剣闘士商会の少女
真っ昼間だというのに、酒場には酔っ払いたちがひしめいていた。
酒と汗の臭いが熱気に混ざり、慣れないものなら倒れかねない空気だが、実際にいる客の男たちは気にする素振りもない。
彼らの話題は様々だ。
どこかの貴族が傭兵を募っている。
あそこの豪商は若い愛人に入れ揚げていて、怒った妻が散財している。
最近名を上げている剣闘士が大負けした。
剣闘。
命を賭けた闘士たちが闘技場で行う決闘、そしてそれを観戦することを指す、現在の帝国においては処刑や曲芸雑技と並んで最も民衆の耳目を集める「娯楽」だ。
『剣』闘と呼ばれてはいるものの、使用する武器は剣に限らず槍や斧、棍棒に鎌なども認められているため多種多様な戦いが繰り広げられることになる。
しかもこの街は帝国内でも屈指の大闘技場を擁する都市であるから住民の関心も他所よりも高い。
剣闘は元来、奴隷や捕虜を戦わせて観賞するという、帝国成立以前からあった文化である。
だが建国から五百年あまりが過ぎた昨今では、そうした蔑みの念も廃れ、強い剣闘士は尊敬と憧れの対象にまでなっている。多くの若者が自ら望んで剣闘の世界に踏み込み、強さと名声、立身を求めて闘技場へ集うようになって久しい。
そんな帝国の街の一つ、剣闘都市シュームザオン。それがこの都市に付けられた名であった。
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「ついにお前も闘技場で稼げるようになったか」
「コーザの剣なら『隻腕』ミゼも『炎』のギジオンも一撃で伸びちまうぜ!」
ざわめきに満ちた酒場の一隅、あまり風体の良くない若い男たちが四人ほど固まっている辺りからは、そんな会話が聞こえてくる。めいめいが安酒の瓶を抱えて、手掴みで食べた炒り豆の油で汚れた指を舐めとりながら浮かれ騒いでいる。
その中にいる一人、コーザと呼ばれたのは最も若い、少年と言ってもいい年頃の男だ。
派手な色の安物の服を着崩している様は、この店の雰囲気に似つかわしい庶民の姿でしかない。しかし彼の若い肉体は鍛え上げられた強さとしなやかさが同居し、他と一線を画した存在感を見るものに示している。
自分の祝いの場でも適当に相槌を打つばかりで、ハシバミ色の鋭い眼は半ば閉じられ退屈そうに酒を眺めていたが、ふっと彼の目線が横に飛んだ。
「なあ、兄さんたち。ちょっといいかい」
コーザの視線の先には、先程酒場に入ってきたと思しき旅装の少年が一人。男たちが呑んでいる安酒よりやや高い値の酒瓶をぶら下げていて、さも気安そうに話しかけてきた。
「ァン?」
年は十代半ばを過ぎたあたり。コーザよりもさらに年下だろう。
背も厚みも年相応で、緑がかった黒い髪はボサボサに乱れ、見るからに貧相な出で立ちだ。が、赤みの差した桃色の瞳は、若さから来る底なしの生命力を放ってひ弱な印象を与えない。
「んだよボーズ」
事実、よそ者に対する隔意を隠さずに睨んでくる男たちに対し、少年は臆する様子もなくにこにことした表情を崩さずに瓶を差し出す。
「まあまあ、お祝い事なんだろ、呑んでくれ。少し聞きたいことがあるのさ」
瓶を受け取った男たちは無言で視線を交わす。
胡散臭い奴だ。
しかしタダ酒だ。
上手くすれば他にもおごらせることができそうだ。
「まあ、くれるってんなら貰っとこうかい。おうコーザ。もういっちょおめえに乾杯だ。で、坊主、俺らに何を聞きたいって?」
一番年嵩らしい口髭の男が、酒をさっそく注ぎつつもったいぶって答えると、少年は自然な動作で卓に着く。
「実は、おれはついさっきこの街着いたとこでさ。何もわかんねえとこで兄さんらが剣闘の話をしてたから、詳しく教えて欲しくてね」
「何だ、テメエ、剣闘士になって一旗揚げようって田舎から出てきたクチか」
男たちの顔が馬鹿にしたように歪み、少年を見下した。
「おいおい、剣闘士ってのは闘技場に行って『剣闘士になりたいでーす』なんて言えばなれるもんじゃねえぞ。ちゃんと剣闘士商会に所属しねえとな」
「え、そうなのか?」
「当たり前だろ。そうでもしねえと、闘技場があっと言う間にあふれかえっちまう」
なんであれ、無知な相手に知識をひけらかすのはある種の優越感があるものだ。男たちは酒の勢いもあり、口々に説明し始めた。
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『剣闘都市』として帝国全土に知られるシュームザオンは、天領――皇帝の直轄領の中にある。
