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剣闘のカタナ  作者: 某霊
3.勝利の栄光、罪の闇
25/113

傷痕、涙に

「全く。何してたの、二人とも」

 レレットは、剣闘の後姿が見えなかったカタナを控え室に連れ戻してから、口を尖らせて言った。


「こんな、怪我を手当てしないまま、あちこち動き回って。病気になっちゃうよ」

 文句を言いつつも、少女は『大事な剣闘士』の、身体のあちこちに刻まれた傷を丁寧に拭き、献身的に手当てを施していく。


「エインさんの剣闘も、もう終わっちゃったよ。リウくんは逃げちゃうし」

 窓から見える剣闘場では、今日の最終戦が行われている。

 先日の『闘技王』アダムと『炎』のギジオンの対戦ほどではないが、双方広く名の知られた剣闘士の対決に、観衆も大いに盛り上がっている。


 彼らの興奮には、彗星の如く闘技場に現れたコーザとカタナという新人の劇的な勝利の影響もあることは確かだろう。


「……エインさん、勝ったのか?」

 雇い主に上半身裸に剥かれたカタナは、身の置き所の無い気まずさに、眼を閉じて言った。


「うん。相手が、ちょっと甘く見てたのかな。油断してたところを、こう。ばっ、ずさっ! って。あっという間に、勝っちゃった」

 えい、やあ、と、立ち会いの動きを真似て見せる。武芸の心得が無いレレットの動きは、妙に気の抜けた芝居そのままのようで、苦笑を誘う。


「なに、笑ってるの。カタナ」

 不服そうに腰に手を当てて抗議する商会長に、雇われの剣闘士であるところのカタナは笑みを浮かべたまま弁解する。

「いや、レレットを笑ったんじゃないさ。これで、この闘技場の三人は全員勝ったのかって思っただけだ」


 カタナの言葉に、硬貨が裏返るように機嫌を直したレレットは、控えめながらもはっきりと明るい笑みを見せて言う。

「うん! みんな、やっぱり強かった。きっと、グイード爺ちゃんとオーブさんも、勝ってるよ」


 鼻歌交じりで治療するレレットの、脇腹をくすぐるような手つき。単なる手当だ、と自分に言い聞かせても妙に落ち着かない。


(いけない)

