嵐天に墜つ 前編
嵐が、近づいていた。
ルミル=トートスは、自身の勤める『ノックイン』の店内から、空の青を侵食するその黒を見上げて微かに眉をひそめた。
帝国中南部に広がる平原に位置するシュームザオン。つい先ほどまで晴れ渡っていた空には黒々とした雲。それは零したインクが机に広がるように広がっていく。
ルミルが見ている間にも太陽に雲の端がかかり、上空からは雷鳴の小さな唸りが聞こえつつあった。
「あら、一雨来そうね。ルミルちゃん、表の商品を中に入れちゃいましょう」
「あ! はい、わかりました」
先輩のイーユに声をかけられて我に返ったルミルは、感じていた不穏な感覚を忘れるように、一つかぶりを振ると、気を取り直して仕事へと戻って行った。
眼下の人々の営みなど知らぬ気に。吹き往く風は徐々に勢いを増し、雷と雨の気配を孕んで闘技場へも迫っていた。
まるで、諍いに満ち毒と血に穢れる大地を灼き尽くし、全てを押し流して清めんとするかのように、荒ぶる息吹は猛りを増し続ける。
しかしまた、人間もそんな天の咆哮など気にもせず。
闘技場ではカタナ=イサギナとカガマ=ギドウの、凄惨な戦いが展開されていた。
●
「ヂイィ!」
カタナは裂帛の猿叫を迸らせ、愛剣『姫斬丸』を縦横無尽に奔らせる。息つく間もなく放つ斬撃は、大気を切り裂き、カガマと彼の携える『十字槍』に喰らいつく。
「そうそう、何度も!」
しかしカガマは、片翼をもぎ取られ「ト」の字型に欠けた槍を大きく旋回。迫るカタナを突き離しにかかる。
「ぐっ!」
「ちぃ!」
カタナの剥き出しの左肩が槍に薙ぎ払われて鮮血を吹き出し、刃に斬り込まれたガガマの頬が深く裂ける。
現在のところ戦況はどちらにも傾いてはいない。
初手で相手の武器に痛撃を与えたのはカタナであったが、以降の短くも激烈な攻め合いでは互いに決定打は与えていない。
しかしその均衡が、結果的にカタナの実力を証明していた。
「――小僧が」
カガマ=ギドウは千戦に迫る戦歴を誇る、二つ名持ちの中でも平均以上の実力を備えた剣闘士だ。その槍の一振りには闇夜を舞う羽虫を容易く両断する精密さと、板金鎧を軽々と貫通する威力が同居している。
正真正銘、一流の域にある剣闘士『十字槍』のカガマ。それを相手に――。
「お、お、ぉ――!」
十歳以上年下の少年が、一歩も退かずに躍り掛かっている。彼の眼に宿るは底なしの戦意と断固とした不退転の決意。
数千の剣闘士がひしめく階梯を駆け上がる、一人の新星の「大物喰い」を予感させる攻勢に、闘技場に集う観衆の興奮は天井知らずの盛り上がりを見せている。
続けてカタナは遅滞のない身のこなしで剣闘場を駆け抜ける。二つ名持ちの剣闘士、『十字槍』のカガマの槍捌きに引けを取らない剣撃で、間合いの不利をものともせずに戦いを展開していた。
「ぐ、おぉっ」
跳躍しつつ放たれるカタナの飛び込み上段。カガマは咄嗟に穂先を合わせてそれを受け止めるが、直撃すれば顔面を二つに割ろうかという剣勢に『十字槍』が軋み、悲鳴を上げる。
カタナの『姫斬丸』とカガマの『十字槍』、それぞれの武器に大きな格の差はないだろう。
片や稀代の名工カンバ=テンゼンの傑作。
片や名高い剣闘士が己の二つ名とする逸品。
どちらも業物と言って間違いのない両者だが、今やカガマの槍はその半ばをもぎ取られ、対するカタナの姫斬丸は刃こぼれ一つしていない。
これは使用者たる二人の実力差が表れた結果か。カタナの剣腕は、既にカガマのそれを凌駕しているのか。
「舐めるな!」
否。
鋭く翻るカガマの斬り返しがカタナの攻めの間隙を縫い、脇腹を抉った。
「が、ああぁ!」
革としては最上硬度である海獣の鎧が、一突きで容易く貫かれる。大きく裂けた内からは、真っ赤な血が足元の白砂利に滴り落ちる。
カタナは歯を食いしばって激痛に耐える。もしも『十字槍』が完全な状態であったなら、今の一撃で少年の胴は半ばまで断ち割られていただろう強烈な一撃だった。
どんなに攻め込まれても、冷徹に反撃の機を窺い続ける胆力と、好機を逃さず強烈な一手を成功させる技量。戦闘の総合力で言えば、間違いなくカガマはカタナの上を行っている。
「く、ら、えぇええ!」
だが、どんな攻撃を受けようと地力の差を自覚しようと、カタナはいささかの躊躇いもなくさらに前に踏み込んでいく。
