少年と少女
(なんでこんなことに……)
帝国兵のアミタは、昏い森をかけながら今日何度目かもわからない疑問を脳内で呟いた。
彼の背後には、捉えるべき標的だったはずの皇女ラファエラ、そして横にはカーン=ハイドというらしい老人が並走している。
そして、アミタの背には傷だらけの少年。
元をただせば、この子供が乱入してこなければアミタは今頃皇女を捕らえて上官の元へと帰還していたはずなのだが、何の因果かこうして背負って運ぶことになっていた。
敵に降され、迫る味方から逃亡しているという状況は当然ながら不本意の極みだ。しかもこの状況で見つかれば裏切り者として弁明の余地なく切り殺される恐れさえあった。
だが、だからといって逃げようとすればカーンの剣の錆びになることは確実だ。この少年を倒したあの剣技が自分に向けられることなど考えたくもない。
唯一活路があるとすれば、もう一人の方。皇女を人質に取ることができればカーンの行動を掣肘できる眼はある。
「……何だ、そいつに何かあったか?」
「へ? あ、いえ、問題ありませんです殿下!」
意識を向けられたのを察して反応する皇女に、慌ててアミタは返答する。天上人と言葉を交わすのなど人生初の体験だったが、それに感動する余裕もない。
「そうか、苦労を掛けるが何か変わったことがあればすぐ教えるように」
「りょ、了解であります!」
たったこれだけの会話でも寿命が縮むかというほど緊張する、土台彼は一兵卒なのだ。
(うう、すっげえ威厳……マジで格が違うよ、絶対人質とか無理だな)
三歩分の距離を開けて自分に付いてきている少女の安定した息遣いを耳に、アミタはさっき考えた手を却下した。
(それにこの皇女さま、兵士顔負けに動けるからなあ、なぜか)
そもそも、箱入りお姫様がこんな辺境の森の中で本職の兵士の追跡から長時間逃げられたことからして有り得ないとアミタは思う。
今も、子供を背負っているとはいえ一応は精兵であるアミタの速度にほとんど遅れることなく付いてきている。
整備された街道や石畳の道ならともかく、未開の森というのは慣れないものには歩くことさえ難しい。素人が無理に走れば足首を痛めて転がり落ちる。
足元は湿った枯れ木や柔らかく沈む地面が足首のバランスを崩し、油断すれば木の根や蔓草が転ばせにかかる。足元を気にしすぎれば鬱蒼とした枝葉が視界を覆い直進することさえままならない。
そう言った意味で、森林の踏破とは、誇張無しに一つの特殊技能なのだ。
(まあ、そんな場所で高速戦闘するバケモノみたいな子供や爺さんも居るわけなんだが……)
ともかく、そんな特殊技能を帝国で最も高貴な姫君が身に付けているというのはどういうことか。
アミタが皇族のことを何も知らない庶民であったなら、「やはり皇族というものは普通と違うのだ」と自分を納得させることもできたのだろうが、生憎彼は末席であっても皇族直属部隊の一員であり、皇族の実情をある程度は理解していた。
(少なくとも、『獅子』の皇族にはこのお姫様ほど走れるお人なんて一人もいないだろう)
武芸や軍事に興味を示す貴顕が居ないわけではないが、それはあくまでも兵法や宮廷剣法などの洗練がなされた学問であり、実戦技術などでは断じてない。
良い悪いの問題ではなく、そうした能力など皇族が持つべき能力としてはあまりに異質なのだ。
(まさか、影武者? ならこういった事態に強いのも……いや、偽物にしては、あまりにもこの「皇女」は高貴すぎる)
あの、衆を魅了する威厳ある立ち姿に、神々しささえ秘めた金陽の眼光。身体の芯まで響く王の声。全てが常人離れ――否、『大鷹』の皇族たちと比してさえ規格外だ。
理屈ではなく、アミタの感覚が否応なくこの少女が真の皇族であると認めていたのだ。
あるいはこの時既に、アミタは自分では自覚せぬままにこの少女を忠誠に値する者と感じていたのだろうか。
ともかくアミタは大人しくするしかないと諦めて、少年を背負ったまま森の奥へと進んで行ったのだった。
●
獣が、哭いている――。
獣哭醜々。
苦通と、怒り、そして隠しきれない恐怖が、カタナの心に伝わって来る。
脚を潰された、爪牙の刃が砕かれた。人外の空腹が胃の腑を熔かして身体を蝕む。
カタナの内面世界を支配し続けていた獣は今、完膚なきまでの敗北に沈んでいる。
傷付いた自尊心を抱えて。脳の中央、死骸で組み上げた玉座で哭いていた。
カタナは、その様を決然と見据え、自己を鼓舞するように声を上げる。
獣の王国は、敗戦を前に揺らいでいる。軍は崩壊し、王は王宮に立て籠もった。
「だからこそ、ぼくが――おれが、反乱できる」
一度は自ら膝を折って屈服した暴君に、喰い散らかされた意思をかき集めて戦いを挑めるのだ。
獣が、無数の瞳を巡らせる。嘲りと猜疑を等分に混ぜた視線が、今さらやってきた主人格を拒む。
――失せろ。ここは我の領域だ。
「……この世界を、返してもらう」
拒絶と拒絶。一人の少年の内で、二つの意思が鬩ぎ合う。
それは、眼には見えない、しかし確かに存在する戦い。意思と意思が、「自分」という敵を相手に牙を剥く。
それはきっと、この世で最も小さな最終戦争。
●
――フザケルナ。
獣が、叫ぶ。狂奔する暴食の気配が、カタナの意思を食い千切る。
――お前は、もう終わっている自意識だ、人間をやめたこの身に残った残骸だ!
