壷毒崩壊
「ひ、ヒィッ、ヒィッ!」
老人は、必死に薄暗い階段を上っていた。
それは、地下闘技場『人斬り剣獄』の創始者である老人。彼は、突如崩落を始めた地下から一部のものしか知らない裏通路から一人脱出している最中だった。
背後からは、ひっきりなしに響く落下、衝突、破壊の轟音。
その音に追い立てられて彼は全霊を込めて足を上げるが、加齢で萎えた足腰は重く、歩みは遅々として進まない。
「……息が、苦し……」
喘ぐように弱音が零れるが、それに答えて彼を気遣う者はいない。
老人に付き従っていた手駒は、既に崩落する瓦礫に押し潰されて骸と化している。運動能力に劣る彼が難を逃れ生き延びられたのは、単に運が良かっただけに過ぎない。
「なぜ、儂が、こんな苦労を……!」
しかし、今の彼の脳裏を占めるのは、幸運への喜びでも未だ続く危機への恐怖でもない。
(不条理だ! 儂がこんな目に遭うようなどんな悪事をしたという!)
義憤。
老人は『理不尽にも』自分に降りかかる災難に対しての怒りに燃えていた。
(この、『夢の場所』を造り上げるのに、儂がどれだけの金と時間を費やしたか! 食い詰めた剣闘士やその志願者たちを釣り上げ、才能のある子供をかき集めて育て上げ、そしてようやく完成した、死に満ちた、儂のための闘技場!)
彼にとってこの地下闘技場は、何ら恥じるところのない、下らない外聞さえなければ帝国中に宣伝して回りたいほどに誇らしい最高傑作だった。
ここで死んでいくものたちに対しても、罪の意識などは欠片もない。彼にしてみれば、この素晴らしい舞台の一員として参加し、その命を捧げ、自分を楽しませることができるのは、誰もが羨むべき光栄な最期だとさえ言えたからだ。
何故なら、この老人にとって『人斬り剣獄』とは、人生そのものであったのだ。
生涯を通して手に入れた財をつぎ込み、何十年も求め続けた自分の理想をこの世に生み出したのがこの場所だ。
それが、今無残に崩れ落ちていく。
「おお、おぉ……!」
いつしか、老人の皺の走った顔には熱いものが流れていた。
知らぬ者がその表情を見れば、その哀切は愛しい孫を幼くして失ったばかりだと言われても納得するだろう。しかしその実態は、慈愛からは程遠い。
「許さんぞ、カタナ=イサギナ。許さんぞ、『闘技王』の手下め! 儂の持てる力の全てを以って、必ず貴様らに報いをくれてやる!」
哀怒に酔った老人は、この事態を招いたと思い込んだ対象に、呪いの言葉を吐き出す。地下の急激な崩落を誘発することができるのは組織内部のものだけだというごく当然な推測は、激情に流されて思い至れない。
「……む!」
と、よろよろと段を上る老人の視線の先に、僅かな星明かりが垣間見えた――出口だ。
どうにか命の危機は切り抜けたと、流石に安堵を露わにした老人は、へたり込みそうになるのを何とか堪えて、膝に手を置くようにして残る階段を上りきる。
「ふ、ふぅ……」
そして、自分自身じれったくなるような数分をかけて、ようやく老人は死に満ちた地下から地上へと生還を遂げた。
精根尽き果て、老人はその場に座り込む。吹き抜けてゆく風が、汗みずくの顔に心地よく当たり、生を拾った実感が湧いてくる。
助かったのだ。
「……助かった……は、ハハ。そうだ、儂はまだ生きておる。ならば何度でもやり直せる。必ず、『剣獄』を再建してやる。そして」
必ずまた、剣闘士の死に様を見物するのだ。
そう、心に誓った瞬間だった。
「『剣獄』の主よ」
星の煌めく上空から、冴え冴えとした声が降って来て。
「貴様にかける言葉は何も無い。そして、貴様にはもう『次』など無い」
その言葉を脳が受け取る間があったかどうか。
「――は?」
老人のしわがれた首が、鮮血と共に宙へ舞った。
●
数分後。己の罪深さをまったく自覚することなく死に絶えた老人。その男の屍が崩れ落ちた場所に。
