車輪の乙女は死を想い、死者の轍に恋を啼く
少年を奇襲から助けたその時、ロロナが抱いていた最も強い思いは、切実なまでの『居たたまれなさ』であった。
端的に、恥じ入っていたと言ってもいい。
肩の傷を無視して『車輪剣』を振るい、あろうことか宙に飛ばして標的に当てるという無茶をしたおかげで激痛が走るが、それさえも気にならない。
カタナ=イサギナと名乗った剣闘士の少年は、ロロナのことを『剣闘士』と呼んだ。
そして、『剣闘士』とは己を高めるために戦うものだと言った。
彼はその青臭くも純粋なあり方を心底から信じている、それが戦いを見ていて良く分かった。
だから、ロロナはどうしようもなく、はずかしかった。
少年の言葉ではなく、己自身が。
「……ありがとう、助かったよ」
だから、たった今襲撃者から救われ、少年――カタナが礼を言って来るのにも、ロロナは真っ直ぐ向き合うこともできないでいる。
「……い、いいから、ここが崩れる前に早く逃げて」
そんな風に、ごにょごにょと呟くようにして、顔を背けることしかできないロロナ。
そこには、常の茫洋とした面持ちも、戦いに臨む際の沈着さも見られない。
とりあえず傍に転がったままの死体から『車輪剣』を引き抜いてみたが、カタナの視線を感じると慌てたように血濡れた剣身を背後に隠そうとする(無駄な)努力を試みてしまう。
ロロナは、『剣闘士』などではない。
彼女の表向きの身分としてそういうことになっているだけで、実態は非公式の処刑執行人だ。闘技場の戦いにおいても、自分を高めることなど意識せず、敵を殺すこと、それだけしか考えていないし、求められてもいない。
ロロナの本質は、この場にいた『剣獄』の闘士たちと何ら変わらない。だから、この少年に『剣闘士』と呼ばれたことに身の置き所が無いように感じられてしまうのだ。
この少年は、ロロナがどういう剣闘士であるのかは知らないのだろうか。対戦相手を皆殺しにする、『死者の刃車』であると気付いていないのだろうか。それとも、知った上で『剣闘士』と呼んでくれているのか。
前者であれば、命を救ってもらった彼を騙しているも同然で、後者ならロロナは余計に惨めだ。
己が称号に相応しくないと自覚しているものは、その称号の気高さを穢しているように感じられてしまうから。
「君は? そっちも早く逃げないと」
「わたしは、まだやることがある」
これ以上少年に向き合っていられる気がせずに、ロロナは背を向けて倒れたシジウスに近づく。正確には、その傍らに落ちた一本の剣に。
「……おかえり、『獣爪剣』」
何年ぶりか。ようやく手に触れた、ロロナにとって兄弟とも呼べるその剣は、刃にいくつもの戦いによる細かい傷と、隠しきれない血の匂いがあった。この痕跡は、それだけこの剣が殺し合いに使われてきたということの証。
どれだけの人の血を流させられたのだろう、どれだけの罪科を生み出す道具にさせられたのだろう。
「……許さない、『人斬り剣獄』」
『獣爪剣』を抱きしめて、口の中でそう呟く。
父に造られた日のこの剣は、無垢なまま、いずれ現れるだろう真の使い手との出会いを待っていたはずなのに。
戦火に奪われた兄弟を手に、ロロナは誓う。必ず全ての『異装十二剣』を見つけ出す。そして彼らが非道に用いられているのなら、何をしてでも取り返して見せると。
そして『獣爪剣』を手に立ち上がったロロナは、気を失っているシジウスを見下ろす。
とどめを刺すか。
ロロナはちらりとそう考えるが、このまま置いておけば、勝手に潰されて死ぬだろうと思い直す。その方が、この地下の住人には相応しい。
それに、散々斬りまくっておいて今さらだが、少年――カタナの前で人殺しをするのを見せたくはないと思った。
「あれ」
そう思って振り返ったが、いつの間にかカタナの姿はなくなっていた。
どうやら一足先にこの場を離れたようだとロロナは判断し、ちょっとバツの悪い気になって己も『車輪剣』を引いて駆け出す。
その時。
「ええい! あちこち埋まってて、迂回が面倒だったらない!」
そんな声と共に、カタナが人を背負った状態で戻って来た。それも、なぜか出口とは逆方向から。
「……え」
