『闘王殺し』
「へえ、これはまた豪勢な食事だねえ」
食卓に並べられた皿を眺めて、オーブ=アニアが感心したように言った。
食事の邪魔にならないようにするためか、髪を後頭部にまとめている。わざわざ絹の編み紐を使うあたり、洒落っ気の強さが窺える。
ヒューバード剣闘士商会の食堂は、十人足らずの人間が使うにはもったいないほど広い。
いくつも並んでいる卓のうち、中央の大きな円卓に食事が用意されていた。
「大丈夫なの? ここってお金ないって話だったけど」
リウ=シノバはちょっと不安顔である。こちらも、ゆったりとした黒衣の袖をたくし上げている。
露わになった腕は、まだ若い年齢を考えても華奢で細い。艶のある小麦色の肌と相まって、知らぬ者に剣闘士のそれと言ってもまず信じてはもらえないだろう。
食卓には、湯気を立てるスープに大皿に盛られたサラダ。バスケットには丸パンが積み上げられて、主菜には家鴨のローストと、かなり豪華な献立である。
商会の懐事情を勘案すれば、確かにリウが心配するのも無理はないと思われた。
「はっはっは。いくらなんでも、一食豪華にしたくらいで潰れはしまいよ」
グイード=フーダニットが朗らかに笑い飛ばすが。
「……あと五日分しか、食料も買うお金も残っていないのですが」
ぼそりと呟くフェートン=ジステンスに睨まれて笑みを引っ込めた。
「……そこまで追い詰められてたのか」
カタナ=イサギナは、何故か右隣に座った商会長殿に尋ねる。
「うん、いよいよ完全に崖っぷち」
真顔で頷くレレット=ヒューバードだが、眼に悲壮感はない。
「でもいいの。しっかり食べて体力付けないと勝てる勝負も勝てないし」
「いただきます」
周囲の会話を聞いていたのかいないのか。エイン=メノーティがぽつりと言って、各自が唱和し、食事が始まった。
●
「それで、カタナくん。君はどういう理由でこの商会で剣闘士になることにしたんだい?」
音を立てない食器捌きで食事を優雅に進めつつ、オーブが話しかけてくる。手慣れた挙動は彼が見た目だけの伊達男でなくしっかりとした教育を受けた身分であることを感じさせる。
「一年近く前に、剣闘士になるために北の大山脈から出てきたんです。あちこち旅してシュームザオンに着いて、偶然レレットに会ったんです。すぐに剣闘に出られる人が必要だって言うから、渡りに船ってやつで」
詳細をはぐらかしつつカタナが答えて、薄切りの肉を口に入れる。レレットの料理は、手慣れているのかかなり美味い。味付けは、身体を酷使する剣闘士のためにやや濃い目だ。
家計を気にして調味料を節約するという考えはないらしく、剣闘士を気遣う心根が伝わって来る。
グイードが豪快に大皿から取り分けながら。
「ほう。ならばやはり、多少の程度の心得はあるわけかの」
うむうむと感心したように相槌を打つ。
カタナの左隣から、リウも言葉を重ねる。
「そうそう、さっきも結構珍しい戦い方だったヨね。相手に背を向けて走ったり、敵の武器を逆利用したり。今時にしてはかなり実戦的ってユーか即物的ってユーか」
「リウ、カタナにも手を出したのか」
エインが、横目でリウを眺めて首をゆるゆると振る。玄関での奇襲のような目にいつも遭っているにしては、子供の悪戯を注意するような口調だ。
「全く。あなたが煙玉を使った廊下は、食事の後で責任を持って掃除していただきますよ」
「はーい」
服に煤が薄っすら付いたままのフェートンの通告に、リウはやけに素直に返事をする。が、すぐにカタナに向き直った。
「それでさ、カタナはどこで戦い方を習ったの?」
「それはこっちのセリフだ。鎖分銅といい『針』飛ばしといい、リウの戦い方だって普通のものじゃないだろう」