 慌てて別のことを考えようとするカタナの脳裏に、今度はリーリウム――リーリの影が差す。

 レレットに見つかると、カタナを置いてさっさと姿をくらましてしまった「彼女」の正体は、カタナにとってはあまりにも衝撃だった。


 上気した顔ではにかむ笑みと、独特の発音で紡がれる涼やかな声音。そして颯として軽やかな身のこなし。

 少年だと思っていた時には何も感じなかったそれらが、急に意識されて。そして、先刻垣間見た、小麦色の艶やかな肌の――。


「痛っ――!」

 いきなり、レレットの指がカタナの肩の傷、肩甲骨辺りを突いた。

 思わずカタナが座ったまま振り返ると、背後、肩ごしに拗ねるように睨む、レレットの碧眼と目が合った。


「カタナ。今、にやにやしてた」

 唇を少し尖らせ、レレットが呟く。その表情にカタナは、何故か咎められているように感じてしまい。


「……う」

 予期せぬ反応に思わず固まったカタナを、レレットは、商会長でも雇い主でもない、ただ一人の少女としての眼で見据えて。


「……い、や、ら、しい」

 今日一番の破壊力を持った一撃が、カタナを精神的に撃沈させた。



「ちぇ。レレットめ、楽しそうに」


 カタナたちが居る控え室から、円形の闘技場をぐるりと西に回りこんだ反対側にある自身の控え室で、リーリウム――リウは、不満を隠さずにぼやいた。


「あーあ。全く、女の子しちャってさ。前はもっと暗くて色々ヘンな性格だったのに」

 自身の手当てをしながら、そんなことを言う。しかし彼女の表情は言葉とは裏腹に穏やかで、ある種『ご機嫌』にも見えた。

 慌てふためきレレットに弁解するカタナの声を拾いつつ、カタナに刻まれた傷を塞いで。一人笑う。


 リウの聴力ならば、本気になればこの闘技場内で行われている会話は全て筒抜けだ。

 流石に歓声飛び交う観客席の辺りは難しいが、騒音の遮断される壁内なら、集中すれば衣擦れの音まで聴き取れる自信がある。

 長時間続けていると体力を消耗するため、普段はあえて耳に届く音に注意を向けず、ほとんどを聞き流しているが、近くの人間の動向は寝ていても感じ取れる。


 だから、剣闘を終えたエインが彼女の部屋に入って来た時も、当然リウは事前に察知して、余裕を持って身繕いしてから彼を迎えた。


「あれ、どうしたのエインさん。今日は東側の控え室でしョ?」

「ああ。対戦相手が気絶して介護所に運ばれたから、様子を見に行っていた」


 とぼけるリウの前に現れたエインは、ついさっき一戦終えたばかりとも思えない、汗一つかいていない涼しい顔だ。

 最終戦の二つ前という位置は、経験豊富な剣闘士たちの中でも選り抜きのものたちが鎬を削る、言わば剣闘の最前線だ。そこにあってなお余裕を残して圧勝をしてのけるのだから、彼の実力の凄まじさが窺い知れる。


「そーだ。エインさんて、『闘技王』とヤったことある?」

 ふと思いついて、リウが興味津々といった風に尋ねる。エインは、彼女の唐突な言葉にも特に驚かず、薄い表情のまま頷く。


「彼とは同じ年に剣闘の世界に入った、つまり同期だ。まだ『無刃』と二つ名が付く前に二度、その後も、二度ほどやりあった」


「で、どうだった。勝ったの?」

 エインは、苦笑いするように口元を少し上げる。

「二回目の対戦で、一度だけな」


「へえ、『アレ』に勝てるなんて、流石というか、意外というか」

 リウは捻くれた表現ながら、エインを称賛する。それだけ、闘技場で観戦した『闘技王』は強かった。歴戦の剣闘士、『炎』のギジオンでも、結局彼には傷一つ付けることはできなかったのだ。


「当時はおれも未熟だったが、向こうも今ほど強くはなかったさ。あの『無刃』の技にも、隙はあった」

 エインは、そこで首を振った。眼には深刻な苦渋が滲んでいる。

「しかし、ここ数年の彼の強さは、もはや異常だ。誰がどれだけ追いすがっても、アダムは必ず越えてくる」

 エインの声には、『闘技王』という壁を越えられない己に対する悔しさと、だからこそ挑まずにはいられないという戦意が篭っていた。


 リウは楽しげに琥珀の眼を細める。

 今の自分でも敵わないだろう男にも、未だ超えられぬ壁があるという。

 これこそが。カタナが、血と臓物でできた底なし沼のような屍獣の世界から目指した剣闘士の世界。


「……いいな、これ。ホントに何となくで入ったけど、退屈しない」

 ――強い敵がいて、気に入った仲間がいる。そしてカタナがどこまでその壁を越えていけるのか、できれば近くで見てみたい。


 リウは、彼女の人生で初めてと言ってもいい、『期待』を抱いた。

 自分は、何か『善いもの』に巡り合うのではないかというような。曖昧で、幼子のそれに近い、無責任で純粋な期待を。

 その予感は妙に高鳴る鼓動となって、彼女の内に収まった。


 と、その時。

「……あ!」

 リウは、甘い感慨から覚め、いきなり立ち上がって声を上げた。


「リウ、どうした?」

 エインの訝しげな声も、聞こえてはいても気にしない。


「……あんニャロ」

 少女の耳は、闘技場の反対で、カタナのもとに来客が訪れた音を捉えていた。


(――「カタナさん! 初勝利おめでとうございます! お兄ちゃんに頼んで、お礼を言いに入れてもらいました!」――)