ぽかんとするロロナ。それに気付かず、小柄な子供(クク、という名をロロナは知らない)を背負ったままずんずんと早足で進むカタナはそのままシジウスの元に寄って行くと。
「ククはともかく二人目はおれよりでかいし……しょーがないなもう!」
そして先に背負っていた子供を正面で抱き直して、気を失ったシジウスの身体を無理やり背負いあげようとする。
「な、何をしてるの!」
思わず、ロロナは声を張り上げた。さっきまでの気まずさも今は忘れている。それほど、カタナの行動はロロナの想像の埒外の出来事だったのだ。
しかしカタナがきょとんとした顔で、落下物が落ち続ける空間に突っ立ったままのロロナに眼を瞬かせた。
「あれ、まだ逃げてなかったのか。もう用は済んだの?」
「お、終わったけど、それよりあなた何を……」
「何って、こいつらも運び出さなきゃなんないだろ。このままじゃ確実に死ぬし」
あっさりと、カタナはそう言った。あまりに当然のことのように言うので、ロロナは一瞬彼が何を言っているのか上手く飲み込めなかったほどだった
「……助けるって、言うの? そいつを?」
ロロナには信じられない、カタナ自身、シジウスには殺されかけたというのに、何の理由があって生かそうなどと思えるのだ。
「そいつが、ここの闘士たちが何をやって来たかあなたは知らないの? 何人もの人を勝手な理由で殺している殺人集団、それが『人斬り剣獄』なのに!」
そう、彼らは凶悪な人斬りたちだ。何か理由があったとか、誰かの指示だったとかは関係ない。身勝手に人を斬る悪鬼は、敗れればそのまま死ぬべきなのだ。
「何人斬っても、悔い改めることも償うこともせず、殺すことが必要だったなんて嘯くような連中、ここで死なせた方がずっといい!」
誰に向けているともわからない激情に突き動かされてロロナは声を上げる。その怒りの矛先はシジウスたちなのか、それを助けようとしているカタナに向いているのか、それとも――。
「そいつらは、地獄に墜ちるのが当然の連中なのに!」
――自分がそうであるように。
ロロナは、息を荒げて言い切った。
そう、彼女は知っている。『異装十二剣』の情報を得るために闘技場の処刑人となった自分は、兄弟を取り戻すために何人でも斬り殺すことができる自分は、誰に言い訳もできない罪人なのだと。
「だから、そいつらを助ける必要なんて……ない」
カタナは、じっとロロナの言葉を聞いていたが、ふっと息を一つ吐いて目を伏せる。
「どんな罪人でもさ、おれほど罪深い奴はそういないよ」
「……、え?」
聞き違えたかと思い、ロロナは耳を疑う。しかし、カタナはそれに構わず言葉を継いだ。
「だっておれは、何人もの人間を喰い殺した――『けだもの』なんだから」
その言葉を告げた少年の儚い笑顔。それは、ロロナ=アンゼナッハの心に、生涯消えることのない光景として刻まれた。
●
カタナは思い出す。
故郷にかつて居た、病に倒れた家族の、人々の顔を。
「だっておれは、何人もの人間を喰い殺した――『けだもの』なんだから」
「――」
今まで激情を露わにしていたロロナは、カタナの言葉に表情を硬直させていた。カタナは、淡く笑って言葉を継ぐ。
「生きるために必要だったから? 誰かに強制されたから? ……狂っていたから? 理由は色々付けられるかもしれないけど、おれが自分で人を喰ったことに変わりは無い」
カタナは思う。
獣として生きた数年間、朧な記憶の中に残る、自分が喰い殺したはずの人々のことを。
「その人たちのことを覚えてすらいないおれは、シジウスたちよりも罪深い存在だ。犯した罪を都合よく忘れているんだから」
そして、ロロナの言っていることは間違いではない。どんな大義を持っていても、どんな事情があったとしても、人殺しは人殺し、罪は罪だ。
「だから、おれもやっぱり大罪人だ。死んだら地獄に墜ちて、餓えた悪鬼に永劫身体を食い荒らされるのかもしれない」
カタナは覚悟している。
獣に堕ちたあの日に、自分はある意味でヒトである資格を失っているのだと。
本来なら、一匹の獣として北の森で朽ち果てているのが、それこそ当たり前の結末だったということを。
「でも」
そして、カタナは忘れない。
己が今、なぜ紛いなりにも『人間』として生きていられるのか。