カタナの問い返す言葉に、頬を指で掻いたリウが事もなげに答える。
「んー、あれって実は戦いで使う技じャないんだヨね。ボクって辺境を回る曲芸団の生まれで、色々習った曲芸を自己流に変えてったらあんな感じになっちャったんだ。普通の剣なんてロクに持ったこともないし」
「実際、一度長剣を持たせてみたら素人同然な有り様であったからのう」
何かを思い出すかのように遠い目をするグイードに、リウが不満そうに抗議する。
「だってさ、もっと小さいヤツならともかくあんなゴツい剣使ったことなかったもの」
「それで? カタナ君の方はどうなのかな。リウ君みたいに変わった経歴だったりするのかい?」
オーブの問いにカタナは、パンを口に運ぶ手を止める。
「一応、剣闘士をしてたって言う触れ込みの爺さんに戦い方は教えてもらってましたよ。ただ、それも四年間くらいだったから今は我流混じりですけど」
「へえ、剣闘士をしてたって、どんな人?」
レレットがやや身を乗り出すようにして聞いて来る。ふわりと、陽に当たった草原の香りがカタナの鼻腔をくすぐった。
カタナは平静を装い、彼女の顔を横目に見ながら返事をする。
「さあ、随分昔の話らしいし、どんな剣闘士だったかはよく知らないんだ。名前はカーン=ハイドって言うんだけど」
「ふうん」
レレットは頷きはしたものの、出された名前に大きく反応したのは、最年長のグイードとフェートンだった。
眼を見開き、驚愕も露わに声を上げる。
「何と! それは、あの『闘王殺し』カーンのことではないか? まさかまだ生きて、しかも弟子をとっていたとは!」
「ええ、懐かしい名前です。私たちが若い頃はかなり有名だったのですが。久しく忘れていましたね」
彼らは互いに目を合わせて、驚きの声を交わした。
「二人とも、知ってるの?」
心当たりが無かったらしいレレットが首を傾げる。
「『闘王殺し』とは? 随分物騒な二つ名ですね。エインさんは聞いたことあります?」
「いや、全く」
オーブの疑問にエインも首を振る。
「うむ、若いお主らが知らんのも当然か。なにせ儂がまだ新人の頃、大体五十年前に引退した剣闘士だからの」
浮かせた腰を椅子に下ろして、グイードが往年を思い返すような眼になって語り始める。
●
カーン=ハイドが『闘王殺し』の二つ名を得たのは、彼の最後の剣闘に由来する。
元々、帝都で剣闘士をしていたカーンは剛腕で知られ、剣の一撃で対戦相手の全身鎧をバラバラに打ち砕いたという逸話もあるほどだった。周囲にも実力を認められていたが、巡り合わせの不運から大舞台には縁がなく、長い間他の多くの剣闘士に埋もれていた。
「そんな男に、建国記念祭・統一剣闘大会――年初めに行われる、言わずと知れた帝国最大最高の剣闘大会よ――の優勝者、つまり最強の剣闘士の証、『闘技王』の称号を持つ剣闘士と対戦する話が持ちかけられた」
当時『闘技王』の座に着いていたのが、『闘王』サーザン。貧民街の孤児の身分から成り上がり、初優勝以降五年間『闘技王』の称号を独占し続けた男だった。
サーザンは、先代の『闘技王』との戦いに勝利して最強の栄光を掴んだ年から、一対一の勝負では完全無敗。彼の百九十九連勝という記録は、以降四十年以上破られることのなかった記録である。
『闘王』サーザンは二メートルを超す体躯と、それに見合わぬ俊敏性。そして丸一昼夜、剣を振るって訓練することもあったと言われれるほどの底なしの体力を誇っていた。
両手持ち用の大剣を左右の手に一本ずつ振るう二刀流は、まさに死の嵐となって対戦相手を蹂躙したという。
怪物。
魔物の落とし児。
頂点に立つ前から、当時の剣闘士たちは彼のことを畏れとともに囁き交わしていたという。