たった今自身を貫いた槍に引く間も与えず、至近距離から姫斬丸を薙ぎ払う。
「なっ!」
驚愕の声とどちらが早いか。カガマは咄嗟に槍に捻りを加えて剣を弾くが、傷に怯まぬカタナの一手が先んじた。
澄んだ異音を響かせて、再び槍の破片が散華する。
両者の間に、鋼の欠片が宙を舞い。
それに煌めきを宿したのを最後に、空の太陽は黒雲に光を遮られ、闘技場は薄暗がりへと沈んだ。
もはや両者の戦いに甘い決着は有り得ないと告げるかのように。
●
「ぐっ!」
一気に暗くなった剣闘場の中央。大きく跳び退きつつ痛恨の呻きを上げたのは、カタナとカガマの双方だった。
「……やってくれる!」
残った槍の片翼までも、今また半ばから折られてしまったカガマ。彼は細い眼をかっと見開き、二度も己の得物を傷つけられるという屈辱をもたらした少年を睨み据え。
「仕損じた……!」
刃の根本から斬り落とすべく放った一撃を片翼が削れるだけで凌がれてしまったカタナも、奥歯を噛み締めてカガマを刺すように見返した。
そのまま二人は距離を開けて動きを止め、互いに圧力すら感じる「視戦」を交わす。
俯瞰する観衆にも、両者の間にある空間が過剰な敵意で沸騰している錯覚を覚えるほどに、それは濃密な停滞だった。
「ふん。どうやら、『斬鉄』は確実に成功させられる技ではないようだな。俺としたことが、まんまと貴様に乗せられたか」
と、気を深く沈めたカガマが構えを解いて口を開いた。
手元の槍、今の一撃で付いた傷は、へし折られたように歪つな断面だ。最初の一撃と比べれば、技の冴えの違いは明らかだった。
「最初から短期決戦狙い。余力を意識して体力を温存していた俺に後先考えない全力で挑めば、確かに一気に押し切ることも不可能ではないな。最初に身に合わぬ大技を成功させて俺の焦りを誘う手管といい、意外と頭も回るようだ」
嘲弄を含んだ賛辞にも、カタナは無反応。しかしその頑なな佇まいが、カガマの推察が正しいことを暗に認めてしまっている。
つまり、長距離走をしているカガマ相手に、無理やり短距離走に持ち込もうとしていたのがカタナだ。だからお互いが本気であっても、瞬間に注ぎ込む力の配分には自然と差が生まれ、カタナは格上の剣闘士であるカガマにも対抗できていたのだ。
カガマがカタナの狙いに思い至る前に打ち倒すか、少なくとも武器を完全に破壊しておきたかったというのが、カタナの本音だったはずだ。
しかし。
「狙いが知れれば対処は二つ。こちらも全力で短期決戦に付き合ってねじ伏せるか、それとも――」
歪に欠けた『十字槍』が、ゆらりと穂先をもたげる。下段に構えて肘に遊びを持たせた構えは、敵の攻めをいなして弾く、持久戦の構え。
「長期戦を戦う体力のないらしい貴様を、じっくりと弱らせてから仕留めるか、だ」
槍の蠢きは毒蛇のそれを思わせて。獲物を絡め捕らんと舌なめずりするように、カガマはゆっくりと動き始めた。
●
コーザは闘技場の観客席、その最後列に立ち、不機嫌に黙りこくってカタナの戦いを見下ろしていた。
「ああ! コーザ、やばいんじゃないのかあいつ」
「急に動きが悪くなったみたいですね」
その両脇には、コーザと同じく登用試験を勝ち抜いてサザード商会へ入った同期の剣闘士二人がいる。
眼下。カガマという二つ名持ちは、先程までとは打って変わって、槍の間合いを活かして最大限に距離を保ったまま戦いを展開し始めた。
カタナが踏み込めばカガマは同じだけ退いて穂先で突き離し、足が止まれば嵩にかかって削りにかかる。
「時間をかけて確実に決める気ですか」
「ただでさえ体力が尽きたらしいところに、相手の二つ名持ちは安全策、これは手詰まりだな」
何十人もの競争者の中から選抜戦を勝ち抜いて今の商会に入っただけに、この二人の剣闘の実力と戦いを見る眼は、コーザと同様新人離れしている。彼らはカタナの体力に余裕がないことも、それをカガマが見透かしていることも察している。
「この分じゃ、無敗での連勝記録はコーザの勝ちだな。噂の新人をわざわざ見に来たんだが、これで終わりか」
同期の一人は、もう勝負が見えたように言うが、コーザはそれに構わない。
「……まだだ」
呟くように言って、カガマの執拗な攻勢に抗うカタナの姿を見る。
