交渉
シュームザオン剣闘界の大手、サザード剣闘士商会の主、ダゴン=サザードは朝から不機嫌だった。
「ちっ」
屋敷の書斎にて、来年五十という歳にしてはがっしりとした身体で苛々と歩き回り、時折舌打ちを漏らす様子には、剣闘士商会組合で『餓狼』と恐れられる大物然とした態度は見られない。
彼の苛立ちの理由は、何かと対抗している剣闘士商会、ミノス商会の新入り二人が連勝していることだ。
傭兵出身のシグ=キアンとジーク=キアンの兄弟剣士。二人揃って参戦以来無傷の五連勝を果たしている。
剣闘士になったばかりで実績の皆無な新人は、同じく経験の少ない若手と対戦することが多い。故に実戦経験のある者はそれだけで有利だが、ここまで勝ちを重ねることは珍しい。
話題になる新人は、そのまま所属商会の勢いと将来性である。ミノス商会は、近頃かなり強気に組合に乗り込んで来るようになった。
「忌々しいが、第一線の剣闘士をぶつけるわけにもいかん……」
サザード商会は、毎年独自の選考試合を開催するなどして有望な新人を発掘しているだけあって、剣闘士の数も層の厚さもミノス商会を圧倒している。
事実、キアン兄弟など鎧袖一触にまとめて薙ぎ倒せるだろう実力者は何人でもいる。
だが、いくら好成績でも剣闘士になって半年も経っていない新人相手に「二つ名」を得るような剣闘士を当てることは難しい。
よしんば組合でそれをゴリ押ししても、観客は最初から勝負の見えた戦いなどでは盛り上がらない。結局、下がるのは折角の剣闘を白けさせたサザード商会の評判である。
これが、例えば没落中のヒューバード商会ならば、最初から期待されていない剣闘士に何を押し付けても文句など出ないのだが――。
なんとか一人、コーザ=トートスというキアン兄弟に対抗できるだろう腕の新人を獲得出来たのは僥倖だったが、それでもあと一人、ミノスに一矢報いる剣闘士が欲しい。
と、そこに商会職員の秘書が来客を告げる。
訪れたものの名を聞いて、ダゴンは妙な顔をした。たった今、思い浮かべた名前だったからだ。
「あの『お嬢さん』がこんな朝から何の用だ……追い返すのも外聞が悪い。通せ」
●
「ご機嫌麗しく。ヒューバード商会長」
「ええ、とても。突然の訪問、ご無礼致しました、サザード商会長」
ほう、とダゴンは内心で感心した。いきなり亡くなった父、先代商会長の服に仮装して現れた小娘は、見かけだけではなく中身もそれに合わせていると分かったからだ。
手強かった競争相手、在りし日の姿を思い起こせば、剣闘士商会組合の関係者ならば軽視するのは感情的に難しくなる。
(後ろの執事の入れ知恵――にしても、こんなに度胸が据わっていたか?)
「さて、早速ですがご用件を伺いましょう。何でも、今日の組合の会合についてお話がおありとか」
どんな商人でも、まず第一に人を見る目がなければやっていけない。それは麦商人でも宝石商人でも、剣闘士商人でも同じだ。その『目』で見たところ、レレット=ヒューバードという娘は、商売のイロハも知らないただの取るに足らない子供でしかなかったはずだ。
「ええ。是非ともサザード商会長に『ご協力』させていただきたいと思うのです」
それが、抜け抜けとそんなことを言ってのける。『協力』など、喉から手が出るほど欲しいのは自分の方だろうに。
「ほほう、それはありがたい。しかし、ヒューバード商会さんは色々と難しい時期。お気遣いは結構ですよ」
すげなく言って、狼を思わせる鋭い眼光を少女に据える。少女は、見かけ上は平静に言葉を告げる。
「それがそうでもありません。……十年に一人の逸材が入って来ましたので」
ダゴンはレレットの言葉を聞いて、思わず湧き上がる失笑を堪えた。
思惑を探るつもりで軽く揺さぶってみるとこれだ。全く他愛ない。
言うに事欠いて『十年に一人の逸材』などと。帝国全土で、毎年売るほど発せられているセリフに何の価値があると思っていたのやら。
(結局虚勢を張って譲歩を強請りに来ただけか。下らん)
気を引き締めたすぐ後に興醒めな言葉を聞かされたが、最初から単なる子供の真似事で自分のような歴戦の商人に対抗できるわけもなかったと考え直す。
あっさりと結論をつけて、口を開く。さっさと引導を渡してしまおうと。
