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剣闘のカタナ  作者: 某霊
外伝 獣の章
73/113

生と死

 カタナは、目の前に立つ少女の顔を凝視した。


「……何を」

 見詰める瞳は揺らぎなく、カタナの顔を映して動かない。

「何を、言ってるんだ」


「言った通り、我は、お主の仇の係累なのだ」

 民を死なせた皇帝の罪、それはこの身でもって贖おう。

 皇女ラファエラは静かに、しかし堂々たる威厳を持ってそう告げた。


「さあ。その怒りと、悔恨と。全てを我に叩き付けてくれ」


 暮れかかる日が、空を僅かに朱く染めようとしていた。



 風が吹くばかりの山脈を、荒々しい息遣いで駆け抜ける一団があった。


「駆けよ、駆けよ! 脚を緩めるな!」


 命の気配のない山を駆け上がるのは、上級騎士ヌアジ率いる騎馬隊だ。

 平原を生活とする馬は、本来起伏の激しい山を駆けるにはあまり向かないが、鍛え抜かれた良馬たちは荷物を最低限まで絞った甲斐もあり、力強く傾斜を蹴って邁進している。


 その数は二十に満たない。騎乗できる兵は元から限られている上に、森を突き抜ける無茶な行軍に付いていけなかった兵が相当数脱落したからだ。


 斥候の不十分な地に指揮官自ら全速で乗り込むなど兵法の上では愚の骨頂だが、その代わりに彼らは森で足止め役を買って出たカーン=ハイドの想定を超えた速さでラファエラたちに迫っていた。


「見晴らしは随分良くなったが……人影も無しか。下方はどうだ?」

「山裾、見えている範囲では人影はありません!」

 速度を維持したまま部下に叫ぶと、打てば響くように答えが返る。


(この速度で追って見つからないだと? いや、この山地で馬もなくそこまで速く逃れられるはずはない。そう遠くないところに潜んでいる)


 まさか、まだ森にいるのでは。

 ヌアジは、今になって自分の判断に微かな疑念を感じた。


 背後の森を振り向く。眼に見える範囲では何の異常も感じられないが、彼の歴戦の勘はそこに名状しがたい悪寒を感じていた。

 それに、敵は当然として味方の部下の誰一人姿を見せないということの意味は明白だ。


「未だあそこで敵を鏖殺したという報は入って来ない。たかだか数名の相手にそこまで手を焼いているというのか?」


 ヌアジにとって、皇女に残された最後の護衛がかつて『闘技王』を討った達人であるということは全く未知の情報であり、その為、彼は背後の異常を察しつつも作戦を変更する決断は下せなかった。


