大海の竜、逆鱗を知らず
『連絡』
今回登場するゼガとシオンの二つ名を少し変更・修正します。
一回戦、第七戦。
「リウ・『車輪剣』のロロナ」対「『狂い斧』ゼガ・『落涙』のシオン」。
「さて、と」
リウは、剣闘開始直後から悠揚迫らぬ態度でふらりと歩き出す。
「ククーテア商会所属、ゼガとシオン兄妹。二人とも二つ名持ち剣闘士で、兄のゼガは斧使いで妹のシオンは長剣。どちらも他に類を見ない異様な戦いぶりが特徴――でいいんでしョ?」
「調べたの?」
「そりゃまあ、初戦の相手くらいはね」
傍らの『車輪剣』のロロナの問いに、暗器使いの少女は肩を竦める。
「まあ、情報いくら集めたって実際に立ち会わないと分かんないことの方が多いから、参考程度にだけど」
改めて、見据える。
取回しに優れた片手斧と円盾を携える『狂い斧』ゼガ。
長剣を正眼に、はらはらと涙を流す『落涙』のシオン。
「直に見ると、事前情報有っても驚きだヨ」
呆れたような、少し呑まれたような、眉根を寄せた表情のリウ。
涙を流しつつ刃物を構えるシオンの姿は、実力以前の段階で既に危険な気配が色濃く漂っている。なまじ顔の造作が整っているだけに、その表情が玲瓏と言ってもいいような独特の迫力を醸す。
「まさか貴女と闘技場で戦う日が来るとは思いませんでしたよ、『車輪剣』」
そこで、『狂い斧』ゼガが彼の持つ二つ名の印象にそぐわない丁重な態度でロロナに眼を向ける。
「――それはお生憎様」
長身の少女は素っ気なく言葉を切って愛剣『車輪剣』を加速させる。直後、彼我の距離は互いの間合いに入る。
「いえ、嫌味ではないのですが。僕は貴女に私怨も義憤もありませんし。ただ――」
迫る巨大剣から跳び下がるゼガ。そして対照的に前に出るのは――『落涙』のシオン。
「――シィアッ!」
「うちの妹が、その『車輪剣』で遊びたいようでして」
互いに二つ名持ちの女性剣闘士同士の激突が、『双剣祭』一回戦後半の開幕の一撃となった。
●
「……ふうん」
叩き付けた『車輪剣』の大威力を逸らされたロロナは半ば感心、半ば心外の面持ちで一つ間を置く。
「――あは、で、き、た」
対するシオンは涙の流れるままに奇妙に虚ろな笑みを浮かべる。確かめるように、長剣をゆらゆらと振るわせる。
彼女の声はどこか幼い。いや、むしろ大人びて見えるだけで実際の年齢は声相応なのか。
しかし、そんな外見よりも『落涙』の剣閃にこそ、ロロナは刮目させられた。
「イサギナくんの再現、か」
『車輪剣』の剣身を自身の武器で捉え、軌道を逸らす。今シオンがやってのけたのは、かつてのカタナとの剣闘で彼がロロナに見せたのと同じ攻略法だ。その戦法自体は初見ではないが――。
「ぞくぞくする、死ぬかとおもった、でも見えた――ふひ」
しかし、「前例」があるからといって己も再現しようと思いつき、しかも実行して成功させられる剣士などシュームザオンにも何人いるか。
「もう一回、やってみたいなー……」
「……」
まるきり珍しい玩具で遊ぶ童女のような風情のシオン。その剣才は、疑いの余地なく天賦の域。
『落涙』の剣闘士シオン。二つ名にあるその涙とは、彼女の眼が全力で稼働していることの証しだという。
常人離れした高精度の動体視力。それがシオン最大の武器。
『隼落とし』のエインの見切りにも似たその瞬間把握は、あらゆる攻撃あらゆる混戦を分析し間隙を穿つ。
その異常活性した眼球を守るための冷却機能――それこそがシオンの『落涙』。
「じャ、こっちは見えるかな?」
向かい合う両者の間に飛び込んで来たのはリウ。右手に鎖分銅の『縛』、左手に飛刃の『針』をかざし、『落涙』の剣闘士に向かって駆ける。
「は!」
