終演、そして次なる開幕
闘技場を包み込む大歓声。数千もの人間が上げるそれはもはや地鳴りだ。
剣闘場の中央で歓呼の歌を一身に受ける商社は、静かに足元――敗れ倒れた敵手を見下ろしていた。彼の目には優越感も蔑みもなく、ただささやかな寂しさが揺らいでいた。
友人との楽しい遊びの時間が終わり、帰宅せねばならない子供。或いは忙しい恋人との逢瀬を終え、別れねばならない青年。そんな、単純で切実な寂寥を彼は感じているようだった。
彼は何事かを呟くが、歓声が轟く中、小さな言葉は誰にも届くことなく消えていった。
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「アダムが勝った!」
「ものすごい戦いだったぞ!」
「やはり『闘技王』は最強だ!」
「『無刃』のアダム」
歓呼の叫びに隠れるようにリウが呟く。顔に笑みはなく、一筋の汗が額から整った鼻筋を滑り落ちる。
「二つ名の通り、剣を捨ててからが本番か」
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あの時。身体ごと大剣を突き込むギジオンを正面から迎え撃った『闘技王』アダムは、白刃が身を貫く寸前、右手に持った長剣を投げ捨てた。
「……シッ!」
無手になったアダムは瞬転、眼前の大剣を正確に両の掌で挟み込み、そのまま身体ごと下に捻った。
「ゴ、ぐぁっ!」
勝利を目前にした『炎』のギジオンは、突如標的を見失い、したたかに地面に叩き付けられた。
アダムが突進の威力を掌で受け止めると同時に、前に出るギジオンの勢いを僅かに『ずらし』、墜落させたのだ。
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かつての『闘技王』サーザンが、『闘王』の二つ名を別に持っていたように、現在の『闘技王』アダムにも二つ名があった。
「――無刃、騎墜掌」
それが、『無刃』。
無手の業で武器を殺し、剣士を制する。かつては異端と呼ばれた剣闘士に与えられた二つ名であった。
『無刃』とは、自らの手だけであらゆる武器を止め、折り、潰し、壊し続けた剣闘士。文字通りの徒手空拳で全ての剣闘士の頂点に立った彼の前では、どんな『刃』にも意味は『無』い。
「……まだだ!」
だが、ギジオンもアダムの二つ名は先刻承知だ。そもそも、この二人は初対決ですらない。手の内は分かっていた。
ギジオンは片膝を着いたままの姿勢から大剣を横薙ぎ。足元の砂利を吹き飛ばしながら『無刃』の手が届かない低い軌道の斬撃を放つ。
対するアダムは即座に跳躍。一足飛びで大剣の上を跳び越えてギジオンに迫る。攻撃を外したギジオンは対処できない。誰もが思った瞬間。
「貰った!」
叫んだのは、ギジオンの方だった。
彼は自ら大剣を手放して、空中のアダムに向かって跳ぶように立ち上がり、その拳で殴りかかったのだ。
いかなる刃をも制する『無刃』に対して無刃で挑む。それがギジオンの作戦だった――アダムが気付いたところでもはや遅い。
ギジオンは岩も砕けよとばかりに握りしめた鉄拳を『闘技王』に打ち込んだ。
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「……剣士は拳士ではない」
『闘技王』アダムは、静かに言った。囁くような声は、目の前の男にしか聞こえない配慮がなされている。
「……な、ん、だと?」
ギジオンは震える声で呻く。アダムの言葉に慄いた――訳ではない。彼の耳に言葉は届いていたが、頭が意味を認識していなかった。
何故ならこの時ギジオンは呆然自失としていた。自らの拳が確かにアダムの顔面を打ち抜いた、にも関わらず。
「効かないな、ギジオン。お前の拳は、お前の大剣に比べれば蟻の一噛みだ」
アダムが平然と立っていたからだ。
何の理屈も技術も無い。大剣を軽々と振るうギジオンの拳。帝国に数多いる剣闘士の内でも、指折りの腕力から繰り出されたその一撃を受けて、ただ単純に全く効いていないのだ。
アダムの顔からは一滴の出血も、痣も無い。まさに、虫に刺されたほどにも感じていない。
