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剣闘のカタナ  作者: 某霊
一章 1.ヒューバード剣闘士商会
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背負うもの

 それは、海で溺れた者が必死で掴んだのが、流木であったか藁であったかの違いだとフェートンは考える。


 流木ならば良い。

 それを頼りに、岸を目指して泳ぐなり、体力を温存して救助を待つことができる。


 しかし藁であったならば?

 考えるまでもない、そのまま溺れ死ぬだけである。


 無論、藁に罪はない。藁には、人を助ける理由も、助けなければならない義務も無いのだ。

 だが、危機に瀕しているのは自分の主人であり、レレットが掴んだのは物ではなくカタナという人間だ。


 彼が流木か藁かという問題ではない。既に掴んでしまった以上、藁だったからと言って後戻りはできない。

 そして、もしもこの若者が藁の如くへし折れ消えてしまえば、一度得た支えを失ったレレットはさらに深く絶望し、失意の底に沈むだろう。そして、もう二度と浮き上がることはない。


「長きに渡る苦難に張りつめていたお嬢様の精神のたがは、今、僅かに緩んでいる状態です。取り巻く苦境が好転しているわけでもないのに。あなたという希望を得たことのみで、お嬢様の精神は安らぎを得ました」


 それ自体は喜ぶべきことですが、と呟いて、フェートンは少し間を置いて言った。

「もし希望が潰えれば、緩んだ心では圧し掛かる負荷を支えられず、一気に潰れてしまうでしょう」


 皆に笑顔を振りまき、困難に挑む気概を取り戻し、明日に希望を抱いているレレット。

 暗闇で迷っていた彼女は、カタナを得て喜び、踊っているのだ。


 自分が奈落に張られた綱渡りの途中にあることも忘れて。



「……おれがしたことは、結果的にレレットを壊す行為だ、と?」

 カタナは無理やり喉に唾を落とす。気を抜くと裏返った声で叫んでしまいそうだった。


「勘違いはなさらずに。言ったでしょう、あなたによってお嬢様は救われた、と」

「でも……!」

 明日絶望させるために、今日その手を取ったわけではないのだ。そんな思いを抱くカタナを、老人は静かに諭す。


「今日あなたに出会わなければ、結局はお嬢様は遠からず商会を破綻させ、失意に耐え切れず壊れていたことは疑いありません」

 だから、考えるべきはこれからどうするのか。その現実的な対処だと、フェートンは言う。

 そして、告げる。


「……要は、お嬢様を守るには、あの方が真に独り立ちする時まで、あなたがお嬢様を支える希望であり続ければよいのです。そのためなら、私もあらゆる助力を惜しみません」


 カタナは、そのあまりに重い意味を持つ言葉に、何の反応もできなかった。



 つまり、それがフェートンの意図だった。人は藁でも流木でもない。今カタナが頼りないのならば、頼るに相応しい姿に成長してもらえばいい。力が足りないならば不眠不休で鍛え上げ、決意が足りないならば、追いつめてでも不退転の意志を固めさせる。


「シノバ様との立ち回りを間近で見て、あなたの実力は多少なりとも見せていただきました。成程、並み以上の剣闘士として成功できる素質は十分あると思います。このまま剣闘の経験を積めば、さらなる飛躍も夢ではありますまい」


