嵐天に墜つ 後編
幼い頃から、誰かを見下すのが好きだった。
己より劣ったものが足掻いているのを、高みから嘲笑するのが好きだった。
『大鎌』のヨナンは、シュームザオンにほど近い小規模都市の貧民窟に生まれた。
そこは、人生の敗残者の吹き溜まり。
親に捨てられた子。子に捨てられた親。主から逃げ出した奴隷。没落した元貴族。誰も彼もが、人としての尊厳を失って流れ込んでいた毒壷だった。
ヨナンの両親もまた、そうした敗残者たちの一部だった。
割合に目端が利いて身体も丈夫だったヨナンは、貧民街のあちこちで乱闘騒ぎや物乞いのあがりを掠めるようにして生活しながら、周囲の人間を嘲笑って過ごしていた。
彼は生まれつき、腹を満たす食事よりも、清潔で暖かな寝床よりも、ただ誰かを見下すことに幸福を感じる人間だった。その意味では、彼にとって人生の落伍者が集うその貧民窟はこの上ない住処であり、故郷だった。
しかし、そんな日々も彼が十五になるころに終わりを告げる。
貧民窟で疫病が発生し、感染の温床として、帝国軍に街ごと焼き払われたのだ。
●
闘技場の壁内を歩きつつ、ヨナンは含み笑う。
雨が降って来たのでさっさと引っ込んでしまったが、あの分なら程なくカガマが勝つだろう。
カタナ=イサギナに毒が過剰反応して目の前で倒れられた時は、全て発覚するのではないかと肝が冷えたが、結局剣闘まで出て来たのだから、誤魔化すことは難しくないだろうと、ヨナンは頷く。
今、ヨナンの生活は充実している。故郷を焼き出されてから、現在に落ち着くまで色々と苦労が多かった分なおさらに。
特に、食い扶持を求めて剣闘士となった後のヒューバード商会時代は、ヨナンにとっては最低の時間だった。
弱い剣闘士をいたぶれるかと思っていたら、自分の実力では太刀打ちできない連中がゴロゴロいた。どころか格下の剣闘士たちも、諦め悪く自分に食い下がって来て、逆転負けすることさえしばしばあったのだ。
――つまらない。どいつもこいつも、上を目指して昇って行く。無様なヤツはいないのか。俺が見下せるヤツはいないのか。
そんな鬱屈していた時期に、自分は手に入れた。あの薬――アカネツタとその使い方を。
●
カタナは、ぎっ、と歯を噛み締めて眼前の敵、カガマを見た。
「ここまで来てやっと気付くなんて、おれも鈍いな」
今になって思い起こせば、僅かな違和感はあったのだ。
「カガマ。貴様は、ヒューバード商会が剣闘士の世話もできなくなったから見限ったと、そう言っていたな」
「今更どうした。お嬢に代わって恨み言でも言いたいか」
カガマは誘うように挑発するが、カタナは取り合わない。
「だけど、それはおかしいんだよ。順序が逆だ」
何故なら、ヒューバード商会が経営危機に陥り人員を流出させ始めたのは、カガマの逃亡の『後』だからだ。
「お前が『闘技王』との戦いを目前にして消えてしまったから、その代償に商会は資産のほとんどを失った」
逆に言えば。それまでは、商会に資金も人員も残っていたということになる。
カガマが壊すまで、商会は主を失った後も再建に向かって動いていた。
すなわち――。
「お前がヒューバードを捨てた動機は、完全に矛盾しているんだ」
静かに問い詰めるカタナの指摘に、カガマは数秒考えるように沈黙していたが。
「さあ、どうなのかな。あの頃のことはもう覚えていない。ヨナンがそう言っていたのだから、多分そうなのだろうと思っていただけだ」
平然と、そんな風に言った。
「な、に?」
言い放たれた言葉の異様さに、カタナは表情を引きつらせる。
「自分のやったことだろう? なんでそんな……」
「大体、俺は『闘技王』から逃げたつもりもないんだがな。気が付いた時には、もう今の商会に所属していたような気さえする」
淡々と、カガマは語る。己の言葉がどれだけ常軌を逸しているのか、彼はまったく自覚がないようにカタナは見えた。