 それは、初めて見た時からどうにも気に入らない少女の声で。


「好きにさせるか!」

 言うが早いか。リウは足の痛みも忘れて、カタナの下へと駆け出していた。



「一時はもうダメかと思いましたけど、ご無事でよかったです!」

「あ……ああ! どうもありがとう」


 兄のコーザに付き添われて剣闘士控え室までやって来たルミルに、カタナはやや大げさに振り向いて笑顔を見せた。内心では助かったと息をついている。

 今のレレットと二人きりでいるのは、カタナにとって色んな意味で限界だった。


 当のレレットと、妹を案内してきただけらしいコーザ、二人は互いに社交的な性格ではない上に、酒場で諍いもあった関係だ。


「……どうも」

「……ああ」

 などと、挨拶らしき言葉を交わしたきり、お互い黙ってしまっている。


「でも大丈夫ですか? あんなに血を流してましたけど」

 そんな周囲の様子をさして気にせず、心配そうに顔を覗き込んで来るルミル。

 カタナは軽く手を振って見せる。


「おれはこれでも『血の気が多い』性分だから、大丈夫さ。それより、せっかくの装備を血塗れにさせちゃったのがな……折角ルミルちゃんに選んでもらったのに悪いけど」

「そんな! 戦えば傷がついて汚れるのなんて当たり前です。もし使い続けていただけるなら、ウチの店でピカピカになるまでしっかり補修します!」


 意気込む少女の言葉に、カタナは傍らに脱いだ革鎧に手を置く。これでなければ、ジークの殺意を込めた乱撃もリウの『砕』も、とても凌ぐことはできなかっただろう。

「ああ、それは助かるな。実戦で改めて分かったけど、いい鎧だよ」


 もしも店でもっと安価な装備を選んでいたなら。あるいは今、自分は無事ではいられなかったかもしれない。

 そう考えると、ルミルとの出会いはカタナにとっては幸運そのものであった。


「今日はコイツに何度も助けられた。きみが選んでくれたお陰だ」

「そ、そんな! あたしはただ考えなしに押し売りみたいにしちゃっただけです!」


 慌てた顔で言って、ルミルはカタナの顔をじっと見た。

「……でも。カタナさんが闘技場で戦ってる時、『ああ。あたしの選んだ装備で戦ってるんだ』って思ったら、何て言うか、とっても嬉しい、いえ、誇らしいみたいな気持ちでした」

 思い返すルミルの声には、高揚と、本人にも自覚できない戸惑いがある。


「だから、かな? カタナさんが勝った時も、あの人に『ざまーみろ!』みたいな気持ちより、『カタナさんが勝って良かった』って思いが強かったんです」

 ややの間言いよどみ、ルミルは少し遠い眼をしてポツリと言った。


「ジークっていう人も、何か苦しそうでした」


 少女の言葉に。

「それを言い訳にして、は自分の罪を糊塗したくはない」

 ジーク=キアンが、兄のシグに肩を借りた状態で現れて、そう返答した。



「ジーク! お前、その身体で……」

「弟の手当は一応済んだ。本来なら安静にしていなくちゃならないんだが、どうしても迷惑かけた人に謝りたいって言うんでね。そちらが、コーザの妹さんかな? 会えてよかった」


 腰を上げかけるカタナを制して、シグが代わりに言った。彼自身、コーザの剣で傷を負っていたはずだが、構わず弟に肩を貸している。


「弟のしたことはさっき本人から聞いた。……本当にすまん。とんでもない迷惑をかけた」

 シグは、コーザとルミルの兄弟。そしてカタナとレレットにも、深く頭を下げる。

「とても言葉で謝っただけで済むことじゃないだろうが。これは兄の俺にも責任のあることだ。ジークの心がどれだけ追い詰められているのか、察することもできなかったんだから」


