槍と道化 前編
固定した的に足を止めて五百、的の周囲をゆっくりと回りながら千回。
毎朝、太陽がすっかり昇ってしまうまで、オーブ=アニアはそうして商会中庭の訓練場で槍を振るうのが日課だ。
「――はっ!」
弓を引き絞るように力を深く溜め、解き放つように突き出す。
目線は真っ直ぐ目標を見て、脇は開かず、腰を浮かせず。精妙に、しかし断固として突く。
槍の極意は、ただそれをどこまで速く、滑らかに行えるかということだ。
肩に力が入り過ぎれば脇が甘くなり、足運びを焦ると腰が高くなる。
故に、槍を持って構えた姿勢が身体の自然体になる程に、型を身体に馴染ませるのだ。
構えは静かに、懐に槍を収めるかのように深く。
突きは鋭く、視界の果てまで貫く意気と速さで奔らせる。
速さとは、ただ動作の速度のことを指すものではない。
静と動。
二つの状態をどれだけ瞬時に移行できるかが、即ち速さだ。
人が見ることのできるものの中で、最も速いものは太陽の輝きだと唱えた学者がいる。
彼によると、天に輝く太陽の光は、本来目にも映らない程の速度で地上に到達しているのだという。
しかし、人は昼間、太陽の光の恩恵を受けて明るい世界に生きている。それに速さを感じるものは、普通はいない。
何故なら、太陽の輝きとは一瞬の瞬きではなく、常に地に降り注ぎ続けているからだ。一秒前と現在で、別々の光に照らされているという実感は、人間の感覚では得られないものだ。
つまり変わることなく最高速度で動き続けるものは、ある意味で止まっているのと変わりない。
常に光が降ると分かっていれば、避けることは容易い。ただ日陰に入ればいいのだ。
槍も同じだ。
如何に素早く槍を連続で繰り出そうとも、突いて来ると読まれていては敵を貫くことはできない。
槍とは敵との最短距離を直線軌道で撃ち抜くことこそがその本領。
払いや打ち下ろしなども実戦においては重要な技ではあるが、言ってしまえば応用技である。剣や斧、薙刀などでもできることで、槍だけの強みではない。
真っ直ぐ貫くことが槍の強さ。それは逆に言えば、どこから来るか読みやすいという弱みでもある。
天から降ると分かっている陽の光を避けるには日陰に入れば済むように、来ると分かっている突きは容易くいなされ、躱される。
だからこそ。静に構え、一瞬の動で突く。両者の落差こそが槍に求められる速さなのだ。
引いて、突く。ただ一心に、一点を穿つ。
太陽ではなく、瞬きの煌めきを残して消える流星のように。
●
「毎朝熱心だね、オーブさんも」
カタナの木剣を片手に付けた手甲で受け止め、リウが視線を動かさずに言った。
もしこれでカタナが目を逸らしたら、一気にその隙に付け込んで来るのは分かっている。
「ボクがヒューバードに来た時から毎朝ヤってるヨ。日が昇る前から一番乗りで、さっ!」
半歩下がり、身を沈めてカタナの足元を抉る足払い。
カタナは間一髪両足を浮かせてそれから逃れ、着地と同時に木剣を打ち下ろす。
「っとと、愛想悪いんだから! 訓練付き合ってって言ったのはカタナなんだから、ね!」
機敏に立ち直ったリウは、近距離で鎖分銅を放つ。
手元で操作された鎖は獲物を狙う蛇さながらに、カタナの周囲を変則的に襲う。
「――全く、舌噛むぞお前は」
カタナは木剣を縦横に振り、鎖を連続で撃ち落とす。迎撃をも絡め取ろうとリウの鎖が滑り、またカタナが降り解く。
「だってさ? 商会で一番訓練してるのがオーブさんって、こう言ったら失礼だけど意外じゃない? もっと遊び回ってるかと思った」
返事があったのに気を良くしたか、リウの舌はさらに回る。比例して手の鎖も回転数を上げ、荒ぶりのたうってカタナに迫る。
「人のことより自分のことだろ。先輩より訓練怠けていたんじゃ、何時まで経っても上には行けない」
互いに吐く息の熱さえ感じられる距離で、両者は指一本触れ合うことすらなく互いの武器を噛み合わせている。
カタナの剣もリウの鎖も、まるで打ち合わせてあったかのように、疾走する相手を捉えて逃さない。
「だから、こーして毎朝毎晩ヤってるんでしョ? ボクだって、下っ端で終わる気はないヨ。どうせなら、二つ名持ちと戦ってみたいし、ね!」
体力に劣るリウの額に汗が光る。だがカタナの方も余裕は無い。脇や背後、足元からも攻められる鎖を捌くのは体力と集中力を著しく消耗するのだ。
体力の絶対量ではカタナ、消費効率ではリウ、お互いの強みが均衡し、故に双方の限界点も非常に近い。
二人とも既に分かっているだけに、精魂尽き果てる前に戦局を動かしにかかる。
「じャ、そろそろ時間だし、今日の暗器を行くヨ?」
先手を打ったのはリウ。
鎖を手放し、カタナに向かって投げつけると同時に大きく跳び退く。そして、左手に装着した手甲を真っ直ぐカタナに向ける。
ガキン、と音を立てて手甲が開く。
そこに覗くのは、一本の短い矢。
嫌な予感に駆られたカタナは二択を迫られる。
進むか、退くか。
「おぉ!」
当然、カタナは前に出る。模擬戦で怖気づいていては実戦を戦うことなどできない。
訓練は、限界に挑むくらいで丁度いい。
少年期、『闘王殺し』カーンに荒修行を受けた彼は本気でそう思っているところがある。カタナ自身に自覚はないが、訓練に挑む時点で常人とは感覚が違う。