齢三十四。彼の心身はまさに全盛期であり、誰もがサーザンの君臨が続くことを疑っていなかった。
彼の持つ『闘技王』の称号と『闘王』の二つ名。極めて似通った呼び名を同時に備えていた事実は、彼が完全無欠な剣闘士の王であったことの証明だった。
「しかし『闘王』は、二百連勝の達成を賭けた一戦において、カーン=ハイドによって打倒されたのです」
フェートンが、後を引き受けて語る。
彼らの戦いは、約五十年前の新年早々、帝都の大剣闘場の最終戦で行われた。
それは言うなれば、建国記念祭五連覇を記念したお披露目のようなものであり、カーンは『闘技王』の強さを引き立て、二百連勝という大記録を達成させるための生贄として選ばれたのだ。
あまりに弱い相手では盛り上がらない。最低限、サーザンに食い下がって観客を納得させるだけの実力があり、しかし『闘技王』には万が一にも勝利しない程度の相手がふさわしい。
そんな理由から、実力はあっても大きな実績もない男が満員の大闘技場に立つことになった。
伝説的な記録の達成を目撃すべく闘技場に詰めかけた観衆も、そして恐らく『闘王』サーザン自身も、今日が彼の最後の戦いになるとは想像もしていなかった。
「戦いの詳細は、儂も良くは知らぬ。と言うより、当時は遠く離れたシュームザオンまで試合の目撃談が真偽不明のまま多数飛び交っておっての。どれが正しくてどれが間違いかの判断がつかんのだ」
曰く、終始サーザンが攻めていたが、一瞬の隙を突いて満身創痍のカーンが『闘王』の首を斬り落とした。
曰く、両者は血みどろになりながら互角に斬り合って、遂に膝をついたサーザンにカーンがとどめを刺した。
曰く、開始直後の一閃で、あっさりと『闘技王』の首が飛んだ。
共通しているのは、『サーザンはカーンに首を斬り落とされて死んだ』という結末のみである。
「そして、彼はそれきり闘技場に姿を現すことはなかったと言います。『闘王』を討ったことが信奉者の怒りを買って闇に葬られたとも、さらなる強敵を求めて国外へと旅立ったとも。当時は様々な噂が流れたものです」
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一連の話を聞いて、カタナは剣の師匠と言うべき老人の姿を思い出す。
老いて枯れるように小さくなり、代わりに密度を増したような巌の身体。
多くの古傷が刻まれた顔からこちらを睨む、鈍く輝く金の眼光。
十歳の冬から十五歳の春までの約四年間で、彼はカタナに剣の技を文字通りに叩き込んで育てた。
カーンの修業は、常に実戦形式だった。
基本も戦術もなく、日の出から日暮れまで、毎日ひたすらに草木の生い茂る山の中で打ち合った。
いくら打ち込んでも魔法のように躱され、止められ、剣を落とされた。
そしてカーンの振るう樫の木剣の一撃で、軽い自分の身体は何度も吹っ飛ばされ、木に激突し、酷い時には真冬の滝壺に突き落とされた。
精根尽き果てて、カタナが立ち上がれなくなるのが一日の修業の終わりの合図だった。
師は、自分のことはほとんど語らなかった。代わりと言わんばかりに、派手な大技から繊細な妙技まで多彩な剣技をカタナに見せつけ、身に刻み込んだ。
ただ時折夜の山中で。傷だらけで横たわるカタナの傍ら、焚き火に当たって熱い酒を呑みながら。
「真の戦士にとって、絶対に勝たなければならない戦いは、生涯に一度しかない」
そんな風に、当時のカタナにはよくわからないことを語っていたことがあった。どういう意味かと、何度か訪ねてみても師は何も答えようとはしなかった。
ただ、それだけが、師匠との修行の中で唯一言葉で行われたものだった。