 否、もしも森に投入した部下が全滅しつつある現状を知っていたとしても、やはりヌアジは皇女の捕縛を最優先しただろう。


 彼にとって部下とは、苦楽を共にした戦友であると同時に、己が動かす駒でもあった。

 その二つは、指揮官という人種にとっては全く矛盾することはない。


 仲間として労わり、部下として命じ、友として愛し、消費物として殺す。

 個人としての感傷などを戦場に持ち込むことは唾棄すべき軟弱。


 全ては仕える主のために。果たすべき目的のためには、個々の死など度外視されるのが兵の本分だ。


 そして敵勢力の主の娘にして、直系の血を継ぐ唯一の姫ラファエラ=イヴには、指揮下の全兵士の命と引き換えにしてもなお有り余るだけの価値がある。


「全騎散開、各自索敵しつつ駆け上がれ! 皇女は上方に隠れているはずだ!」

 ヌアザは決断。森は既に追撃部隊のほとんどを投入しており、例え手練れがいようが袋の鼠だ。ならばこの騎馬隊が行くべきは、この位置からでは見通せない山頂方面。


「何か見つけたらすぐに私に連絡をよこせ! 陽が落ちる前に皇女を捕らえるぞ!」


 応、とそれぞれ意気を上げて散っていく人馬の群れ。その行く先には、ラファエラたちの居るイサギナ村が存在している。


 帝都の騒乱に端を発する、皇女を巡る一連の追走戦も、ついに決着の時が迫りつつあった。



 小さな、しかし野生の森で硬く鍛えられた両の掌が、ずるりと跳ね上がった。


「――あ」

 そして、驚いたように硬直。否、触れたその『首』の、肌の柔らかさに慄いたのだ。


「どうした?」

 カタナの眼前。至近で見つめ合う形となったその少女は、齢に見合わない嫣然とした気配で笑みを浮かべる。まるで、己が首にかかった荒々しい手の感触を楽しむように。

「もっと苦しくしてもいいぞ。……いや、痛くしてくれ」


 カタナは、その言葉に逆に縫い付けられたように動かない。ラファエラの首を離すでもなく締めるでもなく、ただ触れたまま、呼吸さえ止めて仇を自称する皇女に見入っている。


「こ、皇女様? お前、一体何を――!」

 そこで、こちらの様子に気付いたアミタが泡を食って駆け寄ってくる。

 しかし。


「アミタ=ソーン! 勅命である、何が起ころうともそこを動くなっ!」


 視線を僅かもカタナから逸らさない大喝に、兵士の身体は条件反射で硬直する。

「な、殿下……?」


「貴様はそこで、見ていろ。これが我という皇族だ」


 そして、同じく固まっているカタナに、皇女は静かに語りかける。

「さあ、カタナ。思い出せ。己の苦しみ、悲哀、人生を狂わせた全てを」


 その思いの丈を、ぶつける相手はここに居る。


「う、うぁ――?」

 わなわなと、痙攣するような不自然さでカタナの手が力を込める。


「な、何……」

 己の手がしていることがわからないと言うように、カタナの顔から血の気が引いた。しかしその間にも、彼の手は少女の首を絞めつけ続ける。


「――ぐ。そ、そう……それっ、で、いい」

 ラファエラは、塞がれた気道を酷使して、軋むように言う。両の手は拳を握ったまま下ろされて、抵抗の気配すらない。


「ち、違う……こんなのは……」

 眼に涙さえ浮かべて、カタナは目の前の現象を否定する。しかし彼の手は今まさに人の息の根を止めようとしているのだ。


 否、結局これはカタナの意思だ。理性を無視して、長年擂り潰され続けてきた感情がその行き場を見つけているのだ。


 ラファエラが憎い訳ではない。だが、何かにこの激情を吐き出さなくてはカタナは己を保てない。


 誰が、一体何が悪かった?

 人を喰わされ、獣に落とされた苦しみを、何かに叩き付けてやらなければ狂ってしまう。


 そのカタナの葛藤がわかっていたからこそ、ラファエラは答えを与えたのだ。今この場にいる自分の存在そのものをニエとして。


「いや、嫌だ……!」

「で、殿下……」


 カタナも、そしてアミタも、少女の意思に呑まれている。

 明らかに、今まさに殺されようと――殺させようと・・・・・・している少女こそがこの場の支配者だった。


 しかしその君臨の、何と哀しく儚いことだろうか。


 そこには支配の愉悦も、導く者の覇気もない。己が信じる王者の在り方を不器用に示すことしかできない、幻のような箱庭の主。

 民が王に尽くすのではなく、王が民を守るのだという、ただそれだけを信じた皇族がここに居る。


 たった一人の見捨てられた民と、彼のために命しか差し出す者を持たない無冠の女王。

 彼らの姿はある種の美しさを孕みつつも、それ以上に痛々しい。


「カタ、ナ。『これ』が、済ん、だら……ご両親を、許し……て、やれ」

「――え」

 喘ぐように、ラファエラが囁く。肺に残った最後の息をすべて使って。


――お主の苦しみは、何もかも、我が持っていく。


――もう、何かを憎んで、お主が苦しむ必要はなくなるから。


 己を殺そうとするものに、己が殺させようとするものに。少女はあらん限りの慈しみを持って、そう言った。


「――あ」

 そして。カタナの耳に、ナニカが壊れる――音が聞こえた。



「――あらかた済んだか」

 カーン=ハイドは、血のまとわりついた剣を一振りして、穢れを払って一人呟いた。


 屍山血河。

 一言で言えば周囲はそんな有様である。血臭に満ちたこの近辺には、獣たちすら寄って来ない。

 人間たちの争う気配が獣を遠ざけたのも理由の一つだが、それ以上にあまりに濃い血の匂いに野生の生物たちが異常事態を感じたということが多い。もし上空から森の様子を俯瞰している存在が居たとすれば、カーンを中心に潮が引くように生き物の気配が離れていくのが分かっただろう。