「最近はいつもそうだ。数日もすると記憶がぼやけて、誰と会ったか、何をしていたかが曖昧になってくる。ヨナンに言われれば、ああそんなこともあったかと思い出すが」
例えば香水も、ヨナンがいつもの香水だと言えば、そうだったと思い出すのだと、カガマは特に感慨もなく説明する。
「……」
カタナは、絶句して硬直している。今まで切り結んでいた目の前の男が、得体の知れない怪物のように思えて、雨の冷気のためではない鳥肌が立つ。
(これは、まさか……)
使用を誤れば精神を壊すという劇薬、アカネツタ。
今のカガマの精神は、明らかに尋常ではない。毒物などによってなんらかの異常を引き起こされているとカタナは直感する。
記憶が無いこと以上に、それを自覚していながらこの態度。正気のものとも思えない。
「カガマ……なぜ何も疑問に感じない? 自分の記憶に異常があるんだぞ!」
「今の俺に不利益があるわけでもない。『どうでもいい過去』が思い出せないからといって、それがどうした?」
一見会話が成立しているように感じられるのが逆に違和感を煽る。この男は、自分が異常な状況にあるとわかっていながら、何の疑問も感じていない。
カガマにとっては、己に傷つけられる全ては他人事――彼をそう評したのはエインだったが、それどころではない。彼は自分の内側が蝕まれていることにさえ、何も感じてはいないのだ。
「……人間じゃない」
カタナが。人ならぬ獣として生きた経緯を持つカタナ=イサギナをしてそう言うしかない異形感の塊。それが今のカガマ=ギドウだ。
彼は、カタナの動揺も嫌悪も無視して、片腕のみで半壊した『十字槍』を構えた。
「さて、お喋りは終わりだ。いい加減この雨にもうんざりだからな。さっさと終わらせるとしよう」
●
商会長を失って浮き足立つヒューバード商会で、ヨナンは『その薬』を使用した。
標的は、普段から隠れ蓑に使っていた剣闘士、カガマ。
奴の周囲に対する無頓着さはその威を借りるのに都合がよく、また罠に嵌めるのにもうってつけだった。
前もってカガマに睡眠薬を飲ませておき、周囲が寝静まった頃にカガマの部屋に侵入。
『闘技王』を恐れて逃げ出したように置手紙などを偽装して、商会からカガマを運び出せば、後は特製のアカネツタを焚き込めたねぐらに放置しておけば一丁上がりだ。
明くる一日、ヒューバード商会の連中の大騒ぎときたら、ヨナンの人生でも屈指の見世物だった。
カガマを探して、右往左往する剣闘士。
必死の形相で、他の商会に泣きつく職員。
そして何一つできず、ただ呆然と立っていた商会長の小娘。
我ながら、辺り構わず笑い出してしまわなかったのが不思議なほどだった。何もかもが、ヨナンの大好きな無様さに塗り潰されていた。
そしてヨナンはさっさと商会を離脱し、カガマという極めて使い勝手のいい道具を活用して生活を始めた。
アカネツタの解毒作用を活用して、コトイキクの香を証拠を残さずに嗅がせる仕組みを作ってからは、カガマのみならずヨナンの対戦相手にも毒を使って『大鎌』の二つ名を得ることも成功した。
称号などに興味は無いが、凡百の剣闘士たちをまとめて見下せる地位は中々に快適だった。
身体と頭はそのままに、ただ心だけが破壊されたカガマ。ヨナンが教え込めば、毒を香水と思い込み、自分が望んでヒューバードを捨てたと納得する。どんなことでも当たり前だと信じ込む彼は、この上もなく便利で――この上もなく無様だった。
「ん?」
ヨナンは、ふと気配を感じて立ち止まる。
「つまり、本命はあくまでもカガマを意のままに操るためのアカネツタ。万一にもカガマの精神が回復しないように、継続的に毒を与え続ける必要があったんだね。だからコトイキクは、あくまでオマケだった」
彼の歩く先に、一つの人影が立ちはだかっていた。
「……てめえは」
ヨナンは低く呻き、背に負っていた獲物の大鎌を構える。
それは、黒い長衣に身を包んだ小柄な少年――否、少女。