「残念ですが――」
「そう。キアン兄弟なんて、相手にもならない逸材を」
歴戦の商人の舌が止まった。
●
かかった。レレットは、ダゴンの顔を見て確信する。
(――「相手の欲しいものを知ること。それが交渉――ひいては商売の基本です」――)
この屋敷への道中フェートンはレレットに言って聞かせた。
ただ有望な新人という札を見せても、ほとんどの商会長は見向きもしない。「売り物」がどうしても欲しい事情がないからだ。そして実はダゴンも同じだ。
だから、加工する。
『有望な新人』を『敵対する商会の重要な剣闘士を倒せる者』に。同じ内容でも顧客の求める形に商品を変えて見せれば、その顧客は魅せられる。
今回、新人の枠で猛威を振るうキアン兄弟という悩みを抱えるダゴンに合わせて、レレットとフェートンは『キアン兄弟を倒せる新人剣闘士』という見せ方を選んだ。
ヒューバードの商品を買えば、目障りな対抗勢力を削ぐことができるとけしかけたのだ。
「……本気で言っているのですか」
大人の男の鋭い眼がレレットを突き刺す。組合では、この飢えた狼のような眼で睨まれただけで何も言えなくなって、いつも下を向かされていた。
しかし、今日は違う。
(――「肝要なのは、切り札に説得力を持たせること。つまり、お嬢様がカタナ様の実力を相手に納得させることです」――)
それはつまりレレットがカタナを信頼しているかどうかだ。ここで狼狽えることは、彼の強さに疑いを持っているということ。
だから、レレットは当然、一歩も引かない。
「もちろんです。我が商会の新人、カタナ=イサギナは、キアン兄弟より遥かに強い剣闘士です」
碧眼は真っ直ぐに、ダゴンの眼光を跳ね返した。
●
(……これは、あるいは)
ダゴンは答えを出しあぐねていた。
信じるに足る物証は何もない。普通に考えれば、そんな実力者がいきなり現れるなど出来過ぎだ。
しかし、レレットの眼。間違いなく初めてこちらを真っ向から睨み返す彼女の眼に一片の曇りもないのが気にかかる。
騙そうとして来る者の眼を、しかもこんな小娘の嘘を、この自分が見抜けないなど有り得ない。
これは驕りではなく、経験からくる確信である。彼女は自分の信じる真実を言っている。カタナとやらはキアン兄弟よりも強いと。
目論見通りにいくならば渡りに船だ。しかもこれが嘘で、あっさりキアン兄弟が勝ったとしても、ミノス商会がますます調子づく以外にダゴンは損をしない。
「もし、首尾よくキアン兄弟を倒した場合、どんな対価をお望みです?」
ここの内容次第では受けてもいい。そう暗に示して一歩譲る。
「対価など。ただヒューバード商会は、先代の頃同様、ササード商会と友好的に剣闘を運営していければ良いのです」
即座に応じたレレットの返答。意味することはつまり、ササード商会はヒューバード商会の後ろ盾となり、組合の圧力を退けろということだ。
確かに組み合わせの偏りや過密な日程といった不利がなくなれば、経営回復の眼も生まれるだろう。
(やはりそれか)
内心で舌を出す。いくら重要でもたった一戦の恩でそこまでお守りをしなければならない理由はない。商人としての本能も、値切りもしないで商談をまとめることを肯わない。
まずは断る。一度突き放した上で縋り付いてくるところを買い叩けば、今まで通りにヒューバード商会を膝下に抑えておけるだろう。
「折角のお話ですが……」
計算の上で切り出したダゴンの言葉を。
「そういえば……かつて名を馳せた『闘王殺し』カーンの弟子が、シュームザオンに流れて剣闘士となったそうですな」
今まで控えていた執事の言葉が遮った。
●
「『闘王殺し』……だと!」
ダゴンは鋭い眼を限界まで見開いた。
「それは確かかね!」
カーン=ハイド。幼少の頃より剣闘に携わってきたダゴンは、当然彼の名を知っていた。ダゴンが生まれる時期に前後して引退した剣闘士だが、その伝説は、ダゴンの若い頃にはまだ巷間に広く流布していた。
「さて、所詮は噂ですしな。もしも彼、おっと、件の弟子とやらが戦うことがあれば、真偽は分かるかもしれませんが」
執事の老人は、わざとらしくとぼける。