対して敵手も黙って見てはいない。『狂い斧』のゼガが妹の前に出て片手斧を振るいリウの鎖を打ち払い、盾で飛刃を受け止める。
「――ふっ!」
「あはぁ」
激突したリウとゼガに合わせて、ロロナとシオンも再び交錯。至近距離で四つの戦意が獲物を舞わせ、闘技場の大気が唸りを上げて巻き荒れる。
「――っ!」
短くも激烈な戦戟の渦中より、最初に外れたのはリウ。彼女は四人の中で唯一正面切って撃ち合える武器を持っていない。間合いを取っての戦闘に切り替えるのは必然の選択だろう。
しかし当然、それを簡単に見過ごすほど甘い二つ名持ちは存在しない。瞬時にゼガの追撃がリウに降りかかる。
「あ、は、は、は!」
高らかに、拍子を刻むような笑い声を上げるゼガはしかし完全な真顔だ。実は能面を被っているのだと言われた方が納得するほど、その表情筋は役割を放棄している。
「――き、っ!」
リウが、彼女らしからぬ引きつった顔で『針』を投射しさらに距離を取る。罵声を呑み込んだのか、あるいはまさか悲鳴を堪えたのか。
「――あ、あ、は、は、は!」
「……なんなんだヨ。もー!」
しかし、それが図星だったとしても誰もリウを小胆とは嗤えまい。
真顔のまま笑い声を上げて斧を振り回して襲って来る男。
剣闘士に奇人変人が多いのは世の習いだが、ここまで来ると変わり者を通り越して単なる危険人物である。いっそ都市伝説の怪人と言った方が正確か。夜道で出くわせばそれこそ剣闘士でも失神しかねない。
「や、は、とう」
「は、は。あ、は、は!」
だが。
無論、シオンもゼガも歴とした二つ名持ちの剣闘士である。
つまり――当たり前に一流の戦士だ。
「くあっ」
「――!」
見せかけの異様さなどに惑わされている内は、彼らに対する勝ち目など、一片たりとも生まれはしない。
『車輪剣』の剛剣は『落涙』の剣が捌き、リウの暗器は『狂い斧』が封じ追い詰める。予選では十全に機能したリウとロロナの連携が、この兄弟の前では封殺されている。
「さて……」
その劣勢の中で、しかしロロナは冷静だった。
かつて彼女はカタナのこの戦法によって『車輪剣』を凌がれた。あの剣闘は少女にとって人生最高の思い出の一つだが、苦戦したことへの反省はまた別の話。
ましてこの『双剣祭』でロロナはカタナと再戦する意気を持って臨んでいる。故に当然対応策は練ってある。
「――はあぁ!」
「!」
喝破震空。常以上の闘気を込めて振り抜かれる『車輪剣』――しかし。
(低い!)
シオンはその涙目で瞬時にその軌道を読む。
足元を刈るような下段の豪風。墜落しかねない姿勢で尚揺らぎなく巨大剣を振るうのは『車輪剣』の二つ名の面目躍如か。
(上から叩くしかない――いや)
たとえ落としたとして、『車輪剣』は構わず地面を削ぎながらシオンの足を轢き潰すだろう。
上には逸らせず、下には逸らせる余地が無い――。
「くっ」
「ちぁ!」
反射的に跳んで回避するシオンだが、その動きまで読んでいたロロナの右足が勢いのまま跳ね上がり『落涙』の脇腹を捉える。
「ぎっ!」
空中で身を捩り体勢を立て直して着地するシオン。少女の目から零れた涙が宙に散らばり陽光を受けて微かな輝きが両者の間に束の間落ちる。
「……本当に、大した眼をしてるね」
ロロナの右腕、肘の辺りから微かな出血。蹴りを受けつつも、シオンは反撃の一矢を届かせていた。蹴りの姿勢、自身の剣の間合いを瞬時に見切り、確実に届く斬撃をねじ込む『落涙』は、勢いのままに押し切るという戦いを許さない。
「あぁ……痛い」
逆撃を誇る様子もなく、シオンはロロナを涙目で直視する。蹴り込まれた脇腹には鉄塊を叩きつけられたような鈍痛。『車輪剣』だけでなく、『無刃』のアダムの後輩で非常な長身も併せ持つロロナの格闘は二つ名持ちの剣闘士にとっても十分な脅威だ。