「いた、おいアダム!」
ミスマ=ベイフは、慌てた声と足取りで駆けつけた。
そして、その場に立っている自分が雇っている(形になっている)剣闘士に息を切らして声を掛ける。
「はあ、下を監視してたと思ったらいきなり屋上から飛び降りやがって。階段使えよまったく……で、そいつが親玉か?」
「……」
ミスマは剣闘士――『闘技王』アダムの無反応を気にした風もなく、さっさとしゃがみこみ、老人の首を検分する。
「……ああ、確かに。情報通り、『人斬り剣獄』の設立者の爺さんだな……悪趣味に金つぎ込んだ挙句に犬死にか。長い割に残念な人生だったな」
ミスマが調べた限りでは、この老人は身寄りもなく、身一つで商売を立ち上げ巨額の財を成した成功者だったはずだ。まっとうに余生を送れば、何不自由なく老いて死ねるはずだったのに、たった一つの妄執がこの男を狂わせた。
その挙句、己の欲一つを満足させるために多くの人を殺し合わせ、その果てに自らもこんなところで果てることとなる。
「自業自得とはいえ哀れな……ってアダム、どこ行くんだ?」
「地下だ」
ミスマの声に、剣を地に突き立てた『闘技王』は歩みを止めず簡潔に答えた。
「まだロロナが戻らない。お前は先にディムの方へ」
「待てよおい、下は崩落の真っただ中だろ! 今から行ったら、いくらお前だって無事に済むか……」
慌てふためくミスマの言葉に、しかしアダムは動じた様子もなく足を進める。
「ロロナを行かせたのは私だ。ならば、私にはその結末を見届ける義務がある」
それだけ言って、アダムは未だ轟音の響く地下への入口へと駆け込んでいき、すぐにその姿は闇に沈んでしまった。
「ああ――! あの野郎、やっぱり連れて来るんじゃなかった! 『闘技王』になってもちっとも昔と変わらねえ突撃主義め!」
そうして悪態をつくも、ミスマはアダムの後を追って引き留めようとはしない。言って聞く相手ではないと長い付き合いでわかっていたからだ。
「しかも面倒な上の処理をさりげなく押し付けて行きやがるし……」
しかしそう愚痴を言いつつも、ミスマの口元には僅かな笑みがあった。
「まあ、アダムが行ったなら、ロロナの方は何とかなるか……じゃあ、こっちもきっちり仕事しないとな」
●
アダムが地下へと駆け出したその時、ロロナ=アンゼナッハは地に膝を折っていた。
「……っく」
彼女の肩に走るのは、鮮血の流れ出る四条の裂傷。金属補強の為されたコートを楽々と引き裂いた『獣爪剣』の傷は深い。骨までは達してはいないだろうが、この状態では巨大な『車輪剣』を振るうことは困難だ。
だが、ロロナに傷を付けた地下の王シジウスは、それ以上彼女に近づこうとしない。
何故なら――。
「わざわざ刻まれに出て来るか! どうやら命が要らんようだな、カタナ=イサギナ!」
ロロナとシジウスの間を遮るように、一人の少年が立ちはだかっていたからだ。
「要らないわけがあるか! 何でもかんでも殺し合うしかないあんたらと一緒にするなよ」
彼は右手に剣を持ち真半身に刃を突き出した体勢でシジウスの殺意を跳ね返す。
「あなたは……だれ?」
ロロナは、驚きの色を隠せない声で少年に問い掛ける。敵地に単身飛び込んだ彼女は、そこに部外者がいることも察していなかった。
「どうしてここに? なぜ、私を――」
「おれはカタナ=イサギナ。君と同じ、剣闘士さ」
少年――カタナは、そう言って刃を握り直す。その背に、鋭く強い戦意が奔ったのがロロナにも見て取れた。
「話は後にしよう。とにかく今は、あいつを倒すのが先だ」
それだけ言って、カタナはシジウスへと挑みかかって行った。
そしてロロナは座り込んだまま、そんな少年を呆然と見つめていた、もはや、その先に居るシジウスのことも半ば忘却して、カタナの姿を追っている。
(――『同じ』?)
