるため、無割譲・無賠償・即時講和の路線で講和が模索され、プロイセンの勝利が確定した。

 大モルトケ自身”戦争に時代や状況を超越した絶対的原則は存在しない”、”戦史から勝利の方程式を見出すことは出来ない”という持論を持っていた。一方、だからと言ってこれらを完全に無視することも無かったのも事実ではあるが、それゆえに新しい技術や概念を受け入れやすかったともいわれている。

 

 さて、ようやくドクトリンの直接的説明に移れる。

 

 この外線作戦の問題点は何であろうか? 答えは簡単。味方部隊が広範囲に展開しまた多数であるために、部隊の指揮官がどれほど天才的であったとしてもはや一人ではこれらすべてを直接指揮することは出来なくなっていたのだ。有線の電信を利用しようとも、黎明期であったからその技術はいまだ未熟であり、更にいえば回線をあらかじめ、用意、利用できる駐屯地や鉄道駅、電信局等の近くならともかくとして、有線回線の端から遠くで機動中の各部隊に対して遠隔地から的確かつ迅速な命令を下すことは絶対に困難であった。現代のC4Iの環境下であっても現実に敵の妨害などで完全に稼動することが不可能な恐れすらあるのに、何をいわんやである。


 さて、この問題の解決策はどういったものが考えられるであろうか?

  

 大モルトケは委任戦術を導入することでこの問題に対処しようとした。委任戦術とは上級指揮官が下級指揮官に対して全般的な企図と達成すべき目標だけを提示し命令する。別名というかドイツ語、アウフトラークタクティーク、から英語に訳してミッションコマンド、日本語に約して訓令戦術とも言われる。これを受領した下級指揮官は上級指揮官の企図した範囲の中で与えられた目標を達するための方法を決定し実施する。早い話、戦場での具体的行動はお前に任せたということだ。それゆえ、プロイセン参謀本部の戦争計画は動員から開戦までが緻密でその後は大筋のものしかない。

 この委任戦術で重要になってくるものがドクトリンである。というのも下級指揮官に権限を委任した結果、各部隊が各個に行動して、軍全体としての統一性を発揮することが出来なくなる恐れが出てくるからである。

 元来、軍隊とは、それを構成する各部隊が相互に協力しあう、相互に欠けている物を補完するためであるが、それをすることによって初めて大きな戦闘力を発揮することが出来る。統一性がないとはそういうことである。

 だからこそ、各部隊の緊密なる連携には何がしかの前提条件が必要になってくる。

 これこそがドクトリンである。正確には軍事行動における各部隊の指針となる原則であるが、なぜこれが21世紀の現代においても重要視されるかという大きな理由の1つでもある。それどころか今やLIC、低強度紛争、真っ盛りのご時勢であり、ますますドクトリン自体やそれに付随した物が重要視されてきている。

 例えばあなたは都市部で検問をしている兵士であるとしよう。検問のゲートに車が結構な速度で驀進してくる車両が有ったとて、どうすればいいだろうか? この車両は検問に突っ込んでくる自爆トラックなのだろうか? はたまたこちらの意図を理解していない民間人なのだろうか? 一兵士ですら状況を判断し、実行する機会が多いのが実情である。小隊長や分隊長、班長ではなおさらであろう。そして都市部での戦闘は必然的に小部隊になりがちなのが実情だ。

 ついでにこれがトラックの場合、最悪の死者数はレバノン内戦下のベイルート国際空港自爆テロで、約5トンもの爆薬に、介入していた多国籍軍のアメリカ海兵隊は、その後のゲリラの狙撃も含め、死者241人、2分後のフランス空挺猟兵部隊の自爆テロでも死者58人である。


 他の理由には、共通のドクトリンによって味方との連絡が十分でない場合ですら、全軍で共有しているドクトリンに基づき、味方が状況を観察、判断しているのであるならば、隣接する味方指揮官の判断や行動を類推できるという効果すらある。もっともこの場合のドクトリンは各指揮官に共有されている危険見積や、情報見積、を基盤とする状況判断プロセスや意思決定過程であり、各指揮官の相互理解の枠組みですらある。

 

 もともと大モルトケがなぜ委任戦術を、すなわち全軍を1人の最高指揮官が具体的な命令を下し中央集権的に指揮する”集権指揮”でなく、細部を各部隊の指揮官に委任する”分権指揮”を、採用したのはカール・フィーリプ・ゴットリープ・フォン・クラウゼヴィッツの影響が大きいと言われている。

 長いので省略してクラウゼヴィッツとはナポレオン戦争にプロイセン側で従軍した軍事学者であり、同じナポレオン戦争の解説者でもあるジェミニと方向性を少し、いや、だいぶ別にする戦術の大家である。

 彼はいろいろとその後の戦略や戦術の世界に大きな波を立てているのだが、ここで重要なのは戦場の霧と摩擦である。戦場の霧とは戦場の不確実性のことであり、摩擦とはこうした戦場の不確実性が指揮官の意思決定や部隊の行動に大きな影響を及ぼす事である。

 例えるなら、戦場においてあなたは指揮官であったとしよう。敵の状況がわからない。そうだ偵察だ! と思ったとしても、味方の偵察兵が敵情を見誤ったり、敵の欺瞞に惑わされたり、通信兵が伝達事項を勘違いしたりするかもしれない、それどころか偵察が失敗する可能性も、出来ない可能性も、通信が敵の妨害や、無線機の故障によって出来ない可能性すらある。そしてこれらだけでなく敵の意味不明の行動や不合理的行動、天候や、予測できないような自然現象や事故等によって最初に計画していたことがだめになったりすることが摩擦である。 

 言うまでも無く21世紀ですら、この戦場の霧とこれに起因する摩擦は解消されていない。よって分権指揮は依然として有用であるのだ。

 


 ついでに大モルトケの影響は日本でも大きいものがあった。彼の弟子でもあるクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケルと言う人物がいる。

 長いので略して、メッケルは普仏戦争の後、陸軍の近代化を推し進めていた日本政府によって大モルトケの推薦により、当時、陸軍大学校の兵学教官からお雇い外国人として日本に赴任した。もっとも、本人は「モーゼル・ワインのないところには行きたくない」と、断固拒否していたが、横浜で購入できることを知り赴任を決意、当初1年でいいから行って来てくれと言われていたが実際は3年の赴任であることを黙って送り出された。赴任先の陸軍大学の授業は大変厳しく、初年度卒業できたのは秋山好古など半数の10人であったものの、聴講を生徒だけでなく希望する者にも許したので、陸軍大学校長であった児玉を始め様々な階級の軍人が熱心に彼の講義を聴講したといわれている。日清・日露両戦争ではよく大モルトケの戦術思想が影響していると言われる所以でもある。



 大モルトケとビスマルクと言う2人の天才はそりが合わないところがあったものの、お互いがよく相手を高く評価し、強固な信頼関係の中にあった。よくビスマルクは「彼は実に珍しい人物である。義務は系統立てて果たし、何でも常に準備を整えていて、無条件に信頼できた。それでいて完全に冷静だった。」「彼は生涯にわたって全てのことについて節度を心得ていた。」と語っている。しかし2人のお互い強大な権限を持った宰相と参謀総長の関係は2人であったから出来たのであり、その後この制度を採用した国家にあるように政府はもはや軍部の意に反して政治ができなくなくなっていく。ビスマルクとモルトケという組み合わせは世界の歴史の中でただ一度だけ起こったことであり、その後二度と起こる事はなかったのだ。




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