シュームザオンの剣闘を取り仕切るのは名目上は都市の行政府だが、実態としては剣闘士商会が作る組合の合議で運営されている。
剣闘士商会とは、その名の通り剣闘士を売り物にしている商人たちのことで、彼らは街に剣闘士を斡旋し、街から剣闘士に出される報酬の一部を受け取ることで利益を得ている。
(要するに、剣闘士が命がけで勝ち取った金をピンハネしてやがんのさ)
その代わり、商会は剣闘士の衣食住の手配をし、街への届け出や納税などの細々とした雑務を代行する。
剣闘における商会の影響力は非常に大きい。剣闘自体の日程や剣闘士が戦う組み合わせ、猛獣との対戦などの企画。賭けの倍率設定に胴元。剣闘に関わることは何であれ組合が取り仕切っている。
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「じゃあさ、その商会ってのに入れば剣闘士になれんの?」
「まあそうだが、商会にもピンからキリまである。立場の弱い商会に入っちまうと災難だ。他所が嫌がる相手と戦うような損な役ばかり押し付けられるし、連日で真剣勝負に駆り出されてズタボロにされちまう。最悪の場合はモグリの商会に騙されて、気が付けば奴隷市の中、なんてこともあるらしいぜ」
一番背の低い、ぎょろついた眼の男がいやらしい笑いを含んだ声で囁くふりをして話す。
「名の知れた、でかい商会に入るのが一番いいのさ、結局な」
今まで黙って呑んでいた巨漢がぼそりと呟く。
「そんで、ここにいるコーザも、剣闘士五十人以上を抱える大手のサザード商会に入ることにしたのさ。何十人と志望者の集まる選考試合で勝ち抜いてな!」
「……ああ」
口髭男がざらついた顎をいじりながら、コーザを見る。
コーザの風格、純粋な意味での存在感は場の誰よりも強い。立てかけてあった木剣を見て、当然という顔で答える様子も落ち着いたものだ。
「試合? それに勝てばいいのか」
勢い込んだ少年の言葉を巨漢が遮る。
「サザードの選考はもう来年までない。他の商会も、地方の街での実績がある奴や貴族の後見人を持ってる奴を優先して採る」
「え、じゃあどうすればいいのさ、おれそんなに待ってられないんだけど」
「さあなぁ。ま、おれらの知ったことじゃあねえな」
小男がわざとらしく酒場の店主の方に目をやりながらとぼけた。
「兄さん、人が悪いな。しょーがない、親父さん、何か食うもん持ってきて。いいやつね!」
「お、わかってんじゃねえか。まあ、早いとこ商会に入るには、実は三つ方法がある」
相好を崩した小男が、ふんぞり返って指を立てる。
「一つは金を積むことだ。まあ銀貨十枚も街の顔役に渡せばそこそこの商会に潜り込める」
「そんなのムリだ。半分にだってぜんぜん足りない」
少年は舌でも出しそうな苦い顔で首を振る。銀貨が一枚あれば、成人男性が半月は楽に暮らせるのだ。
「だろうな、じゃあ二つ目。名前を売って商会の方から声をかけさせる」
「名前を売る? どうやって」
「この街にはお前みたいな剣闘士志望の連中は山ほどいる。だが、商会も商会が飼える剣闘士も数は限られている」
巨漢が運ばれてきた皿を見ながら口を挟んだ。やって来たのは、さっと炙られた鶏の皮に檸檬の絞り汁をかけたものだ。酸味が効いた香ばしい湯気が卓上に広がる。
「そういうあぶれた連中が集まって野良試合をあちこちでやっている。そこに混ざって派手に勝っていけば評判を聞きつけた商会の方から所属を持ちかけてくることがある」
「うわ。それいいな、面白そうだし」
少年の気楽な言葉に対して、小男が早速鶏料理を咥えつつ首を振る。
「言っとくがそんな方法でなるヤツは滅多にいねえぞ。コーザだって一年以上野良試合に出てたのにロクな話が来なかったんだからな」
答えて、いつも屑みたいな商会の連中ばっかりだ、とコーザが吐き捨てる。彼一人、料理に見向きもしていない。
「おう、それが三つ目だな。その屑みてえな商会に入るのが一番楽で一番くそったれな方法だ。なんせ剣闘士はいつでも誰でも歓迎しますって具合だからな。まあ、入る馬鹿はいやしないが」
「なんで? 商会に入れば生活も面倒見てくれるんだろ?」
「坊主、さっき言ったろ。弱小商会に入っちまえば、損ばっかだって」
たとえば、ここに一人の強い剣闘士がいるとする。並の剣闘士では十回やって一度勝てればいい方だという凄腕だ。