もし本当に俎上の新人が『闘王殺し』の弟子ならば、本当に逸材の可能性がある。少なくとも、レレットの疑いのない眼の説明はつく。
何より、ダゴンは見たいと思ってしまったのだ。『闘王殺し』の弟子が、傭兵上がりのキアン兄弟を打ち倒すところを。
それは、商人の損得勘定ではなく、長年剣闘を見続けてきた一人の男としての感情だった。
純粋な剣闘士たちが、傭兵上がりにいいようにあしらわれている様は、闘技場に人生を捧げた身としては耐え難い。それを、かつての伝説的剣闘士の薫陶を受けた若者が打倒するなどと言われては、年甲斐もなくダゴンの心臓は鼓動を早めるのだ。
結果としてダゴンは、商人としての利と人間としての情。双方を押さえられてしまった。
この執事は、最初からそれを狙っていたのだろう。まんまと釣り上げられたと認めないわけにはいかない。
「いいでしょう」
そしてダゴンは心中の興奮も忌々しさも見せないまま、あたかも最初からそのつもりだったかのような態度で頷いた。
勝ったも負けたも、言質がなければ勝負ではない。これはただの――成立だ。
「協力に感謝いたします。今度とも、よろしくお願いします。ヒューバード商会長」
●
しばし後、サザード商会を出たレレットとフェートンは、街中を歩きながら会話をしていた。
「お見事でした。お嬢様、いえ、商会長」
「あ、ううん。やっぱりわたしだけじゃ、あんなに上手くいかなかった。フェートンのおかげ」
「勿体ないお言葉です」
空は良く晴れて、風は弱い。今日一日雨は降りそうにないのがありがたい。もしも降っていたら、大出費覚悟で馬車を借りなければならなかっただろう。ずぶ濡れで訪問しては、わざわざ服装を改めた効果がなくなってしまう。
「でもいいの? カタナのお師匠様のこと言っちゃって。カタナはあんまり広めたくないみたいだったけど」
「カタナ様には許可をいただいております。後ろめたいことがある訳でもありませんし。それにこうした情報は、黙っていてもいずれどこかから漏れるものです」
ただし、とフェートンはレレットを振り返る。
「最低限今日の会合が終わるまでは、サザード商会が何としても隠し通すでしょう。何故かお解りですかな?」
レレットは、しばらく目を伏せて考えていたが、すい、と顔をフェートンに向けて言った。
「会合前にカタナの素性が知られると、ミノス商会が警戒してカタナと対戦するのを避けるから」
「ご明察です。実はこれが重要なのです。何故なら、ダゴン商会長が沈黙する以上、彼を説得した理由は我々以外誰も知らぬということになりますから」
頷きつつ、秘密の情報とは持っているだけで武器となる、とフェートンは説く。
「このまま他の商会を回って、ササードの後ろ盾をほのめかせて交渉していきましょう。組合の会合までに、残る四人の対戦も固めてしまうのです」
「どんな手でうちがサザードの支援を受けたか。気になる商会は会談の内容を知るために、乗って来るかもってこと?」
ヒューバード商会には何かある。周囲が思い疑えば、譲歩も引き出せる。レレットはフェートンの意図をそう読んだ。
フェートンは、眩しそうに目を細めてレレットを見て、深く顎を引いた。
「まさしく。一つの商談を成功させることは、ただその一件の利益のみならず、他の商談にも実績や信用、人脈といった面で有益となる。そうした流れが商会という組織を動かす力となる。先代の理念です」
「……うん。やってみる」
そうして、年の離れた主従は、街の雑踏を迷うことなく進んでいった。
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そして夜。
日中都市中を歩き回り、そのまま組合の会合に参加してから帰宅したレレット。彼女は疲労と充実感の双方を滲ませる顔でカタナに初戦が決まったことを告げた。
対戦は二日後、シュームザオン中央闘技場の第五試合。相手は――。
「ミノス剣闘士商会所属。目下五連勝中の新鋭、ジーク=キアン」
レレットは、見事に商会長としての初白星を挙げたのだ。
そして。
「お疲れレレット。見てろ。今度はおれが勝って来る」
剣闘士カタナ=イサギナ。彼の長く激しい戦いの日々が、ついに始まろうとしていた。