「そんなおれが死にそうになった時、見捨てずに助けてくれた人が居たんだ」
一人は剣の師匠、カーン=ハイド。
あの無口な老人は、カタナを厳しく育て上げた。いっそ途中で死んだ方がマシかと思われるほど、過酷な修業を幼いカタナに課した。
それはしかし、カタナに「強さ」を与えるためだったと今ならわかる。
重過ぎる過去を背負い、『帝国最強』の望みを叶えるために今を戦うカタナが未来に辿り着くためには、途方もない「強さ」がなくてはならなかったから。
そしてもう一人。
『その人』のことは、カタナは決して忘れない。
(――「しょーがない! ここは一つ、我に任せておくがよい!」――)
狂った獣、人喰いビト。
そんな風に誰もが恐れ、死んでしまえと石を投げる存在に、それでも手を差し伸べた人がいることを。
カタナ=イサギナは、そのことを、彼の全てに賭けて忘れはしない。
「だから、おれはどんな悪人であろうとも、『死ねばいい』なんて思うことはしない」
そしてそれ故に、カタナは己が獣に戻ることを許さないのだ。あの『獣』は、他の命を何の感慨もない日常として食い荒らす存在だから。
無論、剣闘士として生きることを決めた日に、人の生き死にを左右することは覚悟しているが。
「尋常な勝負の結果、誰かの命を奪ってしまっても、おれはそれを恥じたり、後ろめたく思ったりはしない。お互いに全力で戦ったことを誇って、その命と共に戦い続ける」
カタナが殺した誰かを「死んで当然だった」と切り捨ててしまえば、それはあの日の『あの人』の行いを踏みにじることと同じだ。
だからこそ、カタナはカガマの死に動揺したのだ。己は、憎しみでカガマを斬り殺したのではないかと。本当に、カガマという存在の死に敬意と誇りを抱けるのかと。
「ここに来てやっと確信できた。おれが闘技場で命を奪ったカガマ=ギドウと、ここの闘士たちは違う。カガマは、勝つことができたことを誇るべき男で、決して憎しみや怒りで斬り捨てた相手じゃない」
結局、カタナがカガマの影を追ってこの『剣獄』に踏み込んだのは、そのためだったのだ。
生きている間はついに理解することのできなかったカガマ=ギドウという存在に、一つの答えを出すために。
「だから、誰が『もう死んだ方がいい』と言っても、おれだけはこいつらを助けるよ。こいつらはまだ、生きている。きっと、『もう終わり』なんかじゃないんだよ、ロロナ。……君と同じで」
『車輪剣』と『獣爪剣』。二つの血に濡れた剣を手に立ち尽くすロロナにそれだけ言って、カタナ=イサギナは歩き出した。
●
「……」
そして。ロロナは、カタナ=イサギナが去って行った先を、ただぼんやりと見つめていた。
周囲には瓦礫が変わらず降っている。振動もいよいよ不穏な重々しさを感じさせて、一刻の猶予もないことが否応なく伝わってくる。
しかし、ロロナはその場を動くことができなかった。彼女の心は、この時完全に打ちのめされていた。
(おれはどんな悪人であろうとも、『死ねばいい』なんて思うことはしない)
「誰も彼も、死んで当然だと……思ってた」
ロロナは、いつも殺すべき相手を敢えて下らない存在だと思うようにしていた。何故なら、その方が罪悪感を味わうことがないのだから。
どんな綺麗事を言っている人間でも、それは同じはずだ。誰だって、善人を殺すよりも、悪人を殺した方が良心の呵責は少ないだろう。
だったら、殺した相手を悪人だったと思い込むようにすれば、自分が楽だ。
(誰かの命を奪ってしまっても、おれはそれを恥じたり、後ろめたく思ったりはしない。お互いに全力で戦ったことを誇って、その命と共に戦い続ける)
「私は、誇れないよ? 誰の顔も……覚えようだなんて、考えもしなかった」
ロロナは、普段、殺した相手のことを思い出そうとすることはない。何故なら、意識すれば罪悪感に押し潰されそうになるからだ。
あの時自分が首を斬り落とした、強盗行為を行っていた剣闘士は、生きていたら罪を償ってやり直せていたのだろうかとか、あの日斬り捨てた剣闘の闇賭博の胴元には家族が居たのだろうかとか、ふっと思ってしまっては、慌ててそれを頭から振り払うのがロロナの日常だった。
