因縁の交錯
(さーて、どうしてくれよう。コイツ)
涙を流したまま驚いた顔で動きを止めた少女を見返し、少年は内心で大きく息をついた。
蹲っている間も少女とコーザたちの会話はなんとなく聞こえていた(痛みで頭ぐわんぐわんしてたのでよくわからない部分もあったが)。
少女の言動は前後の見境のない直情的なものであったが、彼女の言葉は常に自分のことではなく商会に所属する剣闘士の名誉を守ろうとするものであり、この状況で自分の悪評に対しては一言も抗弁していないというのは大したものだ。
さらに言えば、お嬢様育ちをしたはずの身で下働きに出てまで父の残した商会を守ろうとする姿勢。コーザは否定していたが、個人的には見上げた根性だと褒めてやりたい。
客観的に見れば、自分は純然たる巻き添えを喰らったわけだが、たった今男たちによってたかって泣かされたばかりの少女に『おうお嬢ちゃん、この落とし前どないつけてくれんねん』などと追い打ちをかけるのは男としてあまりに情けない。
この連中のように。
別に、自分の前でぐずっているこの少女の健気さと流した涙にほだされたわけではないのである。びっくりするほど細い手首がなんだか小さな捨て犬みたいで放っておけないだとかは思っていないのである。純粋に、自分の中の男気の問題なのである。
「しょーがねーなー、もう!」
「ひゃわっ」
顔突っ込んでしまった以上今さら引くわけにはいかない。自分に勢いをつけるために声に出し、己より少し背の低い少女を両手で持ち上げて後ろへ動かす。
見た目以上に軽い。ちゃんとメシ食ってんのか、と妙な心配までしてしまう。
「ほら、しゃんと立て。あとそろそろ泣きやんでくれ」
少女を降ろして支えてやる。足元がしっかりしたのを確認して、酒まみれの外套を床に捨てる。これで身体は軽くなった。
足元にべしゃりと落ちたそれに構わず、酒臭い髪を後ろに流す。視界も良好。
そしてそのまま片手で荷物を引っ掴み、それから厨房への入口辺りで傍観していた店主に声をかける。
「親父さーん、これじゃもう仕事になんないだろ、コイツ帰らせるからね! 勘定ここね。ほら行くぞ」
返事を待たず、そのまま空いた片手で少女の手を引いて店から連れ出そうとするが。
「おう坊主、いきなりナニ仕切ってんだコラ」
立ったままの男たちから一人、ぎょろ眼の小男が追いすがって来た。あれだけやってまだ絡み足りないらしい。
「もういいだろおっさん」
やっぱりな、と内心思いつつウンザリした表情を作って振り返る。
「お、おっさんだとテメエ!」
歯をむき出しにして怒鳴り散らす姿は、まるで太った下水道のネズミだ。
「おれはもう用はないし、おっさんたちもしこたま呑んだだろ。すっぱりお開きにして、気持ち良く別れようぜ」
無理だと知りつつ一応言うだけ言ってみる。が、案の定それで済むはずもなく。
「ざけんな!」
「ま、まだ謝ってもらってない!」
予想済みのものと予想外のもの。二つの反論が重なった。
「……おっさんはともかく、お前もめげないなあ」
「だ、だって……」
自分の手を握ったまま、唇を噛む少女。意地を張っているのは分かっているらしい。思わずくすりと笑って、少女に向き直る。
「意気は買うけど、ここでごねて形ばっかり訂正させてもしょーがないだろ。心の中でやっぱり馬鹿にされてたら同じことだ」
「……でも」
控えめに唇を尖らせて不服そうな気配を漂わせる少女に笑い交じりのため息をつく。
何だか我儘な妹か何かの世話役をしている気になって来た少年であった。
「でもじゃない、後でいい方法教えてやるから今は行くぞ」
「……んぅ」
このように暢気な会話を続けていた少年だが、少女が返答するよりも早く、脇に追いやられていた小男の忍耐が先に切れた。
「ガキども! 大人を馬鹿にしてんじゃ――」
「――後ろ!」
大口を開けて叫び、背中を見せている少年に掴みかかる小男。そしてその動きを見た少女が警戒の声を上げかける、瞬間。
「――あーあ」