「道理で、効果に比べて隠蔽が周到過ぎるわけだ……ついさっきカタナが気付くまでボクも気付かなかったよ」
ヨナンが捨てた商会に最近入った新人剣闘士、暗器使いのリウ=シノバが、得物の暗器を晒して立っていた。
●
「でも、単にアカネツタを服用しただけじャ『ああ』はならない。あんたは、一体どこからこんな高度な毒の調合方法を仕入れたのかな? ボクの里も知らないほど深い毒薬知識なんて、そうそうあるとは思えないんだけどね」
言葉とともに、鎖分銅の『縛』を軽く振り、蛇がのたうつように床に這わせる。
「まあ、締め上げて全部吐かせるって予定には変わりないか。従犯が主犯に変わっただけだし。でも、お陰でヤっとわかったヨ。対戦相手――カタナだけに毒を吸わせた方法が」
リウは、ヨナンの警戒に構わず『縛』を操作して、二つの円を半分重ねた形を描いた。
「まずカガマには麻痺毒の香水を付けさせて、カタナをその効果範囲に収める」
鎖の円の一つに、『針』を突き立てて固定する。
「その背後では、あんたが中和作用のあるアカネツタの香水を付けて、カガマを効果範囲に入れる。これであんたとカガマだけが毒を無効化できる寸法だ」
毒と薬。二人の人間が役割を受け持つことでこの仕掛けは成立している。
「香水なんて風向き一つで効力範囲も変わる。室内で、しかも止まった相手でなければ使えない不確実な手だけど、それだけに発覚しにくい。性格の悪さが滲み出てるヨ」
しかし、とリウは嘆息する。
「毒をバラ撒く犯人が、別の毒を盛られているなんて冗談にもならないね……しかもこの方法、あんた自身も同じだけの毒を浴びることは免れない。はっきり言って正気の沙汰じャない」
解毒薬と言えば聞こえはいいが、アカネツタ自体も一歩間違えればコトイキク以上の毒物となる代物だ。
カガマに付き合ってアカネツタの香水を付けていた以上。ヨナンの精神も何らかの異常を抱えている筈だった。
「そこまでして、他人の足を引っ張りたいのかな?」
侮蔑も露わに吐き捨てられたリウの言葉に、しかしヨナンは傲然と胸を張った。
「当たり前だ。俺は、そのために生きている」
「……」
「確かに幻覚は見るし、頭痛はひっきりなしだ。ここ二、三月はまともに寝れた覚えもねえが、それがどうした? 俺は他の連中を見下せるなら、何でもいいのさ。俺には最初っから、それしかねえんだ」
リウの耳は、この言葉が、毒による錯乱ではなく純粋な本心から出されていると読んだ。
歪んでいるし、汚らわしい。正直聞くに堪えない、雑音以下の妄言だ。
「見下してやる、見下してやる、引き摺り落としてやる。それを見れば俺は満足するんだ、満たされるんだ幸せになるんだ……。誰にも邪魔なんざさせねえ!」
しかし純度だけは眼を見張るものがある。昨夜のカタナでさえ、ここまで平然とアカネツタの毒性を受け入れはしなかった。
「ああ、ヨくわかったヨ。あんたが正真正銘、他人を踏みつけながらでないと呼吸もできない人種だってことが」
生まれてきたことが間違い。そう評すべき人間は、リウのこれまでの経験でも多く会った覚えはないが、確かにこの男はそれに当てはまる。
「……身体も頭もまともなままで、心だけを壊す毒か。そう言えば昨日、それが欲しいと思ったりしたけれど」
「あん?」
遠く耳に届く、カガマの言葉がどうしようもなく気味が悪くて、リウは顔を顰めた。
「正直ドン引き。カタナをあんな風にしてしまわなくて本当に良かった。自分の自制心を褒めてあげたいヨ」
危うくこの男と同類になるところだったと思えば、さしものリウも冷や汗を禁じ得ない。
ヤっぱり現実と妄想は分けて考えなきャね、とリウは一人ごちる。
「だって……今のカタナだからこそ、ボクは壊してでも自分のものにしたくなるんだから」
「……勝手に盛り上がりやがって」
今度はヨナンの方が、逆に気圧されたように頬をひくつかせている。
