小さな世界で壊れる彼女
薄暗い部屋。壁に据えられた燭台に一本だけ灯が揺れて、壁に二人の朧な影を為している。
「夜分にとんだ不作法ですが、ご容赦ください、カタナ様」
謹直に礼をするフェートンにカタナは軽く手を振って遮る。
「構わないですよ。大事な要件みたいですし」
「ええ、あなたには是非とも承知しておいていただきたかった。既にご存じの部分もおありでしょうが、事の起こりから、順を追ってご説明させていただきます」
そして、老人は薄闇の中でゆっくりと語り始めた。
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「もうおわかりでしょうが、現在のヒューバード商会は非常に苦しい経営を余儀なくされております。半年前、この建物に溢れるほど居た剣闘士で残っている者は既に、グイード・エイン・オーブの三名にまで減ってしまいました。こうなってしまったそもそもの原因は、職員の幾人かと、そして使用人のほとんどが先代とともに屋敷の火事で亡くなってしまったことでございます」
「火事――レレットの家が?」
カタナの脳裏に屋敷に訪れた際に聞いた言葉が再び響く。
(私が昔住んでた屋敷は別にあったけど、もう売っちゃった)
あの言葉は、ただ資金難になって手放したということではなかったのだ。
父が命を落とした場所であり、その時までのすべてを失った象徴を、そのまま所有しておくことができなかったということなのだろうか。
レレットはどんな思いであの言葉を口に出したのか。カタナには想像もつかなかった。
しかし二人のそのやり取りを知らないフェートンは、単に住人のレレットが無事だったことの疑問と受け取ったようだった。
「ええ、聞いたところによると、お嬢様はその時はこの商会の方にいらして、偶さか九死に一生を得たそうです」
言うべき言葉を失ったカタナは黙然と聞き入る。
「使用人、従業員には火事の難を逃れたものもありましたが、ヒューバード家の資金が払底したのに前後して皆いなくなりました。私はその頃は帝都に居を移して不在。事態を知ったのは先代の死から一月後のことです」
それは、一人の少女の世界が崩壊する物語。
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レレットの父が幼い頃から、ヒューバード家に使用人として仕えていたフェートンは、数年前に年齢のため引退。亡き妻の故郷である帝都に移り住み余生を過ごしていた。
そこにかねてより親交があった、ヒューバード商会の古参剣闘士であるグイードから悲報が届いたことで、フェートンは初めてかつての主人の死を知った。
「ご存じの通り、『一般人が』帝都からこのシュームザオンへ向かうには、馬車でも最低一月はかかる険しい山道を通るか、他の都市を経由して大きく迂回するかです。私は急報を受けてすぐにシュームザオンへ直行。帝都を発ちましたが、途中山道の落盤などもあり、お嬢様にお会いできたのは初報からさらに二月後のことでした」
ようやく辿り着いたシュームザオンでフェートンが目にしたのは、見る影もなく衰退したヒューバード剣闘士商会と、別人と見間違うほど憔悴したレレットだった。
頬はこけ、顔色は死人のような土気色。深い青空を思わせた碧眼は暗く濁り、赤い髪も艶を失い赤茶けたようにくすんでいた。
周囲に頼れるものも少ない彼女は、疲弊しきって、フェートンに知らせを送ったグイードに支えられて立つのがやっとの状態だった。
当時の痛ましい姿を思い出したのか、フェートンは重々しく息を吐いた。
「私は、すぐにお嬢様を休ませ、もはや手の付けられぬ有様の商会を処分しようといたしました。そうして残った資産でお嬢様の生活や将来を守る手配をしようと。あるいは帝都に連れ帰って療養していただこうかとも」
しかし、レレットはそれを認めなかった。
どころか、焼け落ちて放置されていた屋敷跡のある土地を売って商会の経営資金にすると言い出した。なんとしてでも商会を存続させるのだと言い張り、ベッドから転がり落ちるようにして働こうとする。
フェートンがいくら言葉を尽くしても、一歩も引かずに睨みつける姿は、執念と呼ぶのも生温い壮絶さを孕んでいた。
三日後、これ以上押し問答を続ければレレットの身体が保たないと諦めたフェートンの方が根負けして、健康を取り戻すまで大人しく静養することと引き換えにレレットの希望に沿うことにした。
「それから、私が経営のお手伝いをして、なんとか滞っていた問題を処理して剣闘士商会の体裁を整えました。お嬢様も少しずつ快復なさっておいででしたが……」
それまでの数ヶ月にヒューバード商会が受けていた傷はもはや致命的だった。
止まらない剣闘士の流出。競争相手の剣闘士商会は弱ったヒューバード商会を食い物にしようと圧力をかける。
さらには残った剣闘士たちの不調が決定打となった。
「短い間にこれだけ状況が悪化したのですから、平常心で戦えと言っても無茶と言うものです。彼らはあまり表には出しませんが、動きのキレは門外漢の私にも分かるほど鈍っています。商会に残ってくれただけありがたいことなのですが、現実問題として収入が途絶えてしまってはどれだけやり繰りしても必ず限界が来ます」
レレットは初め、彼らが本来の調子を取り戻すまで待てばいいと言った。三人が勝てるようになれば、人数の少ない今の商会ならば支えられると。
しかし、剣闘士たちの不調は商会が傾いたことが原因なのだから、彼らの復調によって商会を立て直すという考えは明らかに矛盾していた。剣闘士たちの連敗は続き、商会はさらに困窮した。
ついにレレットは、やむを得ず新たな剣闘士を補強することを提案した。