 まるで災害から逃げるように、森の野獣たちが一人の人間から逃げて行く姿は滑稽以上に凄まじい。


 二刻足らずの間に彼が斬り捨てた人間の数は概算で二百に及ぶ。残りは命からがらカーンから逃げ延びた者や、運良く・・・合流し損ねた遅参者ばかり。

 率直に言って、壊滅以外の何物でもない惨状であった。


「……」

 カーンは、長時間の戦闘にもさして疲労した様子を見せていない。極限まで無駄を削ぎ落とした彼の動きは、こうした点からも見て取れる。

 片手をカタナとの戦いで負傷している他はほぼ無傷のまま、カーンは森の外へと移動を開始する。森の中の戦力は無力化した以上、後は皇女を安全圏まで逃がすだけだ。


 だが、しばらくして彼が森を抜けた瞬間、その動きが硬直する。

 それをもたらしたものは、彼の耳に届いた大地を蹴立てる微かな木霊。


「――馬蹄の音だと」

 ぎりりと奥歯を噛み締めて老剣士は眼を据える。

 皇女を逃がした方面に敵の騎馬隊が侵攻している現状を察し、己が一手遅れたことを即座に理解したのだ。


「ちぃっ」

 森中の戦闘ではついぞ一度も見せなかった緊迫の気配を迸らせて、カーンは斜面を駆け上がる。


 しかし単純な速度では、いかな『闘王殺し』と言えども騎馬に勝てる道理はない。視界の先に、豆粒のように小さくなった騎影が微かに見えるのみ。この距離を詰める術は存在しない。