「やめてくれ、シグ兄。俺が勝手にやったことだ。俺一人が……」

 ジークはシグの肩を離し、ふらつく身体でルミルに向き直る。


「本当に、すまなかった。俺の疾しさなど、あなたには何の関係も無いというのに、自分の身勝手で脅し、傷つけた」


 そして、ジークは血の気の失せた顔色で言う。

「いかようにも、気の済むようにしてくれ。俺はこれから罪を償うために都市警に出頭するが、その前に直接話して、聞いておきたかった」


 カタナは静かに溜息をつく。自分はジークの狂気を潰すことはできたが、それだけだ。

 未だ彼は、傭兵時代の闇に足を取られている。それでも進もうと決意したからこそ、こうして傷を負った身体を押して、ルミルを訪れたのだろう。


「あの、でも、あたしは……」

 ルミルは、いかにも困り果てた顔で周囲を見回す。最初に目が合ったのはずっと黙っていた兄のコーザ。


「お前の……気の済むようにしろ。おれはそれに文句は付けない」

 彼も内心はまだ穏やかではないのだろうが、相手がこの様子ではさらに拳を振り上げるのも彼の気質では難しいようだった。


 次に目を向けられたカタナも、気持ちはあまり変わらない。

「おれの方はもう、闘技場で決着はついたと思ってるからな。きみに任せる」


 ただ、軽くルミルの肩を叩いて。

「きみなら、自分が正しいと信じることを、やれると思う」

 血を浴びた自分にはできずとも。この無垢な少女なら、罪に苛まれる男に何かがしてやれるのではないかと。

 無根拠なままに、少年は自分よりも幼い少女にそう期待を込めて後押しをしていた。


「カタナさん……?」

 不思議そうな顔で、ルミルはカタナを見返していたが、やがて、兄と同じ色の眼に理解の色が浮かぶ。


「はい、わかりました!」


 そして、勢いよくジークに向き直り。


「――バカ!」

 精一杯背伸びして右手を伸ばし。


 その小さな手で、歴戦の元傭兵の頬を張り飛ばした。



「あ……」

 ジークがルミルのどんな返答を予期していたとしても、こればかりは予想外だっただろう。


 打たれた頬に感じる僅かな熱。痛みはほとんどないが、あまりのことに呆然として立ち尽くしている。

 周囲も同様。シグもレレットも兄のコーザも、励ましたカタナにも想像できない反応だった。


「んぅー……」

 驚愕の視線に囲まれた当人のルミルは、張り飛ばした手の方が痛むとでも言いたげに顔を顰めている。


「やっぱり、ぜんぜんすっきりしないですね、誰かを殴るって。あたしにとってはただ虚しくて、疲れます」

 そして、ぽつりと言った。


「叩いただけでこれなら、もし殺したりしたら、ずっと怖くて辛いんでしょうね。それを何年も続けたりしたら、どうなってしまうか想像もできない」

 ルミルはまた、背伸びして手を伸ばす。ただし今度は、ゆっくりとした、優しい動きで。


「ずっと苦しくて、恐ろしい思いをした人に、もっと傷つけなんて言いません」


 そっと、自分が打った頬に触れる。


「あたしが望むのは、あなたがしっかり休んで、健やかに笑って生きることができるようになること。都市警に行っても、あたし、被害なんて受けてないって言いますよ。牢獄に繋がれても、あなたの涙は止まらないから」


「……え」

 いつの間にか。

 ジークの赤い瞳から、大粒の涙が零れていた。心の錆を落とすような、透明な雫が。


「……何だ、これは。泣いて、いる? 俺が……?」

 戸惑ったようにそう言って、しかしそこからは言葉にならない。ただ、十年間堪え続けた慙愧と悔恨が、嗚咽となって溢れ出す。


「……すまない、俺は、俺は……!」

 傷つけたもの、見捨てたもの、殺したものに。ただただ嘆きとともに、途切れ途切れに詫び続ける。


「長い間、お疲れさま。もう、あなたは誰かを傷つけないでいいんです」

 子供のように泣き声を上げるジーク。いくつも年下のはずのルミルは、まるで母親のように、彼を静かに労わっていた。



 カタナは、ただ目の前の光景をじっと見ていた。血塗られた男が、その心の傷から溢れた血を涙で洗っている、その様を。


「全く、だから気に食わないんだヨ、あの子」

 と、いつの間にかカタナの隣に立っていたリウが、愚痴っぽく呟いた。相変わらずの地獄耳で、状況は把握しているらしい。


「正しいことを、心の底から信じて実行する。ボクらみたいなのには逆立ちしてもできないし、逆にヤられると一番堪える」

 ぽん、とリウの背中がカタナの肩に預けられる。顔を背ける彼女が内心で何を思っているのか、声からは察することができない。


「そうかもな」

 リウの身体を自然に支えながら、カタナも否定はしない。ルミルは、期待以上のやり方でジークの影を取り払った。彼はもう道を誤ることはないだろう。


 血に汚れた身体を清めるには、別人の血ではなく、真摯な涙でなくてはならない。


 そしてそれは。自身、多くのものの血に濡れて、もはや清らかではいられないカタナにはどうやっても叶えることのできない方法で、もたらすことのできない結果だということは事実だった。


「でも、おれはいい気分だよ。おれが戦って、その結果生まれた光景がこれなら、報われたって思える」


 かすかな少年の呟きを一人聞き拾ったリウは、カタナに顔を見せないまま。

(甘いね)

 と言いたげな眼で、しかし楽しげに口元を緩めた。



 シュームザオンで期待の新鋭と持て囃されていたジーク=キアンはこの日、突然剣闘士を引退した。


 有望株を失う形となるミノス商会の長はかなり慰留したらしいが、本人の意志は固く、結局は押し切られた。そして彼は、その夜の内に商会を引き払った。

 彼の急な引退が受理された内幕では、商会に残ることを決めた兄、シグ=キアンの働きかけも大きかったことは想像に難くない。


 ミノス商会所属、ジーク=キアン。

 通算成績――6戦、5勝1敗。剣闘における死者、なし。


 あまりにも短い戦歴。

 しかし彼の名と、唯一の敗戦となった最後の戦いは、剣闘士カタナ=イサギナの記念すべき初戦を語るものとして、永く人々の記憶に残ることとなる。

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