少年が諦めの声を零し、同時に右足が閃く。そして、小男の視界は突然の闇に包まれた。
●
「な? わぶっ!」
顔面にべちゃりと何かが貼りつく感触。同時に目の前が真っ暗になる。突如起こった異常に小男は戸惑い、掴みかかった腕が無様に空を切る。
「ゲハァ!」
間髪入れず。前につんのめるようになった身体に、少年の爪先が容赦なく突き刺さる。
「その服はやるよ。お見舞い代わりにね」
一撃で悶絶して地に這った小男の耳に、少年の声がくぐもって届く。
自分の視界を遮ったものは、先程少年が脱ぎ捨てた酒まみれの外套。
足元に転がっていたそれを、少年が自分の顔めがけて蹴り上げ、即席の目隠しとすることで隙を作り、がら空きの胴を狙い打ちした。
そんな一瞬の攻撃を最後まで理解しないまま、小男の意識は本当の闇に落ちた。
「な……!」
ざわり、と声にならないどよめきが酒場の中にさざ波のように広がっていく。一見さして腕が立つようにも見えない少年が大の男(小男だが)を文字通り一蹴したのだから当然だ。
驚愕の視線の中で、少年は周囲に構わず少女に向き直った。
「お前もさ、こんな連中に一人でつっかかっていくなよ。危ないだろ」
「わ、わたしだって、こ、こんなことしたの、初めてだし。なんか、みんなのこと、馬鹿にされて、我慢、できなくなっちゃって。気が付いたら、お酒投げてた」
何とも単純な言葉に、少年が困惑と愛想笑いの混ざった微妙な表情になる。
「……あのさ、ちょっと聞くけど、こういう店の仕事、何回目? っていうか何日目?」
対して、少女はちょっと首を傾げて。
「あ、朝から?」
「まさかの入店初日……!」
確かに言われてみれば、少女の給仕服は、場末の安酒場のものにしては清潔だ。しばらく仕舞われていたものが新しく入った少女に回されたのだろう。酒場の常識を明らかにわかっていない振る舞いをしたのも納得もできる。
「あのな? 酒場ってのは、悪口や陰口、誹謗中傷なんかいくらでも転がってるところなんだから、いちいち気にしていたらキリがないぞ」
「……でも」
不満そうに抗弁しかけるが、少年の真剣な目に口をつぐむ。
「仕事中はその仕事に集中するの! お金貰うんだから仕事優先しなきゃダメだろ?」
「ご、ごめん、なさい」
今もなお自身のぶちまけた酒を被ったままの少年に言われてはさしもの強情な少女も小さくならざるを得ない。
「まあ、わかったんならいい。次からはちゃんと我慢するか、気付かれないようにさりげなく仕返ししろ。酒を酢にすり替えるとか」
と、ここで少年たちにひどく剣呑な声がかかった。
「おいガキ。調子に乗って大人に手を出しやがって、好き勝手に舌ぁ回してくれてんなよ」
仲間を潰された男がただでさえごつい顔をさらに凶悪に歪め、口髭を震わせて前に出る。
対する少年はあくまで冷静。ゆっくりと声をかける。
「なあ、あんたらは結局この子からは何も痛い目見なかったんだから、もう絡まないでいいだろ?」
「あ? おれらのツレ蹴り倒したのは知らねえってのか!」
「だからさ。それは、おれがやったことだ」
少年の意図に気付いた少女が目を見開く。
「そ、そんなのダメ!」
少年は構うことなく、男の注意を引く物言いを続ける。
「おれがいきなりしゃしゃり出てきてあんたらのお仲間ぶっ倒したんだ。この子のこととは別のことだ」
「ほお? つまりガキ。喧嘩売ったのはあくまでテメエで、そっちの嬢ちゃんは無関係だってのか?」
「違うかい?」
髭面の男は、しかし少年の言葉を鼻で笑い飛ばした。
「ああ違うな。そんな屁理屈知るかよ。おれから見ればテメエらは二人とも同罪だ。きっちり償ってもらおうか」
少年は、血気にはやる男の言葉に少しだけ眼光に苛立ちを混ぜる。
提案に乗ってくれば、多少殴られるくらいのことは甘んじて受けるつもりだったが、こうなってしまっては。
「……しょーがないか。だったら無理にでも納得してもらおうかな」
「ふざけやがって。おい、コーザは手を出すなよ。このガキはおれがぶっ潰す」