隙あらば攻め込んでやろうと考えていたようだが、生憎リウは興奮すればするほど技と精神が冴えてくる性質であり、付け込む隙はどこにもない。
「ああ、そうだね。じャあ、とっとと捕まえて、諸々吐かせてあげヨうか」
恍惚の気配を残したまま、リウが笑みとともに暗器を繰る。
「カタナがボクに人を殺して欲しくない、なんて言うもんだから、あんたみたいなのでも生け捕りにしなきャね。ホントに、カタナってばボクに面倒ばっかり押し付けるんだから!」
そして、実に嬉しそうな表情のまま戦いに突入。
しようとした、瞬間。
「――何? この……『音』」
通路の向こうから、リウがこれまで聞いたことのない音が聞こえて来た。
重く、軋む。
突如闘技場内に発生した、『何か』がゆっくりと近づいて来る音。
リウはたった今までの高揚も、目の前のヨナンのことも忘れ、そのどこか不穏を感じさせる音に意識を集中させる。
「これは――車輪?」
直後。
彼女は、地獄に住まう死神の刑具を眼にすることになる。
●
嵐に吹かれる観客席の片隅で、『闘技王』アダムは眼下の戦いを眺めていた。
「やはり、哀れな槍だったな」
彼の目線は、カタナでもカガマではく、欠けて歪んだ一本の槍に注がれている。
アダムの眼には、雨に濡れて一振りごとに雫を散らすその槍は、主人にいくら尽くしても報われることないことに涙しているように見えた。
「……惜しい剣闘士を失くしたと、残念に思うよ。かつてのカガマ=ギドウ」
剣闘場に背を向けて、アダムは何処かへ歩き出す。
「せめてその仇、私の配下が取ることで餞としよう」
●
ぎぃ、ぎぃ、と重苦しい音を立てて車輪が進む。
「――あ、ああ……!」
『大鎌』のヨナンが、畏怖の混じった驚愕の声を上げる。
「――な」
リウも、息を呑んで『それ』を見つめた。
『それ』は、車輪とともにやって来た。
巨大な、刃渡二メートルを超える、もはや冗談じみた大きさを持つ片刃の大剣。
剥き身の切っ先の峰側に、挟み込むように取り付けられているのは、二つの鉄の車輪。その車輪が地面に轍を残し、剣の巨体を支えている。
そして剣の柄を持ち、歩む一つの人影。
「『大鎌』のヨナン」
深緑の外套を纏った長躯が一歩進むごとに、凄まじい重量の剣の負荷を受ける車輪が軋みながら続く。
「て、てめえは……」
呼ばわれたヨナンが、常に揺るがなかった傲岸さを消し飛ばして数歩退く。
彼の眼に宿るのは、絶対的な『死』の予感への恐れ。
平然と毒を呷るこの男が、明らかな動揺とともに恐怖していた。
「『闘技王』――アダム=サーヴァの命により」
彼の眼は、車輪の取り付けられた鉄塊と呼ぶべき大きさの剣と、それを引き摺る一人の少女に釘付けになっている。
「しゃ、『車輪剣』の――!」
それは、シュームザオンの誰よりも多くの血を闘技場に捧げた武器の銘で。
「剣闘を汚す愚者に、断罪を」
それを振るう、血濡れた剣闘士の少女の二つ名であった。
「お、おおおぉ――!」
恐慌に駆られたヨナンは発作的にリウに背を向け、己が武器である『大鎌』をかざして目の前の少女に突進した。
「俺は、俺はまだ――!」
迫る死に、妄執をかき集めて歯向かうヨナンに、少女は手にした武器を静かに構えた。
両手で掴んだ柄をそのままに、身体を大きく捻って「溜め」を作り――。
「さようなら」
剛閃一破。
ただの一合も打ち合うことなく、その一撃で全ては決した。
「あ――」
他人を見下すことだけを想って生きて来た男――『大鎌』のヨナンが、人生の最後に地べたに這いずり見たものは。
離れたところに転がる自分の下半身。
武器ごと己の胴を真っ二つに断ち割った、血濡れの巨大剣。
そして、それを少女の細腕で振るった――『車輪剣』、ロロナ=アンゼナッハの、闇に揺らめく赤銅の瞳だった。
遠く、雷が地に墜ちる音がして。
それを最後に、ヨナンの生命の灯は跡形もなく消えた。