死んだ人は戻らない、だったら一度墓なり『英霊碑』に顔を出し、けじめを付けたらそれでいいじゃないかと思っていた。
だって、取り返しのつかないことに拘っていたら、自分が辛い。
「……何が、覚悟だ。何が……、『死者の刃車』だ!」
ロロナ=アンゼナッハに、人を殺してでも目的を遂げる覚悟などありはしなかった。ただ積み上がる罪から目を背けて、それで現実と向き合っているつもりになっているだけだったのだ。
「私は……卑怯者だ! この剣たちを取り返すことだけを考えているふりをして、自分のしたことから逃げていた!」
ただ目的に邁進しているように見せかけて、自分の背後に転がる、屍を見ないようにしていただけだ。
しかし、いくら『車輪剣』をがむしゃらに振るって血を払おうとも、その轍には死者がひしめき、ロロナを見ているのだ。
「どうして? どうしてあなたは自分が殺した人たちに向き合えるの! どうして殺した相手との戦いを、誇りだなんて言えるの!」
誰かが助けてくれたから? 馬鹿な。どれだけ衝撃的な出来事があっても、受け取る方にそれを昇華する器がなければ何にもならない。
(『もう終わり』なんかじゃないんだよ、ロロナ。……君と同じで)
分かっている、分かっているのだ。ロロナという人間の道程に誤りがあったことも、カタナ=イサギナが、それを正すために敢えて過去を語ってくれたことも。
しかし。
「私は、無理だよ……。自分が間違っているって分かっても、今さらやり直せない」
今自分の過去を否定してしまえば、本当にロロナ=アンゼナッハは終わってしまう。ロロナ自身が、彼女が許せないと思い続けた、私欲で剣を穢す者たちの一人であったと認めてしまえば、彼女の人生全てが無価値になってしまう。
だから、ロロナは動けない。このままでは死ぬと理性では分かっているが、ここを出て、その現実と向き合ってしまえば、己の方が崩壊するとも分かっているが故に。
彼女の行為は自殺行為、とは言えないだろう。これは己を精神的な死から守ろうとする、一つの防衛反応だ。
嫌なものは見ない、聞かない、考えない。それは誰もが持っている、当たり前の本能だ。
「……だったら。『車輪剣』、『獣爪剣』。ここで、あなたたちと一緒に――」
ロロナは、そう疲れたように呟いた。どちらにせよ死ぬしかないというのなら、ここで兄弟たちと共に眠りたいと。
それもまた、避け得ない恐怖を受け入れるための一つの本能。奴隷は己が身を縛る鎖の美しさを誇り、人は臨死に恍惚を錯覚する。
だが、彼女には、分かっていないことが一つあった。
「――ぁっ!」
今までの振動を大きく上回る激震と、それによって加速する崩落。ロロナは、はっと我に返り、その崩落の起こった場所へ眼を向ける。
そこは、カタナ=イサギナが向かったはずの、外部への出入り口付近。
「――イサギナくん!」
そのことに気付いた瞬間、ロロナは何を考える間もなく走り出していた。何をしようと考えていた訳でもなく、ただただカタナのもとへ向かって。
彼女には、分かっていないことが一つあった。
恋を知った少女は、恋した相手のことを思う時、他の全てよりもその胸の高鳴りを優先するのだということを。
己の過去も、死者の重みも一時忘れて、少女は少年へと逢いに行く。
その先にこそ、彼女が真に生きるための道があることを予感せぬままに。
●
「う、わ……完全に埋まっちまってる」
ククとシジウス、二人の『剣獄』の闘士を担いだカタナは、行く手を遮る瓦礫の山に冷や汗を流した。今の崩落は何とか躱すことができたが、お陰で道は途切れてしまった。
地上への出口付近は、崩落によって剥がれ落ちた天井や壁によって、とても人が通れる状態ではない。
周囲も随分崩れて来て、いよいよ完全崩壊も間近といった状況だ。
かなり真剣にカタナは焦る。剣でどうにかできることであれば何を恐れることもないが、流石に人間よりはるかに大きい石材やら瓦礫やらを切り開いていくのは荒唐無稽だ。
そうした命の危機に対する緊張と、そしてもう一つ。
「あれだけあの子に大口叩いといて脱出失敗、揃って圧死とか、格好悪いにもほどがあるだろ……今から戻って、道塞がってたどうしようとか、どのツラ下げて言えばいいんだよ……」