「お前は、そんな相手に負ける器ではないはずだ」
●
巡業剣闘士商会の少年剣闘士、セイもまた、同じくカタナの戦いを見下ろしていた。
「あーあー、ヤバいんじゃない? カタナ=イサギナ」
傍観者の気安さそのままに、彼は眼下の戦いを論評している。
「このままジリ貧で弱っていったら、終いには穴だらけにされちゃうじゃん」
「だが、まだ最悪ではない」
セイの隣には、一人の青年がいる。先夜の酒場にはいなかった人物だ。彼の左目は、大きな傷跡が走り硬く閉じられている。
「え? だって防戦一方じゃないか、ニス・キス」
「最悪は、槍に全力で決めに来られた場合だな。そうなっていたら、余力の少ない剣の方はもう力尽きていた。相手が無理に攻めてこないから、剣はまだ保っていられる」
ニス・キスと呼ばれた青年は、セイの指摘に首を振る。
「なるほど。流石に元、西方都市群の『独眼狼』は伊達じゃないね。おれにはそこまで読めないし」
セイの言葉に、ニス・キスは自分に一つだけ残った眼を細めて軽く笑んだ。
顔にある、左目を潰す大きな傷跡の剣呑さとは裏腹に、彼の穏やかな表情は丁寧に撫で付けた薄紅の長髪と相まって非常に理知的なものだ。
「お前は本能で戦う剣闘士だ。私やハンザのように、頭で考える必要はない」
「……それってさー、いつも聞く度に馬鹿にされてる気がするんだけど」
むくれた顔をするセイの頭を、ニス・キスは軽く叩く。
「それこそ馬鹿な考えだ。私たちの商会で一番才があるのは、間違いなくお前だよ」
「そういう才能とかはわからないや。おれは強い奴と楽しい戦いがしたいだけだし」
そしてセイは、奇しくもコーザと同じようにカタナに届かぬ声をかける。
「だからさ、こんなところで負けてくれちゃあ困るんだよな」
雲に覆われた空より、一滴の雨が零れ落ちて来た。
●
降り出す雨に構わず、外野の声も剣闘場で戦う両者の下に届くことはなく。カタナは、ただただ必死の抗戦を余儀なくされていた。
「くっ、はあ!」
顔面を狙って突き出された穂先を姫斬丸で弾く。すぐに反撃を加えるべく踏み込むが、既にカガマはその身を一歩退いていた。
そのただの一歩が、今のカタナには遠い。槍の長さ、体格の差。そして今や速度でもカガマが上回りつつある。
敗色濃厚。
それはカタナにも分かっていた。リウに告げられた制限時間の五分はとうに超えて、カタナの体力は限界が近い。防戦に徹していた分まだ動くことはできるが、眼は霞み、足元はまるで小船の上に居るように頼りなく感じられる。
「いつも思うが、わざわざ剣を使う輩は、何を考えているのだろうな。そんな短い武器を使っても、いいことなど何もあるまい」
距離を保ったままのカガマが、なんとはなしという風に言った。弱ったカタナを嬲ろうとしていると言うよりも、純粋に分からないと言いたげに。
「より遠くから、確実に狙える武器を使う方が効率的だろうに。未だに闘技場には剣を使う者が溢れている。そして次から次へと、俺に突き崩されて消えて行く……意味が分からんよ、お前のような連中は」
カタナは、疲労と吐き気に苛まれつつも口角を上げて見せる。不敵に、僅かな弱音も見せないように。
「そんな、風に……思うなら。……弓でも、使っていればいいだろう」
「生憎、俺にはそちらの才はなくてな。試してみたが『射手の兇星』のようにはいかなかったよ。だから仕方なく、こんな槍を使っているわけだ」
言って、カガマが肩を竦めた。実に不本意そうに、自身の二つ名でもある『十字槍』を振って。
「――そうかよ」
それを目にして、カタナは確信した。カガマ=ギドウは、剣闘士として終わっていると。
同時に、剣を握る手に力が篭る。修羅場で自分の命を賭けるに値する名剣は、確かな手応えをカタナに返す。
「どうしておれが、多くの剣闘士が剣を持ったか、お前なんかには一生分からない」
引き合いに出された『射手の兇星』もいい迷惑だとカタナは思う。彼を直接見知っているわけではないが、こんな男に自分の戦い方を語られるなど、剣闘士ならば誰でも我慢がなるまい。
「確かに、より遠くから、より安全に戦えるなら、その方がいいだろうさ。……ただ敵を倒し、生き残るだけなら」
たが、ただ自分が無事で満足なら、そもそも戦う必要も、望んで武器を持つ必要もないだろう。