「ところが、悪評とはよく広まるもので、これも中々難航しました。方々手を尽くして、やっと一人迎えたのが先月のこと。その方がリウ様です。ご存じの通り変わり種でして、五日前が初戦だったのですが、それを落としてしまいました」
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「ちょっと待ってください、リウが負けた?」
フェートンの話に、カタナはつい口を挟んだ。リウの技量は直に手合せした自分がよくわかっている。その全力は未だ目にしてはいないが、あの『手』の多さがあれば誰が相手でも簡単に負けるとは思えなかった。
「おっしゃりたいことは分かります。事実、完全な実力で負けたわけではありません。本筋とは関わりませんので詳しいことはまたの機会にしますが、敗因は手続きの不備のようなものです」
そう語るフェートンは何だか今までとは異なる種類の苦渋の表情を浮かべている。
「まあ、理由が何であれ、負けは負けです」
そしてついに今日、ヒューバード商会は前月から丸一月、所属剣闘士の勝ち星なしという創業以来初の惨状を記録してしまった。
悪化する状況に、慣れない経営者が後手後手に回りながらその場凌ぎの対処療法を繰り返した。
その結果が、今のヒューバード剣闘士商会の没落だった。
「最近のお嬢様は、どうにか少しでも長く資金が保つようにと、日雇いの仕事などを始めるようになりました。無論、一人の賃金で得られる収入など、商会にとっては焼け石に水です。いくらお止めしても、やはり聞き入れてはくださらなかったのですが……」
フェートンは一旦言葉を切り、じっと固まって聞き入っているカタナを見た。
「……おれがそれを止めさせた、と?」
「ええ。あなたとお嬢様の間にどのようなやり取りがあったかは存じませんが、今のお嬢様は先代がまだご存命だったかつてのように明るい表情をしていらっしゃいます。しかも、あれほど苦手、いえ、恐怖の対象ですらあった海千山千の剣闘士商会の長たちと渡り合う決意を固めておられる」
カタナの正直な気持ちとしては、そんなことを言われても困る、ということに尽きる。
確かに自分にできる手助けをしようと決めてはいたが、他人の人生を丸ごと救ったように言われても、自覚の無いこちらとしては反応のしようがない。
率直に言うと、重い。
「あの、組合って、何度も名前は聞きましたけどそんなに厄介なんですか」
居心地の悪さが増したカタナは、何だかこの人には対応に困る話ばかりされているな、と思いつつ話を逸らす。
それに、フェートンはきっぱりと頷いた。さらに本気の目で断言する。
「餓狼と古狸と化け狐と吸血蝙蝠の集会場です」
「……やな動物園ですね」
「ちなみにお嬢様は可憐な仔猫です」
「それ一瞬で食われますよね」
口からつい出た突っ込みに、フェートンは再び深刻に首肯した。
「実際そのようなものです。幼く、不幸に襲われたお嬢様に対して、毎度毎度あの手この手で利益を搾り取ろうとするものばかり。私が組合の会合に出席することがまだできればいいのですが、機密だなんだと言い訳を並べて代理も付き添いも認めないのです」
つまり、ヒューバード商会再建に立ちはだかる大きな障害、剣闘士商会組合への対応は商会長であるレレット自身が行うしかないわけだ。
「ところでフェートンさん」
ここまでの話を聞き終え、カタナが、居住まいを正し老紳士と向き合う。
「なんでしょうか」
フェートンも、薄闇に浮かんだ、少年の赤みがかった桃色の眼光を観察するように眺めた。
「どうして、今日いきなり現れたおれにここまで話してくれたんですか?」
少年は、別段興奮した様子もない平静な声で尋ねている。しかし、彼の眼は、三度獣のそれに酷似した光を湛えて相手を見ていた。
先刻、コーザに見せた誇り高い駿馬の眼でも、レレットの心を解きほぐした穏やかで力強い獅子の眼でもない。
その眼は例えば、天空から断崖に住む海鳥の雛を睥睨する猛禽であり。草原で角を持つ巨大な草食動物の群れに単身挑む虎であり。海底を彷徨い遥か彼方の獲物の気配を探る鮫であった。
憐憫も危険も困難も、目的を達成しない理由にはならない。だから、おれの戦いの邪魔をするな。という意志を込めた、それは警告である。
ただ話をしていた相手に向けるには剣呑な眼だが、カタナ自身、エインにあっさりとあしらわれた一件によって、その内心が手傷を負った獣に近い状態にあったことが要因だろう。
そんな物騒な眼光を浴びたフェートンだが、表面上は揺るがない。
「まあ、そうですな、年を取ると口が軽くなってどうも……いや、失言でした。答えますから、その眼をお止めください。流石に肝が冷えます」
そんな風に、諧謔を述べる余裕すら見せた。
「……」
無言で睨むカタナに、フェートンは軽く咳払いをしてから、ゆっくりと語る。
「一つは、あなたがしてくださったことの意味を、あなた自身に理解していただきたかったからです。それがお嬢様にとってどれほどの救いと慰めになったか」
そして続けて。
「もう一つ、あなたがしてくださったことの意味を、あなた自身に覚悟してもらわねばならなかったからです」
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理解と覚悟。似ているようで全く別の、二つの言葉に込められた意味は明らかだ。
確かについさっき、カタナは考えていた。自分にはそこまで大それたことをした自覚はないと。それを自覚してほしい――否、自覚せねばならないということなのか。
「あなたが、もしも剣闘の初戦に敗北し、このまま商会が廃業となった場合――今も危ういところで耐えているお嬢様は、おそらくもうまともに生きることもできません」
老人の瞳は、どこまでも人間のそれであり、だからこそ、カタナには他のどんな獣の瞳よりも恐ろしく見えた。