「でも、見た、覚えた……次は斬る」
「あなたには無理だと思う」
『落涙』のシオンは泣き腫らした眼で宣言し、『車輪剣』のロロナは無機質に断ずる。
「ったく、面倒臭い!」
「は、は、は!」
直後、両者の間にこちらも激しく切り結ぶリウと『狂い斧』ゼガが再び乱入、二組四名の混戦が再開された。
●
「り、ぁぁ――!」
『落涙』の剣闘士、常に涙に濡れていなければ酷使に耐えきれぬほどの異様な眼力。その眼の性能は言うまでもなく人の常識を外れている。
「つまり、ボクらの同類か」
襲い来る剣先を『縛』で喰い止めつつ、リウは囁く。
カタナの「血」は環境から来る適応。
リウの「耳」は血統管理による改良。
シオンの「眼」はおそらくそのどちらでもあるまい。兄のゼガの眼には妹のような特質は見られない。ならば。
「純粋に偶発的な発生――突然変異ってヤツかな」
卑怯とは言うまい。リウも同様の聴力を戦闘に用いているし、そもそも人の身体とは皆違うのだ。いちいち違う点をあげつらって差がなくなるわけではないし、特殊な部分の有無と戦いの強さは、根本的に別の話だ。
事実。
「は、は、は――!」
(眼力の無いこっちの方が、妹ヨり苦手だ!)
シオンと組み合った隙を突いての斧の一撃、ロロナが援護に振るった『車輪剣』で弾き返すが、器用に足を浮かせた『狂い斧』は勢いに逆らわず後方に着地する。
「笑い声の拍子と、実際の動きが違う――それだけでここまで厄介なのか」
妹シオンの涙が見せかけでないように、兄ゼガの狂い笑いもまた、単なるこけおどしではない。
一定の間隔で小刻みに放たれるゼガの笑声。規則的に響くその拍子は対戦者の耳に刻まれ、しかしゼガの攻撃はそれを裏切る。
(「は、は、は、は、は!」の声に対して攻撃は「ッダ、ダダッ、ダダダ、ダ!」って感じか。ほんの一部被せて来るのがまたイヤらしい)
声の虚像と実際の攻撃、頭の中で二つ目の敵をぶつけられているようなものだ。常識外れの耳を持ち精度にも優れたリウをして、一朝一夕には慣れることが出来ない。
嫌がらせの攪乱、と斬り捨てるには効果が絶大で、また実現させるには難易度が高い。
自分で刻んでいる拍子を敢えて無視するというのは、やってみればわかるが非常に神経を使う。大抵は声が身体の動きに引っ張られるか、身体が自然と声に合わせてしまうかのどちらかだろう。
一見異様な姿に惑わされるがその実は地味で狡猾、それでいて確かな裏打ちのある分厚い強さ。その表裏の齟齬も『狂い斧』の二つ名の構成要素か。
「ああ、ホントに厄介で――なんて楽しい――」
「隙――見えた」
「そこか!」
興が乗り戦いの悦楽に浸るリウ。そのわずかに前のめりになった一瞬を逃さず、『落涙』と『狂い斧』の兄妹の武器が阿吽の呼吸で少女を襲う。
「え」
「リウ!」
剣闘を己の娯楽とする――。若き暗器使いの傲慢にも近い稚気に、戦いの綾が撓み、一点に収束する。
――ばっ、と。リウ=シノバの鮮血が闘技場の地面を濡らした。
●
「リウ!」
ロロナは、眼前で斬り裂かれたと見えたリウの身体がぐるりと回転して崩れかかるのを片手で支え、咄嗟に『車輪剣』を地に走らせ追撃するゼガたちを引き離す。
「無事?」
「あ……?」
リウの顔を覗き込んだロロナは表情を凍らせる。寸前で身を躍らせて直撃を避けたのか、リウは致命の傷は避けていた。しかし――。
「眼が……」
リウの右頬を斧が抉り、右目もまた縦に刃傷が走っている。そして双方の傷からはとめどなく鮮血が溢れ、小麦色の肌を浸している。
(眼は、潰れていない? でも……)
剣闘の続行は可能か?