些細と言えば些細だが、少年という生き物にとっては、それもまた重要な問題ではあった。
とはいえ、なるべく早く合流すべきだろう。てっきりすぐに追いついて来てくれると思っていたのだが、まだ現れないのは落盤で迷ってしまったのかもしれない。
カタナがそんな風に、かなり温度差のある――はっきり言ってカタナの切り替えが早すぎるだけだ――ことを考えていると。
「……あっち。剣闘舞台の後ろに、非常用の脱出口がある」
「クク! 気が付いたか」
カタナの腕に抱かれた少年が、薄っすらと眼を開いていた。ククは、軽く息を喘がせながらも震える指を先に示す。
「……急いで。まだ、空気の通ってる『音』がしてるから、走れば、間に合う」
「よし、じゃあしっかり捕まってろよ。すぐに外に連れてってやる」
そう気合を入れるように声を上げたカタナに。
「……降ろ、せ」
今度は、背に乗ったシジウスが呻き声を上げた。
「シジウス?」
「……俺は、負けた。ならば、戦いの果ての死に様を晒すのが……『剣獄』の、道理。だ」
そう言って、シジウスは未だ自由にならぬ身体を揺らせてその場に落ちようとする。
「バカ! おいやめろって、だいたいここで死んでも誰かに死体見せる前に骨になるぞ。掘り出すのにどんだけ手間になると思ってんだよ!」
「いいから、逃げなよ。カタナ。……あんたが、おいらたちに勝ったんだから、あんたが生き残ればいい」
慌てるカタナに、ククもそう言って彼の胸を押して離れようとする。
「お前らなぁ!」
そんな二人の姿に、カタナはどうしようもなく苛立つ。それはどこか、かつて獣から人に戻ったばかりの己に似ているように見えたからだった。
「……『アイツ』も、あの時こんな気分だったのかな……。とにかく、こうなったら意地でもお前ら生きて返してやる!」
そう決意するが、現実問題ぐずるこの二人を抱えて遠い出口まで駆けることは容易ではない。
と、その時。
「イサギナくん!」
黒髪をなびかせて駆けて来る一人の少女、ロロナ=アンゼナッハが、カタナ=イサギナを呼んでいた。
●
「無事? ケガはない?」
慌てた様子で駆け寄るロロナに、しかしカタナは有無を言わさず、手の中のククを押し付けた。
「良かった! コイツを頼む。俺はシジウスを運ぶ!」
「え? ちょっと――」
「こっちだ。走れ!」
天の助けとばかりに、わがままな乗客の片方を託して、カタナは暴れるシジウスをしっかりと背負い直す。
「おい、離せ!」
「ちょ、お姉さん! 誰だか知らないけど、おいらはほっといてって!」
『剣獄』の生き残り二人が、そう喚いて強張る身体を動かして抗議するが、カタナとロロナは、妙に息の合った呼吸で一言。
『うるっさい!』
かなり不機嫌な口調までそっくり同じに、彼らの反論を封じた。
「負けたって言うなら黙って勝者に従え!」
「私だって今は色々考えないようにしてるんだから、あなたもちょっと黙っていなさい」
それぞれ抱える相手にそう言って、後はもう一目散に駆けて行く。
「ロロナ、足元気を付けて!」
「イサギナくん、上から崩落! 後あなた、いつから私のこと名前で――っと!」
「あたっ! 石で頭打った!」
「――くそ、どうして貴様らは……」
崩落を避け、小さな瓦礫は跳び越えて、二人は二人を抱えて崩れ行く地下を駆け抜ける。
もはや無事に残っている松明は数えるほどで、ともすれば足元さえ覚束ない中を、カタナとロロナは持ち前の反射神経と身体能力で走破する。
特に圧巻なのはロロナの動きだ。『獣爪剣』を肩に担いだククに持たせて、自分は片腕で『車輪剣』を引きながらカタナに遅れず付いて行く。車輪が越えられない段差は、『車輪剣』を足で蹴り上げて一瞬宙に浮かせることで乗り越える。カタナも舌を巻かざるを得ない、大した技量だった。
そして駆けることしばし。崩落の音はひっきりなしに続くようになり、二人の顔にも冷や汗が流れるようになった頃。
「見えた!」
どちらともなく、歓声を上げる。そこには半ば崩れかけた、しかし確かに大きく口を開けた通路への出口がある。
「入ってすぐ階段になってるから、気を付けて!」
流石に諦めたか、大人しくなったククが注意を呼びかける。シジウスも抵抗を無駄と悟ったか、黙って運ばれている。