その剣闘士を雇っている剣闘士商会は彼になるべく多く戦ってもらいたい。勝てば勝つほど報酬が増えるのだから当然だ。
逆に、他の剣闘士商会は、そんな凄腕を相手にしたくはない。
勝ち目は少ないし、負ければ報酬はほとんど入らないからやはりこれも当然だ。
しかし当たり前だが、誰もがそんなわがままばかり言っていたら何時まで経っても何も決まらない。
ならばどうするか。
方法は二つ。折り合いをつけて妥協するか、弱い誰かに押し付けるかだ。
ここで、組合内で勢力のない弱小剣闘士商会がその凄腕の相手役を押し付けられる先になる。
報酬の見込めない強敵相手に、勝ち目のない勝負をしなければならないのだ。当然そんな試合ばかりでは負けが増える。
負けた剣闘士にも仲介した商会にも入る金は減っていく。
商会に金がないと剣闘士の生活も貧相になる。
余計に剣闘士の心身は弱くなり、さらに勝てなくなる。
勝てない商会はまた勢力が弱くなる。
「悪循環さ。力仕事で生活費稼ぎながら鍛えて、いい商会に入れるまで粘る方がよっぽど見込みがある」
「つーか、その商会自体が生活費にも困ってたりするんだよな」
「ああ、ヒューバード商会だろ、あそこ商会長が下働きに出て運営資金稼いでるって話だからな」
「四人しか所属剣闘士はいないわ、丸一月まともに勝ち星はないわ。もう終わったな、あそこの商会は」
そこで、酒を飲み干したコーザが淡々とした口調で話し、酒杯を卓に置く。
「屑な商会には雑魚な剣闘士しかいないのは当たり前のことだろう」
「違いねえ」
「ふーん……」
いつの間にか男たちの話題が逸れていったのを潮に、少年は立ち去ることにした。彼にとっては、聞きたいことは聞けたのでもうこの場に用はない。これ以上たかられる前に去るのが利口だ。
とりあえず、今後の方針としては腕試しも兼ねて野良試合に出てみるのが一番だろう。
「んじゃ、兄さんたち、どうもお世話様。おれは今日の宿を探すんでこれで……」
そんなことを考えて立ち上がった少年の背後に。
「ふ、ふざけたこと言うな、こ、こ、このチンピラども!」
酒場中によく通る、少女のものらしい怒声とともに、並々と酒を満たした器が飛来。そのまま少年に直撃した。
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まず彼が最初に感じたのは、ツンと刺さる酒精の甘い香り。そして次に来たのは、後頭部を突き抜ける痛みの乱打であった。
「ぐ、おおぁ……」
完全なる奇襲で後頭部に叩き付けられた衝撃に、少年は立ち上がったばかりの椅子に覆いかぶさるようにくずおれ、それきり動きを止めた。頭から被った酒の雫だけが我関せずと滴り落ちるのがまた物悲しい。
「……死んだか?」
数秒前まで上機嫌で与太を飛ばしていた男たちと、周囲で飲み食いしていた他の客たちは、突如巻き起こった惨劇を呆然と眺めていたが、誰かの呟きにはっと正気に返り、一斉にこの事態を引き起こした張本人を見た。
男たちの視線の先にいたのは、まだ年端もいかない少女。
華奢な体躯に、紺を基調にして各所に質素な寄襞をあしらったひとつなぎの服を身につけている。その服には給仕衣も一体に縫い付けてあり、少女がこの酒場の女給であることがわかる。どうやら運んでいた注文の品をぶちまけた結果がこの惨状らしい。
「おいテメエ、いきなりナニしやがる!」
「危うくおれらにぶっかかるとこだったじゃねえかゴラァ!」
いきり立つ男たち。小男と口髭の男が少女を怒鳴りつける。寡黙な巨漢もむっつりと睨みつけ、コーザは感情の見えない冷めた目で少女を見やっている。
ことの原因である女給の少女は、自身もしばし目の前の光景を信じられないといった様子で呆然と見ていた。が、我に返ると、きッ、と男たちを睨み返す。青空を思わせる碧眼に涙をためているのが、光に乏しい酒場の中でも見て取れる。
「て、訂正、しなさい!」
言葉とともに、見事な赤毛を後頭部に高く二つにくくった髪がしゃらりとなびく。なかなか絵になる立ち姿だったが、いかんせん語尾が震えているので迫力はない。
「アン? 何言ってんだ嬢ちゃん」
「訳わかんねえこと言ってんじゃねえぞ、それが接客する態度かよ」
相手が弱いと見るや小男が前に出て威嚇するように歯をむき出す。少女の瞳から涙が零れかけるが、間一髪、歯を噛み締めるようにして押し込めた。そして。
「ひ、ヒューバード商会の剣闘士は、ざ、ざこ、なんかじゃ、ない……! ていせい、しなさい!」