しかし、ここで無理をすれば最悪リウの右目は手遅れになる恐れもある。
ロロナは判断を迷う。
自身のことであれば、覚悟を決めることも退く決断もできる。しかし――。
「ち……、傷?」
そこで、数秒朦朧としていたリウが正気付く。ほぼ本能的に立ち直り構えたところで、自身の右半面の異常を初めて知覚し、停止する。
否――目覚めた。
ぐりん。
首が、傾く。
左目だけが、ぎょろりと巡る。その動きに生物的な熱は無い。
シノバの耳が、息遣いを聞き取り、眼の焦点が合う――ゼガとシオンに。
「――アア、そうか。死にたかったんだね、キミたち」
「うっ……」
「な」
顔面を血に染めて、傾いた姿勢で笑い掛けるリウ――シノバの里のリーリウムに、『落涙』のシオンは息を呑み、『狂い斧』ゼガは笑声を止めて身構える。
「楽にしててヨ……すぐに済む」
同時、リウが背中から新たな暗器を抜く。
「それ」は、一本の筒のような金属製の機甲。
暗器と呼ぶには大仰で目立つ「それ」を、リウは右手に仕込んだ杭打ち機構『砕』に接続。右腕から突き出す形で一体化した「それ」と『砕』は新たな――本来の姿を取り戻す。
「『砕・忌打』――『万象一人事代身罷リ』」
禍々しい『武器』の名乗りと共に――。影の兇徒が、全力の殺意を解き放った。
●
「――」
威嚇も無く、愉悦も無く、感慨も無く、ただ殺す。
「ぎっ!」
「にいさん!」
あからさまに出して見せた『忌打』に気を取られたところを『針』で射抜き、まんまと右手を貫かれたゼガが斧を取り落とす。
二つ名持ちにしては易々と喰らったが、それこそがシノバの暗殺。実力があるものは発揮できない体勢を作り、隙が少ない相手ならば隙ができる演出をしてやればいい。
久方ぶりの殺意に心の臓まで凍らせて、シノバの里のリーリウムは自分が少し意外だった。
顔に傷がついたことは何もこれが初めてではない。里の訓練でも実戦でも、似たようなことは幾度もあった。
顔を傷つけられたのは――そう、シノバの里を抜ける時以来か。
(あれから、何か変わったのかな、ボク)
「はあっ」
「――」
兄を庇って前に出た妹――典型的なまでに簡単な的だ。
斬撃を『忌打』で受け、同時に左手で剣を掴む。手袋型の投網、『霞』を解きぐちゃぐちゃに絡ませながら引き抜いてやれば、何も斬れないナマクラの一丁上がり。
「な……がはっ!」
引き抜く勢いのまま鉄靴の『茨』で蹴り上げる。剣を持った相手に使う、いつもの殺り方。
剣闘だとあんなに苦戦していたのに、殺すと決めたらここまで楽な相手になるものか。いっそ不思議なくらいだ。
(イヤ、今のボクって現役の頃ヨリ強いな)
剣闘士として鍛えたから?