「――上だ!」
その時カタナが鋭く叫んだ。彼らが出口を眼にした正に今この時に。彼らと地上への出口の間を遮るように大小の瓦礫が落ちて来る。
「――間に合わない!」
歯噛みするカタナがそう呻く。ここで道が断たれ、瓦礫が降り重なってしまえば、もはや外に逃れる術は無い。
だがその前に、ロロナ=アンゼナッハが大きく前へ踏み込んだ。
「あ、あああぁぁぁ――!」
大喝砕断。
剣闘界最大武器、『車輪剣』の面目躍如と言うべき一振りは、片腕で放たれた不十分な斬撃だったにも関わらず、降り注ぐ大小の瓦礫のあるものは微塵に砕き、あるものは二つに割り裂き、あるものは強引に軌道を変えた。
この一撃で、落ちる瓦礫は彼らの眼前から排除され、出口への道は大きく開かれる。
「イサギナくん、早く!」
しかし、彼らに喜色を表している暇はない。既に瓦礫は嵐のように地下空間を埋め尽くそうとしていて、彼らの頭上では、今まさに決定的な破滅音が轟いているのだ。
だが、その時。
「――っあ、あぁ!」
全霊での斬撃を放ったロロナの手から『車輪剣』が抜け落ち、大きな音を立てて床へと転がった。
それは肩の傷に耐え、片腕で超重量の『車輪剣』を引いて走り、さらに無理やり放った一振りで力を使い果たしたロロナの、必然とも言うべき結果だった。
背後に取り残された『車輪剣』を振り向いて、ロロナの顔が絶望に染まる。
それは、究極の二択。
『車輪剣』を捨てて生き残るか。
それとも、『車輪剣』と共にここで死ぬか。
一度は振り切ったはずの『死』の想念が、最後の瞬間に彼女を捉えたかのような、これはいっそ悪魔的なまでの必然だ。
ただし、その時選択をしたのは、ロロナではなかった。
ロロナは、その時動くことはできなかった。カタナと共に生還するか、『車輪剣』と共に死ぬか、釣り合った天秤のように、双方を抱えて動けなかったのだ。
だから。その時動いたのは別の人間、――『獣爪剣』のシジウスだった。
「――おぉぉ!」
「シジウス、何を――!」
身体に残された力を振り絞り、虚を突かれたカタナの背から飛び降りるや駆け出した彼は、地に落ちた『車輪剣』を掴むと、両膝を着いた己の身体で背負い投げるようにしてロロナの足元へと投げる。
「っ!」
足元に突き立った『車輪剣』を咄嗟に掴み取るロロナ。それを見届け、シジウスは叫ぶ。
「――行けっ!」
「シジウスっ!」
ククが、幼い顔を悲痛に歪めて叫ぶが、シジウスの頭上からはさらなる崩落が続いていた。
ロロナは限界。カタナにもククにも、どうすることもできない大質量は、力尽きたシジウスを押し潰す。
「ちちうえ……」
その一瞬前、最後に、シジウスはそう呟いた。
最後に彼が思えることなど、結局はそれだけなのだと言うように。
そう、それも当然。シジウスという男は、『剣獄』で生き、『剣獄』で死ぬための人生を歩いて来たのだから。
……この時までは。
●
それは、一陣の疾風だった。
立ち尽くすカタナに、そしてロロナに認識すらさせずに駆け抜けたその風は、次の瞬間には雷霆となって、シジウスの直上に迫っていた瓦礫に直撃。
「――無刃」
その静寂すら感じさせる声とともに、ぴしりと、宙の石くれに亀裂が走り。
「破城脚――!」
それは文字通り、木端微塵に砕け散った。
「……な?」
頭上で起きた異様な破壊に、シジウスが、唖然と宙を見上げて目を見開いている。細かい破片が彼に降ってはいるが、ほとんど無傷だ。
「……アダムさん」
ロロナが、呆然と、その疾風の名を呼んだ。
「ロロナ。よく無事だった」
薄暗い地下に、一人の男が立っていた。カタナは息をするのも忘れて、その男に見入っていた。
「初めまして、カタナ=イサギナ。後輩が世話になった。君に感謝を」
一撃で、人体よりも巨大な石の塊を蹴り砕いたことなど、もはや驚く気にはなれない。
それくらい、やってのけて当たり前だ。
この男こそ、正真正銘の『王』――『帝国最強』の剣闘士なのだから。
「私は、エイデン商会所属剣闘士、アダム=サーヴァ。積もる話は、外ですることにしよう」
そして、『闘技王』アダムのその言葉が――『人斬り剣獄』最後の夜を締めくくる言葉となった。