目の前の事実を、ギジオンは理解することさえできず、思考も感情も停止していた。
「自らの剣を信じず、剣闘士として戦うことを諦めた――それがお前の敗因だ」
アダムは、断言すると、ゆっくりとギジオンの胸に右手を当てた。
「無刃、神通掌」
その一撃――傍目には何をしたのかもわからない一撃で、『炎』のギジオンは呆気なく意識を失い、崩れ落ちる。
「……だが、また強くなっていたな。次は最後まで、大剣で相手をしてくれ」
敗れし剣闘士に言葉を投げかける勝者の声は、どこか縋り付くようであったが、気絶したギジオンには届かず、闘技場を包む歓声に掻き消されていった。
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万雷の如き拍手を贈る観衆に背を向けて、勝者――『闘技王』アダムは去って行く。歓呼の声に答えることもなく、己の勝利を誇示することもなく。剣闘の最中、微かに崩れた表情は静謐に戻っている。
そんなアダムの後ろ姿にカタナは思う。
(勝ったっていうのに退屈そうな顔だった。本当に――聞いた通り。強い敵と戦うことしか頭にないのか)
アダムの姿が扉の向こうに消えるまで、カタナは『帝国最強』の男の背中を見続けていた。
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「ヤー、盛り上がったねー」
「そうだね。リウくん、剣闘あんまり見たことなかったの?」
「確かに、結構当たり前のことにも驚いてたな」
予定されていた剣闘は全て終了。満員の観客は一斉に闘技場を出て、中央広場へと渡り、バラバラに分かれて街の中に散っていく。
「ウーン。大きい大会なんかには寄ったことはあるんだけど、確かにじっくり見た記憶ってないかな」
「なのに剣闘士になったのか?」
「ま、ね。元の曲芸団がなくなって、路銀も尽きて身動きできなかったトコに、丁度ゴハンの面倒も見てくれるっていうからさ」
カタナたちもまた群衆の中に混じって歩いていた。西日が降り注ぐ街は朱に染まり、長い陰影が落ちている。
「え、そんな理由だったの?」
「あ、今はもうちョっとマジメにヤる気あるからダイジョーブ!」
黄昏時。あるいは逢魔が時ともいうこの時間は、普段起こらない事故や異常が起こりやすくなるという。つまり、カタナが遭遇した『それ』もそうした理由で引き起こされたのかもしれない。
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「――痛っ! いきなり何ですか!」
カタナたちが中央広場の出入り口に差し掛かった時。雑踏の向こうから、少女のものらしき小さな悲鳴が響いて来た。
数千もの人間が一斉に動いているのだ。そんな混雑の中で無関係な誰かの声に気を取られることは普通は無い。
「……あれ?」
「ね、カタナ。今の声って」
それでもカタナが反応した理由は、その声が聞き覚えのあるものだったというのが一つ。もう一つは――。
「コーザ=トートスの妹だな?」
少女の声が上がる直前、同じ方向からそんな名前が聞こえていたからだった。
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何でこんなことに――。剣闘士専門店『ノックイン』店員、ルミル=トートスは混乱する頭で考えた。
昨日、新人の剣闘士さんから注文された防具の最終調整が終わったので、勇んで配達の役目を買って出た。何せ自分の初仕事。渾身の出来の品物を、是非とも自分の手で渡したかった。
出発前、「大きな道を通るように」と先輩のイーユさんからきつく注意されたので、中央広場に繋がる大通りを選んだ。なのに、いきなり声をかけられ振り向いた瞬間、見知らぬ男に路地裏に引きずり込まれたのだ。
「きゃ、何、誰か――むぅ!」
大事な荷物を取り落さないように片手で抱え、ルミルは咄嗟に大声で叫びを上げようとするが。
「静かにしろ。黙っていれば危害は加えない」
乱暴な手で口をふさがれて、意外に若い声が頭上から響いてきた。
(つまり騒げばタダじゃ済まさないって意味じゃない!)