人外の語る言霊がカタナを侵食。だが。
「終わっているのは、お前の方だ!」
カタナの反駁が、獣の悪意を真っ向から弾き返す。
「お前はもう終わっている。負けて、狩られて、調伏された」
カタナの外界で、獣はすでに負けている。敗者の強弁は、誰の心にも届かないのだ。
獣の世界の終焉だ。だから、死した獣は新たな命の糧とならなければならない。
あらゆる命は食物として連鎖し輪廻を回す歯車となる。弱肉強食と並ぶ、これが自然界の絶対法則だ。
「今度はおれが、お前を喰らってやる! 獣を喰らう、人として」
それはつまり、立場の逆転。獣を意識の奥底へと封印し、肉体の所有権を本来の人格に取り戻す。
――馬鹿め。そんなことをすればお前の精神は崩壊するぞ。
だが、獣はそんなカタナの宣言を嘲笑する。半死の精神を引き摺って、それでも何の陰りも見せない悪思が魂を揺さぶる。
――現実と向き合うことができずに逃げ出した人格が、今さらになって表に出られるものか。目覚めれば、そこに待つのは罪と穢れだ。今はどんなに猛っていても、お前にはそれと向き合うことなどできはしない。
その言葉に込められているのは絶対の確信。現実は、どこまで行っても甘くない。カタナが見る外界に救いなどないと断言する。
「だから、今まで通りお前に任せて引き篭もっていろって? そんな『甘え』は、もうやめた」
確かに、カタナが進むのは茨の道だ。人を喰らって、化け物に落ちて生きた人間に明るい未来が待っているなど、身の程知らずと言うにも甘すぎる。
「幸せなんてわからない。未来なんてまだ信じられない。でも……」
この獣――、カタナが産み出してしまった悪食の化身に甘えて、戦うことすらできない存在ではいたくないと、そう思う決意だけは譲れないから。
「おれは行くよ。戦うために、傷付くために、苦しむために」
それが、忘却の彼方に去って行った罪へのせめてもの報いだ。犯した過ちから逃げないために、それが自分の義務だと思う。
――苦しむために? 理解できない。どうでもいいだろう、死人なんか。
「どうでもよくなんかない。おれは、アイツや皆を捨てたりしない」
カタナの意思は、我執に凝り固まった魔獣の論理では測れない、人間の姿。精神の奥底に沈んでいたカタナがその輝きを得た時に、恐らく獣の支配は既に終わっていたのだ。
現実は怖い、獣に堕ちたあの日から続く罪に向き合うことが恐ろしい。だが、それでも立ち向かうことを選んだ存在を、ただの欲望の塊が圧倒できる道理などありはしない。
「今この瞬間だけでも構わない。お前に勝って、全てを終わらせに行ってやる」
●
「――来たか」
カーン=ハイドは、背後に遠く人のざわめきを感じ取って足を緩めた。皇女と、少年を背負ったアミタもそれに合わせて背後を窺う。
「追いつかれた、か。数は?」
「およそ五十。これで全てということはあるまい、そうだな?」
「あ、ああ。兵数的には三百人くらいは……って、しまった!」
当たり前のように問いかけたカーンにうっかり返答してしまったアミタが慌てて口を閉じるが後の祭り、カーンは一つ頷いて踵を返す。
「これ以上数が集まっても面倒だ、ここで先に片付ける。皇女は先に進まれよ」
剣を構え、そして気負いもなく今来た道を戻ろうとするカーン。
「ちょ、ちょっと、待てよ爺さん!」
それに慌てたのは、護衛と離れることになるラファエラではなく、アミタの方だった。
「一人で五十人相手にするなんて無茶だろ! それに、あんたがいなくなったら俺が裏切っても止められないじゃないか!」
少年を背負ったまま、妙なくらいに狼狽している男を無表情で見返していたカーンだったが、急に、くっと声を漏らして軽く笑った。
「馬鹿め」
それは、言葉通り馬鹿にしたというよりも、あまりにもおかしなことを言うのでつい口をついたといった感じの笑い方だった。
「裏切る気のある輩が自分からそんなこと言うわけがあるか。大体――」
そこで、笑みを引っ込めて、アミタの眼をじっと見る。
「『裏切る』とは、味方に対して使う言葉だろうが。それがお主の本音だ」
「な……!」
予想もしていなかった返しに、アミタは絶句して目を白黒させている。
だがカーンには、アミタが既に敵対心を失っていたことなど明らかだった。
皇女ラファエラ。カーンと睨み合っても一歩も退かずに意を徹すほどの傑物を間近にして、いつまでも敵意を保つことができるものなどそうはいない。
それでなくともアミタは兵士。高貴なものに仕え働くのが本領なのだ。