「ハハ、『穿』!」
そして、そんなカタナの姿勢を当然のように受け入れるリウもまた尋常ではない。
迫る木剣を極限まで引き付け、手甲の機工が作動、仕込まれていた矢を撃ち放つ。
己が一撃喰らっても、敵を討てるのならばそれで良しとしているのか。
否。手甲から放たれた矢がカタナの木剣にぶち当たる。安全のため鏃を取り払ったそれは、木剣を貫くことはなかったが、斬撃の軌道を無理やりにずらす。
そして。
「二本目!」
手甲の裏、掌に当たる側もその口を開き、その隠された矢を解き放つ。
これが、カタナを引き付けた真の狙い。
第一矢でまず剣を弾き、間髪入れぬ第二矢で本人を討つ。攻め込んだカタナに、連射から逃れる術は無い。
「狙い通りだ!」
「!」
しかし快哉を叫んだのは、カタナ。
彼が顔の前にかざしたのは己の左手。そして握られているのは、リウが手放した、鎖。
鋼鉄の鎖が巻きついた拳が、迫る矢を難なく弾く。例え鉄の鏃が付いていても、深手は負わせられなかったであろう、見事な防御だった。
「な!」
己が捨てた暗器を逆用するというカタナの取った予想外の奇手に、さしものリウも驚愕を隠せない。
そしてそのまま、カタナの木剣が、リウに突きつけられる。
「やっと一本取ったぞ、リウ」
少年は、荒々しくもさっぱりとした笑みでそう宣言した。
●
「なるほどね。だから今朝はリウくんが拗ねてるのか」
一通りの訓練を終えたオーブが、横に腰かけたカタナの話に苦笑する。
「十日目にして初めてしてやられたわけだね」
「こっちは何回も負けたってのに、不公平な話です」
「まあ、リウくんの戦法は独特だから、慣れるまでは苦労するだろうね」
カタナは溜息を一つ。
話題の主であるリウはここにはいない。彼女は負けた後にさっさと訓練場を出て行ってしまった。なんとなく怒っているわけでもないのだろうとカタナには感じられたが、では何を考えているかと聞かれると返答に困る。
カタナの剣闘士初戦から今日で早十日。
それから今日まで、カタナとリウは毎日朝と夕方に模擬戦を行っていた。
カタナは木剣を使用し、リウは暗器を殺傷能力を抑えたものに変える。そして、どちらかが一本取るか、食事の時間が来るまでひたすら実戦形式で打ち合うのだ。
これまでの結果は時間切れの引き分けが八割、残りがリウの勝利だ。
オーブの言う通り、リウの戦法は変則的かつ虚を突くものが多く――むしろそれしかしない――カタナは対応に四苦八苦させられ、凌ぎ切ったとしても今度はリウが守りに徹して追いきれなくなる展開が多かった。
「でも、幸先はいいじゃないか、今日は剣闘があるだろ? 今勝った勢いで本番でも勝利を取って来ればいい」
「オーブさんも今日ですよね。剣闘があるのにあんなに動いて大丈夫ですか」
模擬戦と型という違いはあるが、動いていた時間では、明らかにオーブの方が長い。カタナとリウが出て来た時には既に彼は槍を振るっていたし、二人の模擬戦が終わってもまだしばらくは続けていたのだから確実だ。
「僕はね。もう習慣だから、逆にやらないと具合が悪い」
カタナの疑念に、そう言って爽やかに笑うオーブ。普段軽い空気を纏っている彼とは思えない、武に身を捧げた男の顔だ。
「オーブさんは……」
無意識に声が出ていた。はっと我に返り、慌てて何でもないと誤魔化す。
「どうかしたかい?」
「いえ。本当に、何も」
しかし、オーブはカタナの内心を見透かしたような表情でくすりと噴き出す。
「何でいつもはちゃらちゃらと気が抜けてるのか……とか思ってたのかい?」
「え、いや……!」
図星を刺されて、カタナは二の句が継げない。オーブはそんな後輩の様子に気を悪くするでもなく己の槍を見る。
オーブの武器は、彼の華やかな印象にそぐわない大槍だ。
騎士が馬上で構える突撃槍を、一回り小さくしたような造りで、一角獣の角を思わせる穂先には螺旋の溝が刻まれている。
相当な重量のそれを苦も無く構える姿は、彼の確かな実力を感じさせるのに十分なものだ。
「理解してくれる人は少ないけど、アレも僕にとっては剣闘士として生きていくのに必要なものなんだよ。僕の戦いは、自分のためのものではなく、観客のためにある」
確かに、カタナには彼の言っていることの意味は良くわからない。闘技場で歓声を上げて自分たちの戦いを見下ろす彼ら彼女らのために戦うというのは、順序が逆ではないかとも思う。
自分たちが本気で戦うからこそ、観客は熱狂し魅せられるのではないかと。
「僕も最初からこういう考えじゃあなかったけど、多分カタナくんにも分かる日が来ると思うよ。『期待に応える』っていうことの意味がね」
言って、オーブが立ち上がる。同時に街の鐘楼が鐘を鳴らして、刻限を告げた。
「さて、そろそろ朝食だね」
槍を片手に、オーブが中庭を去って行く。
カタナは、普段と異なり装飾のない彼の背中を何とはなしに見送っていた。汗に濡れた肌着の背中に浮き上がるのは、彫像のように固く隆起する鍛え抜かれた筋肉。
「……ただ軽いだけの人じゃない、か」
確かに言えることは、一つ。
オーブ=アニアは強い。自分はあの槍を躱せる。カタナがそう断言できないほどに。
ならば、抱く思いにも相応の重みがあるのだろう。
カタナは一つ首を振り、自分一人残された訓練場を後にした。