少年に言われたその言葉が、頭の中で反響し続ける。
右手に握ったままの『車輪剣』の車輪が、からりと小さな音を立てて空転した。
●
「話は後にしよう。とにかく今は、あいつを倒すのが先だ」
と、カタナが言う間にも壁面が崩れいくつもの瓦礫が地下空間を揺らす。客や私兵たちは、このどうしようもない命の危機に、今まで以上に泡を喰って逃げ出している。もはやカタナたちに構っている暇は彼らには無い。死にたくなければ一刻も早くこの場から逃げなければならない。
そしてそれはカタナとて同じことだ。ここが完全に埋まってしまえば助かりようがない。冷静に見れば広大なこの剣闘場が瓦礫に埋め尽くされるにはまだ多少余裕はあるが――。
「貴様に、後などないぞ、カタナ=イサギナ!」
この男、『獣爪剣』のシジウスの存在を思えば、そんな猶予は無いも同じだ。
「――ハッ!」
先手必勝。カタナは真半身の体勢を保ったままシジウスへ向かって行く。
この、敵の正面に差し出した刃の陰に自分の身体を置いた状態がカタナの基本的な戦闘態勢だ。
いわばこの刃は盤上の急所に置かれた大駒だ。シジウスがどう攻めても、この『姫斬丸』を突破しないことにはカタナの身体には傷一つ付けることはできない。
しかし、シジウスとて伊達でこの『剣獄』の王となったわけではない。
「この『獣爪剣』を甘く見るなよ!」
一喝と共に、四本の爪がカタナを襲う。その軌道は、今までロロナに使っていた時間差をつけたものではない。全ての爪が同時に『姫斬丸』にぶち当たり、剣をカタナの身体ごと弾き飛ばす。
「つぁっ」
すかさず体勢を立て直して向き直るが、シジウスは息つく間を与えずに再度『獣爪剣』を振るう。今度は従来通りの時間差攻撃だ。
喉元を抉るように連発される爪を、カタナはあるものは剣で弾き、あるものは躱して捌く。
「今!」
そして四本目を潜り抜けると同時に反撃に移る。攻撃の終わり際を狙ってのこの逆撃は完璧なタイミング。
「甘いぞ」
「――なに!」
だが、相手は『異装十二剣』の使い手、『獣爪剣』のシジウスである。
彼は、最初に躱された一本目だけを器用に引き戻し、カタナの剣を防御していた。
「何のために、この爪が四本あると思っている?」
事も無げに言うシジウスだが、片手で一本は攻撃、また一本は防御と使い分けることなど、並の技術と柔軟性ではない。
「さあ、実力差は思い知ったか? そろそろ……死ね!」
そして、再び横殴りに襲い来る四本の爪。カタナは腕を浅く切り裂かれつつも何とかそれから逃れ、必死で頭を回転させる。
(奴の攻撃は、大きく分けて二種類。四本同時に広範囲を攻撃する「薙ぎ払い」と、時間差を付けて一点を責める「突き通し」だ)
前者は、威力は分散する反面広い範囲に攻撃できる。
そして後者は、ごく狭い範囲しか狙えないが、その分威力は非常に高い。
シジウスは状況に合わせてこの二つの攻撃方法を使い分ける。重く広範囲を守れる『車輪剣』には一点を貫く時間差攻撃、速いが軽いカタナには広範囲の薙ぎ払いを中心に攻めてくる。
どちらにしても、己の武器の特性を熟知していなければ使えない、厄介な敵だった。
「こういう、敵に対応するには……その、特徴を……」
「なにをぶつぶつと言っている!」
手傷を負いつつも粘るカタナに焦れたか、シジウスが怒声と共に深く踏み込んで来る。近距離からの薙ぎ払いで、防御ごとカタナの身体を引き裂く構えだ。
「これで、終わりだ。カタナ=イサギナぁ!」
そう、吼えたのと同時。今にもカタナに襲いかかろうとしたシジウスの右腕が、まるで見えない壁に当たったかのように停止した。
●
「……な」
シジウスは、眼を見開いて己の右腕を見た。否、正確には、彼が持つ『獣爪剣』と――。
「敵の武器が特殊な場合、弱点はその長所の裏側にこそ在る……だったな、師匠」