連れの言葉にもコーザは無言。ただ、動く様子もまた見せない。じっと、少年の姿を見続けている。
「……おれもやる」
代わりのように、もう一人の寡黙な巨漢が眼に剣呑な光をたたえて踏み出した。表情に少年を侮る様子はなく、全力で叩きのめすつもりなのが傍目にも分かった。
しかし、少年にはわずかな怯みも見えず、あくまでも泰然とした態度を崩さない。
「とっくにタダじゃすんでないっての。あんたら人のおごりで食い散らかしたの覚えてる?」
少年は、少女を後ろに庇うように自然体で立つ。
少女は、まだ自分が少年の手を握っていたままなのに気付いた。掴まれたのは少女の方だったが、いつの間にか縋りつくように握る形になっていた。
このままでは動きの邪魔になると考え、少し躊躇ってからそっと手を放した。
動く様子のないコーザを除いても二対一。しかもどちらも少年より体格がいい。小さい方の男でも少年より頭一つ大きいし、巨漢に至っては完全に大人と子供だ。
「あ、あの、わたしが、その……わ、わる……」
緊迫の度を増す空気に、少女がなんとか場を収めようと声を挙げるが、少年が振り向かないまま遮った。
「いいからムリすんなって。お前の大事なことなら、おれのために曲げて謝る必要なんかない。大体、今さら謝っても、こいつらが『よしわかった』って見逃してくれるような気のいいおっちゃんたちだと思うか?」
「でも……あなた、か、関係ないのに、怪我しちゃう」
関係も怪我も、すでに後頭部の一撃分はある……とは言わない。それはあまりに情けなさ過ぎるセリフだと、年相応な少年の『かっこつけ』の部分が主張した。
「確かに、首突っ込んだのはおれのお節介だったけど。だからって知らん顔で見捨てるなんて気分悪いこと、どうせおれには最初からできなかったよ」
「そ、そんなこと、で」
「それにさ、いざ剣闘士になろうって男が、街のチンピラ連中相手に女の子に庇ってもらって、尻尾巻いて引き下がってなんていられないだろ?」
「……」
少女を安心させるための言葉に、しかし反応したのは男たちの方だった。
「とことん舐めくさりやがって……今すぐブチ殺……!」
そして、少年は男の激発よりも速く行動していた。
「ヂッ?」
挑発的な言葉に意識を割かせ、同時に飛び出す。
あえて『真正面に対して虚を突く』という奇手は見事に嵌まり、男の膝に少年の蹴りが入る。
「反応が遅いよ、呑み過ぎじゃないの?」
がくりと体勢を崩したところで少年の身が男の懐に潜り、同時に下がった頭を掴む。そして。
「ゴぐッ!」
無防備な顎を、少年は全身で跳ね上がる勢いの頭突きで一気にかち上げた。
「グ、おぁあ……」
強烈に脳を揺らされた男の全身から力が抜け落ち、くたくたと倒れこむ。叩きつけられた威力を考えれば奥歯が砕けなかっただけまだしも幸運だったと言えるだろう。
「貴様ぁ!」
「これでもう、後はでかいおっさんだけ!」
突っ込んで来る巨漢の拳をしゃがむように回避。同時に後方で気を失っていた小男の身体の向こうまで飛び下がる。追ってきた巨漢が小男を踏みつけそうになったのを慌てて避けてたたらを踏んだ。
「ぬあっ」
体格差が激しい相手と素手で戦う場合、何よりもまず相手に力勝負をさせることだけは絶対に避けなければならない。正面からのぶつかりあいではどんな攻撃も重量で押し返されてしまう。
「だからその重さを、利用する!」
少年は転びかけた巨漢の、『崩れ』を加速する形で投げ飛ばす。不安定な体勢の巨体が丸ごと浮かび宙を舞う。
直後、男の大重量が受け身も取れず床に墜落。
「ぎっ、……!」
半ばすっ転ばせるような形だったが、自身の体重が丸ごと衝撃となるため威力は十分。しかも、少年が直後に倒れこみざまに肘を見舞い巨漢は完全に失神、仰向けに床に寝たまま呻き声を上げるのみ。目を覚ましてもしばらくは立つこともままならないだろう。