 見る限り、敵の追跡隊の数は多くない。正面からぶつかれば騎馬相手でもカーンには勝利の確信があった。だが先に皇女を確保されてしまえば追いつくことはもうできない。


「間に合うか……」

 内腑を炙るような焦燥を感じつつ、カーン=ハイドはひたすらに足を速めて駆け上がって行った。



 倒れ伏した少女の身体を見下ろして、カタナは呆然と眼を見開いていた。


「――あ、あぁ」

 口から洩れるのは、喘ぐような息継ぎの音。強張った舌は、もつれて言葉を紡がない。脚から力が抜けて、膝から地面に崩れて蹲る。


「で、殿下!」

 そこで、悪夢から覚めたように動きを取り戻したアミタが泡を食って駆け寄り、倒れたラファエラの身体を抱き起こす。


 カタナの手の跡がはっきり浮かんだ喉。それを光に晒すように仰向けた顔に血の気はない。

 そして。


「う、ゴホッ!」

「殿下ぁ! ご無事で!」

 跳ねるように顔を上げて激しく咳き込みだしたラファエラに、気の抜けた様にアミタがへたり込む。


「……」

 カタナは、微かに頭を持ち上げてラファエラの無事を確認すると自らの手に視線を落とす。


 彼の左手は、人差し指から小指まで、四本まとめてあらぬ方向にねじ曲がっていた。


「カタナ……お主は」

 かすれた声で呼びかけるラファエラに、カタナは首を振る。


「もう、嫌なんだ。誰かを憎むのも、誰かのせいしなきゃいられない弱い自分も」


 最後の一瞬。カタナは、少女の首を掴んでいた手を強引にもぎ離し、そのまま己の右手で左手の指をへし折ったのだ。


 情動に負けて誰かに自身の傷を押し付けようとする自分。過去から引きずる怨恨との、それは決別の傷だった。


「もう、これでおれには、何もない」

 怒りも恨みも消えた代わりに。家族と故郷への強い思いも、過去のものへとなってしまったのが実感される。

「からっぽだ。何の価値もない……足掻くだけの意味もない」


 カタナの胸に、ただただ虚しい風が去来する。縛り続けた鎖から解放された己には、もう故郷も目的も残っていない。


「カタナ。お主、おかしなことを言っているぞ、何を途方に暮れている」

 と、ラファエラがアミタの支えを制して立ち上がる。死線を潜った直後とも思えない、穏やかな眼でカタナを見る。


「あらゆる立場もしがらみもなく、己の内の感情からさえ解き放たれた。今のお主ほど自由な存在は、この帝国にはいないのだぞ?」

「違う、こんなのは、自由じゃない。やりたいことも、やるべきこともない。そんなの……」

 カタナの言葉を遮って、ラファエラは少年の手を取ってはっきりと告げる。


「どう足掻いても無意味なら、したいようにすればいい。その結果がどうなろうとお主に失うものなど、今は一つも無いであろう」


 その言葉は、突き離すようでありながら、あくまで優しくカタナを包んだ。まるで巣立ちの前に怯える雛鳥を宙に放つような、そんな旋律。


「……おれは」

 カタナが、震える唇を開いて、何かを答えようとした瞬間。


「居たぞ! 第一皇女だ!」


 村の入口、朽ちかけた民家の陰から跳び出して来た騎馬が、その空気を切り裂いた。



 その声に最も早く反応したのはアミタ=ソーン。

 カタナとラファエラの対話を息を詰めて見守っていた彼は、咄嗟に剣を構えて皇女を背に庇う位置に立ったが、そこで一瞬の躊躇いが生まれた。


(ついさっきまで、味方だったやつと、おれは、戦えるのか?)


 今さらと言えばその通りだが、彼の戸惑いを責めることはできないだろう。戦友とは、互いの命を預け合った家族も同然。生死の境を共に生き抜いて来た関係というものは他に換えられるものではない。


 だから、彼は迫る『敵』を前にして僅かな躊躇を見せてしまい。

「借りるぞ!」

「え、おいっ!」


 弾かれるように跳び出したカタナに、その手に持った剣を掻っ攫われてしまった。


「! ――子供だと?」

「チェアアァ!」

 騎馬に正面から突っ込んで来る粗末な身なりの少年に、騎馬の脚が僅かに緩む。だがカタナは委細構わず、突き出た岩を足場に跳躍して斬り込んだ。


「はあっ!」

「ぐ、があ!」

 斜面による高低差と足場を用いた跳躍。この状況で馬上の敵手を一撃で仕留めるにはこれしかない戦法を、カタナは直感的に選び取っていた。

 反応する間もなく、肩口から一刀のもとに斬り下げられた敵兵はほぼ即死の状態で落馬する。


「カタナ!」

「おい、大丈夫か?」


 ラファエラとアミタが肩で息をしているカタナに駆け寄るが、彼は振り向くことなく山裾の方角を睨み据える。

 残された馬はそのまま走り抜け、主人のことも忘れた様に去って行く。その先には、ぽつりぽつりとこちらを目指す騎影が確認できる。


「……来るか」

「殿下、とにかく逃げ――」

「馬相手に速度で勝てるか。とにかくカーンが合流するまで……カタナ?」

 顔を引きつらせるアミタと、金の眼を覚悟に染めるラファエラ。両者のやり取りを背に、カタナは剣を右手に下げたまま歩き出す。


「あんたらは逃げろ。おれがあいつらを止める」


 そしてそう一言告げると、一気に加速して駆け下りる――敵に向かって。


「カタナ、待て! 我は皇族、民であるお主に守ってもらう者ではない!」

「そんなのは知らない! おれは、言われた通りやりたいことをやる。あんたを守る、今はそれだけのおれでいい!」


 何もない。価値も、意味も見失った空っぽの少年。

 彼は、人としての彼を知るたった一人の少女のために、その意思の全てを燃やして戦いへと向かって行った。


投稿開始から今日で一年。

ここまで付き合ってくださった方々に感謝いたします。

まだまだ先は長いですが、着実に進んで行きます。

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