「それに安心しろ、お主が裏切れば、背に居る小僧が即座に目覚めてその喉笛を引きちぎってくれるだろうよ」
「は? ちょ、何だよそれ!」
騒ぐアミタを置いて、カーンは歩みを再開する。ラファエラは無言で、そんなカーンをじっと見ていたのが心地良い。
敵は最低五十人。増援が来ればそれ以上に膨れ上がるのは確実だが、カーンの心には一滴の恐怖もない。
『闘王』サーザンや数多の強敵に比べれば、雑兵の百や二百、物の数にもなりはしない。
彼は『闘王殺し』。強者を屠り、今日まで生き残って来た不倒の英雄。
その武威が今、『獅子』の皇家に叩き付けられようとしていた。
●
「隊長! 三番隊より連絡。山頂方面に向かう標的を補足、これより周囲の隊と連携して接触するとのことです!」
森の入口、山間部には珍しく平らな地面が続く集合地点で待機していた皇女追撃隊隊長のヌアジは、その報に待ちかねたように立ち上がった。
「よし。全隊に連絡、三番隊に合流して障害を排除せよ。敵の数は?」
「ごく少数。多くても五人以上ということはないでしょう」
部下の言葉に、ヌアジはしばし眼を閉じて考える。
敵がどんな強者でも、三百からなる敵を倒しつくせるとは考えまい。となるとできるのは討ち死に覚悟の足止め、攪乱。その隙に皇女を逃がすしかないだろう。
それはどこへ? 無論森の外。中に居たままでは危険過ぎるし先がない。発見地点から一番近い外部は――。
(『山頂方面に向かう標的』――、成程な)
「本部人員を動かす! 全員最軽装、最短距離で森を突き抜け山側へ向かうぞ! 皇女は山を越えるつもりだ」
「隊長! いくらなんでもこの高峰を皇女が越えられるとは――」
部下の言葉を片手で遮り、ヌアジは視線の先にある山を睨む。
「何も馬鹿正直に頂上まで行く必要はない。ある程度登ったのち、降りの勢いで一気にここから逃れるつもりだ」
そのための足止め。森に兵をとどめておけば、皇女は労せず索敵範囲から逃れることができる。
「急げ、一分で用意だ。物資も最低限、着いて来れん者は置いて行く」
森に散らばせた各隊を集め直している時間はない。統制のとれる人員だけでも最速で皇女を追う。足止めに残った人員も失った皇女はほぼ単独。捕らえるのに数は不要だ。
「この山から逃れられると思うなよ、第一皇女……!」
●
「さて、どうにか森を抜けたが……」
「ど、どうするんですか、殿下? やっぱり山の反対側に?」
カーン=ハイドから離れたラファエラとアミタ、そして気を失ったままの少年は、どうにか昏い森を抜けることに成功していた。
周囲は、先程までの緑が嘘のような荒涼とした景色が広がっている。
標高が高くなり植生が変わったのか、森に繁茂していた植物のことごとくが見当たらない、完全な別世界だ。
「さて、あまりカーンから離れるのも得策とは言えんが、カーンが敵を引きつけている以上近づくのも上手くないな」
「なら身を隠す場所でもあればいいんですけどね。洞窟とか」
とはいえ、場当たり的に探して見つかるものでもないだろう。ラファエラもアミタも初めて訪れるこの山の地理など把握していない。
とにかく立っていても始まらないと、山頂へと歩き出した直後。
「ん? うわ、おいまだ動くな!」
突然、アミタが慌てた声を上げたのに気付いてラファエラが眼を向けると――。
「う、く、ああ……!」
まるで、産声のような。そんな呻きが先に耳に入って来たから、思わず皇女は笑みを浮かべた。
「うむ。お主、ようやく起きたか」
そこに居たのは、地面にへたり込んだ状態でラファエラを見上げている、少年。
彼と眼が合い、皇女は柔らかく微笑んだ。
「先程は助かった。お主のお陰で命が繋がった。我の名はラファエラ=イヴという。お主は?」
少年の眼は、先刻までの血のような赤ではなく、理性の輝きの混じった桃色。それは、見るものに安心感を与えるような、透き通った色彩だった。
「……カタナ。おれ、は……カタナ=イサギナ」
「うむ、カタナか。カタナ、礼を言う。よく助けてくれたな」
ラファエラは、膝を地に付いてカタナと目線を合わせる。
「傷は? 痛むか」
カタナは、無言で首を振り立ち上がる。その挙動にぎこちないところは見られない、驚異的な回復力だった。
「話、聞いてた。隠れるところなら……ある」
訥々と語り、少年は、山の中腹、少し盛り上がって見える辺りを指す。
「あそこは?」
問いにカタナは、静かに言葉を紡いだ。
「イサギナ村。おれが産まれた……故郷、だった、場所」