それとも、ただ単に怒りで見境がなくなっているだけか。
ぽたり、ぽたりと。血が一滴流れる度に殺意が膨れ上がる。
「は、は、ぐう!」
斧を持ち替えて笑声を始めようとする『狂い斧』の顔を、右から『縛』の分銅で横殴りに黙らせる。右手が使えないならそこを突けば防御の考慮は薄くていい。
叩き伏せられ、なお立ち上がる二つ名持ちたちに、リウは『忌打』を突きつける。
『忌打』とは、大仰で目立ち過ぎ、暗器としては使えぬ忌物として付けられた分類。
そして、単なる失敗作ではなく銘まで付けられることとなった理由は、暗器としての機能と引き換えの、単純戦闘においての圧倒的な性能。
『万象一人事代身罷リ』、それはシノバの里にも稀なる戦闘特化暗器。
「――」
威嚇も無く、愉悦も無く、感慨も無く。ただ淡々と、『引鉄』を引く。
第一機構、『砕』本体から射出された杭が『忌打』の底面を叩き、勢いのまま第二機構を作動。
「なぁ!」
「見え――」
弾け飛ぶ勢いで突き出されるのは杭ではなく、刃。
ただ砕くのではなく、突き込み、撃ち砕き、そして殺す。
その作動は機構由来。どんな戦士であっても、その起こりを読むことは不可能だ。しかもリウはさらに自身の腕を振るい突きと薙ぎを同時に使っている。武技の域を外れた、異形の暗殺術。
ゼガとシオンは、一撃で吹き飛ばされ、満身創痍で地を這っている。もはや決着。いや、違う。
「――」
シノバの技は、殺しの技。相手が死んで、初めて終わる。
第三機構起動。反動を利用して刃が戻り、同時に『砕』本体にも杭が収納される――自動装填機能。
相手が死ぬまで、何度でも撃てる。汲めども尽きせぬ死弾の奔流こそ『忌打』の本質。
そうだ、自分は殺したいほどに怒っている。
(何に?)
顔を派手に刻まれたことにだ。
(今までだってそんなことは何度もあったのに、それは何故?)
それは――。
「見られたく、ない」
剣闘は、真剣勝負だ。傷付くことも、死ぬことだって覚悟の上でなければ戦う資格はない。
傷がついたからって、それも自分の責任なのだ。弱いのが悪い。油断したのが悪い。そんなことは分かっている。
だが、それとこれとは話が別だろう?
八つ当たりと言われても否定はできないが、それでもだ。
「――」
ケリを着ける。その最後の一撃を放つ寸前、その手を誰が掴んで止めた。
「もうやめなさい、リウ」
「――ロロナ」
リウは耳で彼女の動きも把握していた。だが、ここでわざわざ止めに来るのは少し意外だった。
ロロナは平静に、ただリウを真っ直ぐに見つめていた。
●
「いいじャない。ここまでヤったんだから。最後まで済まさせてよ」
「……」
自他の血に濡れたリウの平然とした殺意を前にして、しかしロロナは揺るがない。殺意というなら彼女もまた死線の中で戦って来た者なのだ。鉄火場において今さら怖気づくことはありえない。
すぐ近くで見届けた、リウの殺意に満ちた戦いとも呼べぬ蹂躙。腕づくで止めるにはロロナと『車輪剣』をもってしても命がけとなろう。
しかし、多分それは無用の心配だろう。
必要なのはたった一言。今にも泣きそうなほど動揺している年下の少女に、ロロナはそれをただ告げてやればいい。
「イサギナくんが、見てるよ」
「!」
反応は劇的だった。
少年の名前一つで、殺戮者は少女に戻る。
さっと顔色が変わり、傷を負った顔が観覧席を向きかけ、すぐに背けられる。そこには恐れと、怯えの色がある。
「……」
「大丈夫。すぐに手当てをすれば、痕も残らない」
なんの根拠もないが、断言する。今必要なのは、気休めでもいい、安心させるための言葉だ。
そして、リウの手から力が抜けて、腕に巻き付く暗器が外される。最前までの殺意はもう霧散して跡形もない。
「……カタナ、怒るかな?」
「平気じゃない? イサギナくん優しいし」
「優しいけどすぐ怒るんだヨ、カタナは」
ロロナは思う。
今まで、リウにとって剣闘は遊びだったのだろう。
だから彼女は恐れもなく闘えて、しかしその暗器には重みが無かった。
しかしそれも今回までだ。
剣闘の怖さを身をもって知り、また自身の傷つけられたくない想いも自覚した。
逆鱗があってこそ、竜は竜たりえる。
リウは剣闘を、闘うことを恐れるようになるだろう。そしてだからこそ、彼女が闘技場に立つことには意味が生まれる。
覚悟と想いと、勝利を求めて戦う剣闘士に、リウ=シノバは今この時に成ったのだ。
「さ、もう行くよ」
「……はーい」
バツの悪そうな顔で誤魔化した返事をするリウに、ロロナはこの子もなんだかんだで年下だったんだなあ、と異様に呑気な溜息を一つ吐いた。