「戦って傷付いても、誰かを傷付けても。それでも示したいことがある。欲しいものがある。味わいたい瞬間がある。成し遂げたい目的がある」
だから、誰もが己の心に叶う得物を手に、闘技場に集ったのだ。
ただその武器に憧れたから。
師から受け継いだ武器だから。
誰よりもその武器を上手く使いたいから。
理由は人それぞれ違っていても。
「剣闘士が、覚悟を決めて戦ってるんだ! 貴様の薄汚い物差しで、楽だ愚かだと勝手な論評垂れ流してんじゃねえ!」
今ここに、ただの私戦を戦っていた少年カタナは消えて。
「カガマ=ギドウ! もう貴様は剣闘士じゃない!」
『剣闘士』カタナ=イサギナが、『剣闘』を開始した。
●
「何だと?」
カガマは、カタナが瞬時に自分の目前に入り込んできたのに瞠目した。
「おおお!」
襲い来る斬撃を槍の柄で受け止めつつも、腕まで響く威力に当惑が過ぎる。疲労困憊だったさっきまでとは段違い――否、これは開始直後よりも……。
「ぐあ!」
槍を弾かれ、カタナが懐に飛び込む。咄嗟に左の手甲で防御するが、鋼の防具は一撃でひしゃげて腕に激痛が走る。
槍は剣よりも長い間合いを持つ。しかし反面、間合いの内側に入られてしまえば――。
「お、のれ!」
無事な右腕で槍を持ち替え、突き離す。しかし、カタナは一歩も退かずに、剣を振って弾き返す。
不可解極まる、とカガマは内心毒づいた。
間違いなく体力は限界だったはずなのに、何故ここまでの力が出せるのか。
「おれは『薬の効き方がおかしい』か。リーリめ、念のためだからって解毒剤を二重に仕込むなんて妙な真似を……まあ、助かったけどな」
苦笑さえ混じえて、敵たる少年が意味の分からないことを言っていたが、既にカガマにはそれを考える余裕は無くなっていた。
●
昨夜リウは解毒剤を製作するに当たり、カタナの『血』の特性に考慮してより確実な効果を得るためだとして、即効性と遅効性、二種類の効果を発揮するように特殊な処置を施していた。
(この飲み薬の中に、胃液でユっくり溶ける紙でくるんだ丸薬を仕込んである。もし最初の解毒剤が完全に効いてなくても、しばらくすればこっちが効いてくる。だから無理に焦って自滅しないでヨ?)
短期戦で決められなければ諦めろ――。そう主張していたのに、カタナが粘ろうとすることも予測して対処してくれるあたり、本当に頼れる仲間だと、カタナは彼女に感謝する。
そしてリウの布石は、ここに来て最大の効果を発揮していた。
「ち、いいぃ!」
歯噛みするカガマに容赦なく剣を振るいつつ、カタナは己の身体が格段に軽くなっているのを自覚した。同時に。
「なあ。昨日の、『酒場で着けていた香水』はどうした? 今日のも似てるが、それはただの菊の花だろ?」
カガマの身体から香る花は、カタナに何の痛痒も与えていないことを確認した。
剣闘に毒を持ち込まなかったのは、カガマにも越えられない一線があったのか、それとも別に事情があったのか。彼の本質を喝破するべくカタナは鋭く問い詰めた。
「何を、言っている? 俺はいつも、これを使っている」
剣と槍。互いに刃を噛み合わせて鬩ぎ合いつつ、しかしカガマは、訝しげに言った。
「小僧。貴様の仲間も言っていたが、まさか、俺が毒を盛ったと本気で思っているのか?」
「……なに?」
カタナは、思わず眼を見開いた。高揚も一瞬止まり、正体不明の悪寒が走る。
「おれは、毒など使っていない。考えたこともないぞ」
嘘ではない。
カガマは、本気で言っている。武器越しに会話しているカタナには、それが否応なく伝わった。
「……どういうことだ」
昨夜のカガマの香水が毒であったことは間違いない。カタナ自身が証人だ。
一方で、カガマは毒を使った自覚がない。
周囲に毒をまき散らしつつも、ただカガマ一人だけが、その中心で平然と立っている。
「いや、違う」
もう一人、カガマの毒が効いていないものがいた。
あの夜、カガマのすぐ背後にはあいつがいた。
常にカガマの背後にぴったり付いて回っていて、「腰巾着」、「小判鮫」などと呼ばれていた――。
「まさか、毒の黒幕は――」
次第に勢いを増す雨の中、カタナは慄然と呟く。
『大鎌』のヨナン。
今までろくに注意を払っていなかった名前が、誰にも気付かれることのない毒蟲の正体を指し示していた。