少年が大人の男二人を叩きのめすのに要したのは時間は十秒あるか否か。乱闘とも言えぬ一方的な立ち回りはあっという間に決着し、唖然とした店内の人々の視線が巨漢の上でしゃがみこんでいる少年へと注がれる。
「記念すべきシュームザオン初勝利……って言うにはちょっと場所も相手も小さすぎかな」
無傷の少年は、周囲の驚愕も知らぬ気に息も乱さず立ち上がった。
●
「……強い」
静まり返った酒場に少女の声がぽつりと響く。少年の戦いぶりは冷静にして盤石。実戦慣れを越えてもはや老獪の域だ。
「よう、ケガないか? ぶつかったりしなかったか?」
「う、うん。あり、がと?」
当たり前のような顔で戻って来た少年の気遣いに、少女も戸惑いがちながら礼を返す。
「ようし、おっさんたちが起きる前に帰っちまおう」
少年は何事もなかったような顔で少女の手を引いて歩き出す。
しかし、彼の背に。
「なあ坊主、おれの相手はしてくれないのか?」
最後の一人、コーザが声をかけた。
静かな声音には、仲間を叩きのめされた怒りも苛立ちも含まれない。
「……正直勘弁して欲しいんだけど?」
少年の探るような返答に、コーザは薄っすらと笑みを浮かべる。
「まさか勝つ自信が無いのか? 『本気』でやってもか?」
「いやあ、『もったいない』と思ってさ」
そして少年もまた屈託のない笑みを見せる。
「さっき言ったけど、この街での最初の戦いはもっと『場所』と『相手』を整えてやりたい。この騒ぎなんか、おれは戦いの内に入れたくもないんだ」
つまり少年は、この場では本気で戦う気など最初からなかったと言っているのだ。そして、コーザを相手にすれば、本気になってしまうと言っている。
こんな酒場の乱闘で、記念すべき初勝利を飾ってしまうのはもったいない、と。
「ハハッ、……おもしろい」
コーザは楽しげに、大きく相好を崩す。先刻までの寡黙さとは打って変わった朗らかさに、少女は眉をひそめる。
不審の視線など端から無視。やおらコーザは傍らの木剣を手に取ると、大きく飛び込むような一歩の踏み込みで距離を詰め、少年の脳天に向かって振り下ろした。
その鋭さ、重さ。直撃すれば頭蓋骨を砕こうかという一撃だ。
「えっ……!」
少女が、そして周りの観衆も驚きの声を漏らす。コーザの動きにはあまりに無駄がなく、目の前で起きていながら全く目で追えなかったから……だけではない。
「いいね。これでこそ、剣闘都市に来た甲斐がある」
いつの間にか、近くの卓から食器のナイフを拾い上げていた少年。彼が、振り下ろされた一撃を片手で受け止めた動きも、同じく見えなかったからだ。
コーザと少年。二人はまるで示し合わせたかのように、武器を噛み合わせて動きを止めていた。
●
強い。コーザは確信する。
今の動きはさっきまでとは段違いだ。速く、鋭く、強かだ。
このまま最後まで戦いたいと心臓が唸りを上げる。だが、血の沸き立つ状況でも冷静さを保つ思考が舌舐めずりをしながらも感情を宥める。
――こいつの言うとおりだ。雑な勝負をするのは、あまりにも惜しい。戦うならば、そう。
「それじゃあ、貴様。戦りに来い。『闘技場』に、『剣闘士』になったおれと戦りに来い」
木剣と組み合う酒場のナイフ。あまりに粗末な武器を通して相手の力を推し量り、殺気の欠片もない、純粋な戦意を込めた笑みがまた零れる。ああ、こんな満面の笑顔を浮かべたのはいつ以来だろうか。
「最初っからそのつもりだって」
少年の方も同じく、強敵と認めた男に向けた笑顔の中で、闘志の塊のような眼を爛々と剥き出しにしている。
彼の眼はまるで、向う見ずな駿馬のようにコーザは見えた。
負けない。勝つ。おれが誰より強いんだ、と叫びながら走るように、瞳がどこまでも真っ直ぐにコーザを射抜く。
それがあまりにも心地よくて、コーザはらしくもなく、高らかに名乗りを上げた。
「決闘の約束の代わりだ。名乗っていけ。おれはコーザ。コーザ=トートスだ」
少年は応えて一言。
「カタナ=イサギナ」
後に、剣闘都市シュームザオンの語り草となる因縁の出会いであった。