 カタナに力はある。

 十二分とは言わないが、満足できる域にあると見た。


 ならば必要なのは意志だ。この少年を、勝利レレットのために全てを賭ける剣闘士にしなければならない。


「しかしこの商会は、今この時、いかなる状況でも勝利を掴み取れる剣闘士が必要なのです。そして、商会の主はあなたにそれを望んでおられる」



 そう、カタナは確かに言ったのだ。自分はどんな不利な状況でも覆す剣闘士になると。

 語った言葉に偽りなどないし、剣闘士として上を目指すという決意は最初からある。しかし、それはあくまでもカタナ一人の覚悟でしかなかった。


 今日までのカタナの人生は、戦うのはカタナ自身の目的のためであり、負けて失うものはカタナ自身の目的と人生だけだ。他の誰かの人生を背負うなど、考えたこともなかった。


 それが今や、カタナの敗北はレレットの破滅であるという。

 重い、などと簡単に言えるものではない。背骨を直接握り潰されたように、身体が硬直し、呼吸もままならない。


「そう、その重圧。それに耐え、勝つことが、あなたに課せられた――否、自らに課した責任であるということを自覚する。それが覚悟です」


 無理だ、いっそそう叫びたかったが、声は出なかった。何故なら、カタナには分かってしまっていたからだ。自分が折れた時に、『誰』が失われるのか。


 それが嫌なら、認められぬというのなら。勝つのだ。何をしてでも、どんな相手でも。


「身勝手なことを言っているのは百も承知。しかし、あなたとお嬢様の出会いは、お嬢様を救う千載一遇、いえ、唯一の機会なのです」

 静かに断言するフェートン。カタナは何も言い返せない。老人の縛り付けた重圧が言葉を封じている。その沈黙を――。


「ちョっとさー、フェト爺。人を勝手に戦力外にしないで欲しいんだけど?」


 扉を開け放ったリウの、不機嫌な声が断ち切った。



「シノバ様、何故ここに?」

 驚きの声を挙げるフェートン、リウは当然といった顔でカタナの部屋に入り込み、寝台に腰掛ける。

「ボクの部屋って、隣だよ? こんだけ長話してればイヤでも気付くヨ」


 そして、今まで自分が居た部屋の入り口を振り返る。

「まあ、『あっち』は違う理由みたいだけどさ」


 そこには、三つの人影が残っている。

 グイードとオーブ、そしてエイン。ヒューバード商会の剣闘士たち。

 彼らは、ゆっくりと部屋に踏み込んで、フェートンに向き合う。


「フェートン、様子がおかしいと思って尾けてみれば、小童相手にえげつない真似をしたものよ。まあ、儂らの不甲斐無さが原因では責める気にもなれんが」

 グイードが黒々とした髭ごと口元を押さえて言う。


「とは言え、いきなり現れた新人くんだけが頼り、なんて言われては流石にこちらのなけなしの自尊心も傷付くね。いよいよ尻尾に火が点いたか」

 オーブがおどけた様に言うが、青い眼の光は先刻の様子からは想像もつかない鋭さだ。


「……しかし、敗北は自分だけのものではない、か。確かにおれが負けて失うものを、その重さを忘れていた」

 エインが、ゆっくりと噛み締めるように言う。先刻まで暗く淀んでいた眼は、確と前を見据えていた。


「で、みんなはこう言ってるけど、フェト爺のご意見は?」

「……」

 リウの言葉に、フェートンは改めて三人の剣闘士を見る。誰もが、かつてヒューバード剣闘士商会が健在だった頃から見知った者たちだ。


「のう、お主にそこまで思いつめさせて、申し訳なかった。商会の危機に、一番身体を張ってやらねばならんのは儂らだったことを忘れて、いや、まともに考えもせんかった。失ったものを嘆くばかりでな」


「でも、目が覚めましたよ。僕らが甘えていたって。レレットさんの、あの嬉しそうにカタナくんを見る顔で。そして、フェートンさんに見切りを付けられてね」


「ああ、商会の看板を背負って、一心不乱に剣闘に挑んでいた頃は、一度負ける度に、その夜は一睡もできない悔しさに襲われた。今それを思い出したら……そうだな。何が何でも勝ちたくなった」


 彼らの眼には、『覚悟』があった。勝利のために自らの命と尊厳と、存在そのものを賭けるという『覚悟』が。


 フェートンにも、この半年間、彼らの中にあった迷いや懊悩が影を潜めて、今やどこにも見当たらないことがわかったのだろう。

「……全く、剣闘士という人種は。とことんまでに単純な……」

 何故たった数時間で別人のような顔になれるのだと、込み上げる何かを押し込めるように呟いた。


「カタナ」

 立ち尽くすカタナに向き直ったエインが、目を合わせて語りかける。


「おれたちが情けないせいで、来て早々に迷惑をかけた。今さら格好つけたことは言えないが、これだけは聞いてくれ」

 若草色の眼に宿る光。

 剣で人生を切り開く、剣闘士の眼光。それが、カタナの心に焼きついた。

 

「剣闘士が、それぞれ背負っている戦う理由は違う。夢、家族、富、信念。それは、自分自身にしか背負うことのできないものだ。君にも、君だけの理由があるだろう」

 しかし、と彼は続ける。


「しかし、たった一つ、どの剣闘士も等しく背負っている理由がある」


「それは、商会の名誉だよ」

 オーブが後を受けて言葉を継ぐ。

「剣闘士は、自分のためだけではなく、自分を闘技場に押し上げてくれた商会のためにも戦わなければならない」


「それを怠り、このヒューバードの名を汚しきってしまったのは、紛れもない儂らの責任。儂ら自身の手でこれをそそぐ」

 そしてグイードが、肩の筋肉を僅かに隆起させ、力強く言葉を結んだ。


 それは、今までの負債は自分たちで清算するのだという宣言だった。

 一人の男として、剣闘士として、『後輩』にツケを回すことなど許されないのだと。


「だからカタナくん、そしてリウくん。君たちもヒューバード剣闘士商会の剣闘士であるならば。その後で、共に背負って欲しい」

 自分たちがヒューバードの名誉を取り戻してから。


「レレット=ヒューバードという、新しき商会の主をな」


「一人で戦う覚悟などしなくていい。おれたちは共に戦うことができるはずだ」

 それが、ヒューバードの名を背負う剣闘士の証となるから。



(これが、剣闘士の覚悟)

 カタナは思う。自分は剣闘士のことを何も分かっていなかったと。戦い、勝ち、上を目指すことだけが剣闘士に必要なものだと思い込んでいた。


(――「剣闘士ってのは、自分を活かしてくれる人間の下だからこそ命を張って戦おうって思うものだろう」――)


 今日聞いた、コーザの言葉が脳裏に響く。

 彼にはわかっていたのだろう。だからこそ、あれほどの腕を持ちながらも自分が納得して身を預けられる商会に所属することを目指して今まで待っていたのだ。


 負けたくない。ふと、そう思った。

 剣闘士としての力も、覚悟も。コーザだけではない、誰にも負けない『強い剣闘士』になりたいと。


「フェートンさん」

 カタナは静かに言った。


「あなたの言う覚悟、よくわかりました。剣闘士として、自分のために、そしてこの商会を守るために、勝って来ます」

 ただし。

「一人は全ては背負いません。ここにいるみんなと一緒に、ヒューバード剣闘士商会を守ります」


「……ええ。私も、あなたに押し付けるのではなく、奮戦を期待し、協力させていただきます」

 フェートンは頷く。今さら謝罪などしても意味などない。ただ、この身の全霊を以って彼ら剣闘士たちの助けになろうと心に誓った。


「ヤー、ここもイヨイヨ面白い感じになって来たね!」

 あくまで自分の調子を崩さないリウが、心底楽しげな笑顔で締めくくる。


 この日、ただの少年だったカタナ=イサギナは、ヒューバード剣闘士商会の剣闘士となった。

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