内心は大いに文句を言いたいところだが、既にここは狭い路地の奥深くだ。大通りから少し覗き込んだ程度では見つからない。
ここで逆らっても状況は悪化しそうだったので、ルミルはひとまず頷いておく。すると、ゆっくりと手が顔から離れていった。
乙女の唇を鷲掴みにするなんてひどい暴挙だ。いっそ噛みついてやろうかなどとルミルは思うが、実行に移す前に声が降ってくる。
「確認するぞ。サザードの新人剣闘士、コーザの妹だな?」
少し躊躇うが、言い逃れは出来そうもない。もう一度頷く。それを確認した男は、路地裏の陰でいっそう小さく囁いた。
「いいか、貴様の兄に伝えておけ。明日の剣闘、もしも勝ったならば、家族の身の安全は保証しない。とな」
人質、脅迫。
頭に浮かんだ単語に、ルミルの顔から一気に血の気が引いた。
――彼女の脳裏に浮かぶのは、家族の欠けた食卓の光景。家を出た兄の席を寂しげに眺める母。そして、空になった父の席を、暗い瞳で睨みつける幼い頃の兄。
そして残った家族を、さらに脅かすのだと、男は平然と口にしていた。
「な、何を……」
ルミルは、青ざめた顔で、震える声を出す。それは恐怖ではなく、驚愕と、僅かに湧き上がった怒りのもたらした震えだったが、男は気づかない。だからこそ。
「たったの一戦だ。新人が初戦で負けることなどよくあることだ。そうすればお前も、お前の家族も無事にすむ」
こんな、あまりにも無神経かつ身勝手なセリフを投げつけて平気な顔でいられるのだ、と。ルミルは恐怖も驚愕も、前後の状況さえも忘れて激昂した。
「ふ、ざ、け、る、な……!」
絶叫した、とルミルは思った。それくらい、彼女の頭は怒りに沸騰していた。しかし、口から出したのは自分の物とは思えないほどに重く擦れた、呻くような声。度を越した激情は、かえって表に出難いのだと初めて知った。
「何だと?」
「ふざけるな、って言ったのよ」
ゆっくりと息を吐いたルミルは、決然と振り向いて睨みつける。
やはり若い男だ。若い樹を無理矢理頑丈なノミで削ったような、彫りの深く、硬質な顔立ち。濃い緑の髪をひとまとめに頭の後ろでくくっているのが垣間見える。
血の色のような赤い眼が少女を見据える。
しかしルミルは臆することなく、男の酷薄な眼光に正面切って宣言する。
「剣闘は、お兄ちゃんがやっと見つけた目標なの……! それを卑怯な方法で、わざと負けさせて、邪魔をするなんて、ぜったいに、許さな――!」
少女の必死の言葉、それを最後まで言わせようともせず。再び伸びて来た手が、啖呵を切るルミルの喉を握るように掴んだ。
「ア、ぐぅ――」
「騒ぐな、と言ったぞ。そして俺はお前の意見も答えも聞いていない。お前はただ兄にそのまま伝えればいい。次の剣闘で負けろ、とな」
男の乾いた声とともにミシ、と自分の喉が軋む。潰される――と心に生じた恐怖が背筋を這い上がり、頭の中に忍び寄る。
(もういいから頷いてここから逃げよう。それから都市警に訴え出て、コイツを捕まえてもらえばいい。自分の身体が一番大切だ)
そんな、生存本能にも似た内なる叫びを。
「イ、ヤ……だ」
ルミルは絞り出すように、喘ぎながらも拒絶した。
「お兄、ちゃ……は、勝つ、んだ……から」
「……馬鹿な子供だ」
男の囁きと同時、ルミルの喉に致命的な損傷が刻まれる――。
その、寸前に。
「だとしても。嫌いじゃないな、こういう子」
見覚えのある少年が魔法のように現れて。
「ぐ――!」
男の顔面に一撃を与え、反射的に放されたルミルの身体を抱えるように受け止めていた。