――『獣爪剣』が持つ四本の爪、その間に剣を差し込み、楔としてシジウスの剣を封じたカタナ=イサギナを。
「『獣爪剣』の特性は、一本の剣でありながら四つの刃を持つということ。それが広範囲攻撃と時間差攻撃を可能とする長所なら――」
カタナが、爪に剣を噛み合わせたまま刃を捻り上げる。そしてその動きは『獣爪剣』にも連動し、シジウスの右腕が大きく開く。
「弱点も、その四本の刃にこそある!」
狙い澄ませたカタナの蹴りが、がら空きになったシジウスの鳩尾に突き刺さった。
●
「ご、がはっ……!」
内臓まで突き抜ける衝撃に、シジウスは胃液を吐きつつも大きく後退する。何とか腕を振って『獣爪剣』を引き戻すが、カタナ=イサギナは、見出した勝機を逃さない。
「終わらせるぞ、『人斬り剣獄』!」
一気にシジウスの懐に入り込み、剣を縦横に閃かせる。シジウスは柔軟な関節を活かしてその斬撃を『獣爪剣』で弾くが、呼吸もままならない状態ではその剣にも力は無い。
普段はそれぞれ指先のように扱える四本の爪が、統制を失って狼狽えるかのように窮屈に動く。
「お、のれ……!」
今や、勝敗の天秤は大きく逆転していた。そしてシジウスは、この状況から巻き返せる手は持っていない。
「何故……だ? おれは、力も、技もお前より優れている。速さでも、武器でも、負けてなどいないはずなのに……!」
――何故、この『獣爪剣』のシジウスは追い詰められているのだ?
「お前は、敵を殺したいんだろう? シジウス」
疑問と狼狽の気配を隠せないシジウスに、カタナは剣を振るいつつも静かに告げる。
「だけどおれは、剣闘士は、戦う相手に勝ちたいんだよ――誰より強くありたいだけなんだ。だから……」
――敵を打ち倒すのは、過程でしかない。何より大事なのは、己が高みに行けるかどうかだ。
そう、カタナはシジウスへと己の在り方を突きつけた。
「だから、誰かを引き摺り下ろすために戦うお前は、剣闘士には勝てない!」
そして、腰溜めの体勢から打ち出されたカタナの一撃が、シジウスの右手を貫いて。
「が、ぁ――!」
だがシジウスは、激痛の中、それでも耐えて右手に力を込める。
「養父上、貴方に、至高の死に様を……」
己が支えとなる存在を求めて彼の視線が上空へと飛ぶが、当然そこには崩れ行く壁面が闘技場の終焉の様を晒しているばかり。
「ああ……」
彼はそこに一体何を見たのか。
全てを失った諦めの声と共に、ついにシジウスの右手から力が抜ける。
『剣獄』に君臨した王の剣。『獣爪剣』が、地へと落ちた。
●
――終わった。
シジウスが腕を抱えて地に伏せるのに、カタナはそう確信した。
流石に疲れた。クク、『剣獄』の闘士たち、そしてシジウスと、息つく間もない連戦を繰り広げて来たのだ。これで以前カガマとの激戦で負った傷が開かなかったのはちょっとした奇跡でさえあっただろう。
だが、そんな風に思う彼の弛緩をまるで狙っていたかのように。カタナの背後、積み重なる瓦礫の蔭を縫うようにして忍び寄る人影があった。
それは歪な影。落盤で片腕が潰されているが、それでも構わず前進する常軌を逸した男。
そして、殺気を込めて迫るその人影に、カタナが気付いた時には既に彼の頭上には黒々とした輝きを宿す刃が落ち掛かって来ていた。
「なっ!」
それは、剣獄の闘士。撃ち倒され、瓦礫に潰され、正気のものは逃げ出して、そうした果てに残った、最後の狂気を持つ一人。
彼は殺せと命じられた対象を殺すまで絶対に止まることのできない破壊衝動を植え付けられて、今この瞬間を迎えたのだ。
「死ネエェ――!」
そして今、最良の隙を突いて、その男は殺害対象の抹殺に成功する。
その、寸前。
「『車輪剣』!」
大気を切り裂く轟音と共に、巨大な鉄塊が飛来、男の狂った脳髄を打ち砕いた。