つっかえつっかえ、しかし大の男四人に対して、はっきりと宣言した。
だが当然、男たちの方からしてみれば、気持ちよく呑んでいたところにいきなりの横槍を食らった形である。
「……何だと?」
「おいおい、おれらが話してたことが気に食わなくて皿投げつけやがったのかよ」
「店員にンなこと指図される筋合いなんかあるか。関係ねえだろ」
席を蹴って少女に詰め寄る。他の客は無関係を決め込んで彼らから距離を取り、店主も、もめ事は知らぬとばかりに少女を見ようともしない。
「か、関係、なくなんて、ない。剣闘士のみんなのこと、悪く、言うな!」
孤立した少女は身を縮めるようにして後退りするが、視線は必死に逸らさない。
「ああ? なにワケわかんねえこと……」
「いや、待て。その顔どこかで……」
一人興味なさそうに座ったまま、倒れた少年を見下ろしていたコーザが、ふと何かに気付いたかのようにじっと少女を見る。そして数秒後、記憶を探り当てて声を上げる。
「ああ、そうだ。ヒューバード商会の商会長か」
びくり、と少女が罪を暴かれた逃亡犯のように身を震わせる。男たちも意外な言葉を放ったコーザを見た。
「ハア? マジかよコーザ」
「いや、そうか確かに噂通りだな。『あの』ヒューバード商会の娘か」
男は口元に笑みを浮かべ、仲間に振り向く。
「そうだそうだ。確か事故かなんかで元々の商会長と従業員も大勢死んだとかで娘に商会が相続されたって話だったな」
半年前、急死した商会長の唯一の血縁だった一人娘の少女は、遺された商会を畳むのも人に渡すのもよしとせず、幼いながら商会長となり、残った従業員とともに経営を引き継ぐことを決めた。
しかし、今まで麦一粒商ったこともない少女が長年剣闘を支配してきた歴戦の商人たちの中で対等に渡り合えるわけもなく。父の死後、ほんの半年でヒューバード商会は剣闘における権益や立場をほとんど失ってしまったという。
「貧乏クジを引かされまくる商会に愛想を尽かせた所属剣闘士もほとんど引き抜かれたり出て行ったりでもうロクに残っちゃいねえ。で、蓄えも底をついた今、従業員もいなくなり、商会長サンは自ら小銭稼ぎに精を出してるってわけだ」
店中に聞こえる声で己の知る事情をすっかり語り終えると、男は蒼白な顔色になった少女を見下した。
「なあ、訂正しろって言ってもよ。テメエみてえなガキの商会長のとこにいようなんて剣闘士は、他にどこからも相手にされねえからヒューバード商会って沈みかけのドロ船にしがみついてんだ。コーザの言うとおり、雑魚以外に何があるってんだ?」
「ち、ちが、違う……! みんな、みんなはわたしを……!」
「わかってないな」
黙っていたコーザが、少女の抗弁を遮って、他の男たちとは違う静かな口調で語り始めた。
「剣闘士ってのは、自分を活かしてくれる人間の下だからこそ命を張って戦おうって思うものだろう。それを、酒場で下働きするような小娘に自分の人生を預けるか? おれなら絶対にごめんだ。気の毒だとか、そんな理由で居続けるのは善意とは言わない。剣闘士としてのしあがる覚悟のない腰抜けが言い訳に使っているだけだ」
「そ、そんなことない! みんなすごく真剣に戦って……」
「その結果が連戦連敗だろう。どんなつもりで剣闘をやろうが、勝てないなら意味などない。商会は不利な勝負を押し付けられて、剣闘士は不利を跳ね返せない。商会も剣闘士も死に体のヒューバード商会はもう終わりだ」
「……や、やめて、よ」
少女の身体が傍目に分かるほど激しく震える。ただ馬鹿にされるのではなく冷酷に現実を突きつけられているからこそ、抗弁することが出来ないのだろう。言われるままになるしかない状況に少女の精神は追い詰められていく。
「……何度でも言ってやる、ヒューバード商会の剣闘士はどいつもこいつも最低の雑魚だ」
とどめの言葉に、今までなんとか踏みとどまっていた少女の理性の糸、その最後の一本が切れた。
「みんなのこと! もう悪く! 言うなぁあ!」
零れる涙もそのままに遮二無二コーザに向かって飛びかかる。何の躊躇も加減もない、無我夢中の突撃であったが、実力で剣闘士の資格を勝ち取る腕前のコーザに通じるわけもない。
周囲の者たちが少女が手もなく振り飛ばされる未来を確信したその直後。
「――まあ待てって、そんなに泣くなよ」
気絶して倒れていたはずの少年がいつの間にか起き上がり、少女の手を静かに止めていた。